胸から真っ赤な血を流す男は、黒色の服の裾を翻して飛び立った。
硬質な長靴に打たれた鋲や、腰に巻きつく皮の帯に付けられた金具を、闇の中だと言うのにそれ
自体が光っているのだと言うように反射させて、戸惑い一つ見せずに、死者の魂が流れる冬の道に
飛び込んだ。
闇よりも尚黒い眼差しには、些かの恐れも後悔もなかった。そこにあるのはただひらすらに、頑
強に己の意志を貫こうという光だけだった。
ストレイボウの囁きを一笑し、男は絶対的な自信を持って魂の渦の中に旅立った。
もう一度、別の世界で出会えるのだと、微笑んで。
Second Time Around
盲目のようになりそうな、何一つない、ただ広いだけの空間。そこに時折、ふわふわと震えるよ
うに発光する魂が漂い横切る。
それらは、長らく此処にいるストレイボウにとっては見慣れた風景だった。
最初此処に来た時は、あまりにも何もない光景に、愕然とした。
ストレイボウの時代には、神とその奇跡を記した聖書という物は絶対的権力を誇っており、そこ
で語られる死後の世界――天国と地獄は、幼い頃から聞かされ続けてきたものだった。
むろん、ストレイボウは自分が天国に行けるなどとは思っていない。魔法使いという教会にして
みれば限りなく異端である上に、最期の最期に友を裏切るという罪を犯した自分は、地獄の最下層
に落とし込められても仕方がなかった。
だが、眼の前に広がる風景は何か。
何一つとしてない、ただ魂が往来するだけの風景。
これが地獄だと言うのならばそれはあまりにも罪人を馬鹿にしているし、もしも天国だと言うの
なら福音を待ち望んでいた善人達を嘲る行為だ。
しかし、此処が死者の国である事は間違いがなかった。
同じく死したはずのウラヌスやハッシュがいて、アリシアもいたのだから。尤も、彼らは冬の道
の流れに逆らう事が出来ずに、有無を言う暇も与えられずに旅立ってしまったが。彼らに限らず、
ルクレチア国民は皆――魔王と化した勇者に殺された者は皆、冬の道に旅立ってしまった。
足早に魂の流れに従う彼らには、きっと何かを考える意志さえ残っていなかったのだろう。現に、
さっさと魂が流れる方向へと向かう者達に話しかけても何の反応もなかった。この場所、死者と生
者の狭間で立ち止まるには、立ち止ろうとする意志が必要らしい。
そしてストレイボウは、他にも立ち止る魂がいる中、ルクレチアの悲劇を知る人間としては最後
の一人として、この場所に残っていた。それは、恐らく此処で立ち止まるどの魂よりも長く此処に
留まっているだろう。
そんなストレイボウを置き去りにして、たった今、一つの意志ある魂が冬の道に溶け込んだ。
恐らく此処にいる誰よりも、強い光をたわめた黒い眼を持つ男。
長く此処に留まるストレイボウよりも強く確固たる意志をもった魂は、ストレイボウが望んでも
不可能だった、現世との行き来を可能にしていた。だが、その魂は待ち人を待たずして、冬の道を
歩く事を選んだ。
ストレイボウは、苦いものを孕んだ眼差しで、男がずっと眺めていた風景を見やる。
青味の強い空と、その下に広がる赤茶色の乾いた大地。その中に佇む、襤褸屑の塊のような人影。
その人影が、何度も何度も頭を撃ち抜くのを、ストレイボウも見てきた。しかし、その人影が動く
のを止めたところは、ストレイボウは一度として見ていない。
死ぬ事の出来なくなった身体。
永遠に生き続けねばならない不死の王。
元は只人であったはずの人間が、不死者になりさがったのは、その身に死を与えるはずだった男
が死んでしまった所為だ。他ならぬ、不死者自身の手で。
人として死ぬには、黒い眼差しを持つ男の銃弾が必要だった。そしてそう定めたのは他ならぬ不
死者だった。それほどまでに男が自分の中で深い存在になっている事に気付かず、自らの手で殺し、
そして己に死を齎す存在と定めた彼がいなくなった瞬間に、その身は時を刻む事を止めたのだ。
それほどに、想っていたのだ。
ずるずると身体を引き摺るようにして、燦々と日差しも眩しい砂の上を歩く不死者の姿に、スト
レイボウは、あいつはどうだったのだろうと思う。
一人の男の死で不死者になるほど己を歪めた男がいるように、己を歪めて魔王になった男をスト
レイボウは知っている。
肉色の翼を羽ばたかせて、一国を滅ぼした魔王。ルクレチア国民から口々に罵られる魔王が、実
はもとは人間で、勇者と謳われた存在であった事を知る者は今やいない。いやルクレチアという国
さえ、歴史の渦の中に埋没しており、人が魔王になるなどという悲劇はなかったものとされている。
だが、しかし、確かに人が魔王と化す悲劇は、かつて起こったのだ。
勇者が、魔王になるという悲劇が。
オルステッド。
ストレイボウは口腔の中だけで、未だ此処に来ない魂の名を呼ぶ。
勇者と呼ばれ、魔王と化した、そしてストレイボウの親友であり、ストレイボウが裏切った相手。
