マッドに、どうぞお帰りくださいと命令された女は、唇を震わせて声も出ないようだった。この
ような侮辱は受けた事がないと言わんばかりの表情に、サンダウンはその顔は、あの老人と同じ顔
だと思う。
肺病みの男に付き添っていた老人も、マッドの言葉を受けてそれに耐えかねて、そんな顔をして
いた。
まるで、どこか自分達が特別な存在であると言わんばかりに。
そしてそんな彼らを捜していると言うこの女も、やはり己を特別であると信じて疑っていないよ
うだ。
自分の全てが、この世の全てに影響を与えるのだと。
けれどもマッドにはそんなもの通用しないし、此処での王様はマッドだった。
孤独な蛇の星
「貴方は!」
激昂して立ち上がった女の甲高い声が響き渡った。
この私を誰だと思っているのですか!
女の台詞に、マッドは優雅に足を組んだまま、首を竦めただけだった。
「此処じゃあ、どんな肩書きも通用しねぇぞ。あんたが何処かの国の王女様であろうと、この列車
の中じゃあ何の意味もねぇ。」
マッドも立ち上がり、けれども女に視線を合わせず、ただただ見下ろした。
「あんたも、あの男も、爺さんも。誰かの為とか言いながら、それでも結局はこの列車をいつ降り
ようかと考えてんだろう?降りたいと考えてんだろう?それでも乗っているのは、可哀そうな誰
かを助ける自分に酔いしれてるからだろう?」
見下ろすマッドは、見苦しいほどに唇を振るわせ続ける女とはまるで対照的に、上品で繊細な指
を添えた手を差しだす。
「あんた、切符は?」
唐突に、全く別の事を話すマッドに、サンダウンは眉を顰めた。だが、サンダウンには分からな
くても、女にとっては意味の明白すぎる指摘であったらしい。醜い生き物のように動く唇を青紫に
変化させ、明らかに罪がばれたかのような表情で後退る。
その様が意味するところは、明らかであった。
「持ってねぇんだろう?あんた達は。」
覚悟もなく乗り込んだから、切符を持っていないのだ。一等も二等も、三等車の切符でさえ。
「切符を持ってねぇのに乗り込んだのは、あんたが本当は列車に乗るつもりなんかなかったからだ
ろう?」
「ええ、そうよ!」
開き直ったかのように叫んだ女は、眼を吊り上げて、紫紺の髪を振り乱す。
「私は、こんな列車になんてまだ乗りたくなかった。ええ、ええ、そうよ!私は神の洗礼を受けて
いるもの、恐ろしくなんかはないわ!けれどもまだ、行くべきではないのよ!けれども、それは
罪であると、それにあの二人をあのままにしておくと罪が焼き切れないというから。そんな事が
この私に降りかかるのは許されるはずがないのよ!」
けれども未練があったから、切符がないという大義名分で降ろされても良いように。もしくは列
車を降りても良い機会を見逃さずに。
「だったら、さっさと降りたらどうだ?まあ、降りても明かりもない道だ。行く先なんて分からね
ぇだろうが。その様子だと、蝋燭も捕まえられなかったんだろう?」
川を流れる無数の蝋燭。その灯りさえもなければ、この闇の中辿り着く事も出来ないだろう。そ
う告げるマッドの声を切り裂くように、閉じられていた扉が開け放たれた。
「いいや、そんな事はない!」
そういう叫びとともに。
マッドが視線を横眼だけでそちらに向ければ、まるで今まで飴壺の中にいたかのようなねっとり
とした鈍色の髪を長く垂らした青年が、幽鬼のように立っていた。その身体の節々からは、そこか
ら滴るのが奇妙なほどに透明で美しい雫が垂れていた。
今まで川に飛び込んでいたのだと言わんばかりの青年の姿に、女は大きく眼を見開いたが、その
眼に宿った喜色は、青年を見つけ出した事によるものではなく、青年が腕に抱えた箱の所為だろう。
箱に見えたそれは、白い紙であり、それは川に浮かべられた蝋燭を覆っていたものだった。
名前の書かれた蝋燭は、もしかしなくても、女の物であるのかもしれない。
「持って参りました。貴方の。」
青年はそう呟いて膝間づいた。ねっとりとした髪の間から剃刀色の眼を覗かせて、女に恭しく蝋
燭を献上する。
「良くやりましたわ。」
名誉を求める仕草の青年に、けれども女はそれを与えなかった。まるで御座なりのように付け添
えられた言葉は、青年の事など見向きもしていない。青年の手から蝋燭を取り上げ、蝋燭を覆い隠
していた白い紙を意気揚々と取り払う。
それさえあれば、もはや恐れるものは何もないのだ、と。
勝ち誇った女の眼はマッドを嘲笑う。
が、それは次の瞬間に凍り付いた。
白い紙を取り払われた蝋燭には、一筋の炎も灯っていなかった。燻りも、何一つもなく、骨のよ
うな細い蝋燭が、今にも折れそうに立っているだけだった。
唇を歪な形に開いた女は、愕然という言葉がそのまま当てはまる。その様に、マッドはやれやれ
と肩を竦めた。
「蝋燭の火を、持って来れるわけがないだろうが。」
俺達が。
マッドがそう囁いた声が、サンダウンには聞こえた。どういう意味かとマッドを見たが、マッド
は口を噤んでいる。
代わりに、女が震える声を絞り出した。
「こんな、こんな………。」
ぐずぐずとにじり寄る女の声は、次の瞬間、蝋燭を青年に投げつけると同時に翻った。
「自分の責任も、取れないっていうの、貴方は!」
蝋燭と共に、金属質の声を青年に投げつけると、女は紫紺の髪を一振りして青年を睨み付けた。
「所詮、貴方には、自分の所為で何が起きたのか直視する事も出来ないし、それに対して償う事も
出来ないのね!だから、皆の命が途切れても、自分の