そして、ストレイボウが待ち続けている、存在。
自ら人ならぬ者へと堕ちていった事は、眼の前の景色にいる不死者もオルステッドも一緒だ。
不死者は、己に甘き死を齎す者をそうとは気付かずに殺し、失ってから気付いて、そこから生ま
れた感情によって己を歪ませた。
では、オルステッドはどうなのか。
絶望し、魔王に成り下がったオルステッド。その絶望の一端は、何処にあるのか。
親友だったストレイボウの裏切りか。それとも自らの手でストレイボウを殺さねばならなかった
事にあるのか。それとも、愛した女が自ら命を絶った事にあるのか。
忘れてしまいそうなくらいの過去に、何一つ口にせず背を向けて冬の道を歩いて去っていった女
の、ほっそりとした後ろ姿を思い出し、ストレイボウは歯噛みする。オルステッドの事など気に懸
ける意志さえ持たなかった、あの、女。その女の為に、オルステッドは魔王となったのだろうか。
歯ぎしりして、ストレイボウは愕然とする。
オルステッドの歪む原因がアリシアであると考えた瞬間に浮かんだ感情は、はっきりと嫉妬であ
った。
そして、目の前で訪れぬ死を待って悶え苦しむ不死者を、不死者たらしめる原因となった男を、
紛れもなく妬んだ。人を人ならざる者として歪めるほどの想いを、相手の中に残す事ができた、あ
の男が、羨ましかったのだ。
だから、オルステッドにとってのそれが、自分であれと願った。アリシアではなくて、自分の醜
い裏切りと死に様であれ、と。もしも、それがオルステッドの中で人としての生を歪めるほどのも
のであったのなら、ストレイボウは間違いなくオルステッドの中に何かを残せたのだ。そして、ス
トレイボウはオルステッドの中で、それほどの地位を占めていたのだ。彼を、人間ならざる者にで
きる力を持った、地位に。
だが。
ストレイボウに逢いに来る魂は、来ない。
オルステッドは、未だに、この場所に来ない。
もしかして、オルステッドも不死者になっており、そして誰かが――ストレイボウが迎えにやっ
て来るのを待っているのだろうか。
それが分かっているから、己を待っている事が分かっているから、あの黒髪の男は冬の道を歩く
事を決めたのだ。
長く暗い、魂が再びこの世に戻る為の、道。
それを歩き切って、それでもあの不死者が自分を待っているという自信が、あの男にはあったの
だ。そして再び見える自信が。その時にどんな姿形になっていても、逢いに行ける自信が、あった
のだろう。
しかし、ストレイボウは。
ストレイボウは、オルステッドが既に生きていない事を知っている。オルステッドが不死者にな
っているはずがない事は、彼が異世界から呼び出した英雄達によって、魂ごと粉々に破壊された事
からも明らかだ。その様子を、ストレイボウはこの場所で見ていたのだから。
粉々になったオルステッドの魂がどうなったのか、ストレイボウには分からない。もしかしたら、
世界中に散らばって、拾い上げられるのを待っているのかもしれない。そしてそれはストレイボウ
の役目なのかもしれない。
だが、ストレイボウにはそれを見つけ出す自信がない。
今こうして、此処から世界を見ていても、オルステッドの魂の欠片が何処にあるのか分からない
のだ。それならば、オルステッドの欠片は何処にもないのではないだろうか。或いは、ストレイボ
ウの知らぬ内に、冬の道に吸い込まれてしまったのだろうか。しかし、例え冬の道を歩いたところ
で、本当にオルステッドがそこにいるかも分からないのだ。
長く暗い冬の道。
それを、自信を持って渡り切るには、オルステッドとの思い出は、脆すぎる。
だから、ストレイボウはこうして、この場所で佇むしかないのだ。壊れてしまったオルステッド
の破片が、ストレイボウに惹かれてやって来るのを、待つしかない。
意を決して突き進んだ道の先にオルステッドがいない事に打ちのめされるよりも、待ち続けて来
ない事を嘆くほうが、楽だった。
あの男は、次でも出会える事を確信して、飛び立っていった。二度目があると信じて飛び立った。
そしてそれはきっと、その通りになるだろう。それだけの意志が、あの男にはある。
だが、ストレイボウにはそんな恐ろしい事はできなかった。
もしも本当に自分の裏切りでオルステッドが歪んだというのなら、出来たかもしれない。だがそ
れはストレイボウの希望的観測であり、オルステッドの魂とストレイボウの魂が響き合うなんて確
証は何処にも存在しない。
もしもオルステッドが探しに来てくれたなら。
己を歪めるほどの想いをストレイボウに持っていてくれたというのなら。
此処にいる、ストレイボウの魂に惹かれて、やって来てくれたなら。
都合の良い願望は、けれど訪れる気配はない。
だが、それが訪れなければ、オルステッドとストレイボウの、二度目は、やって来ない。
TitleはLady Gagaの『Second Time Around』から引用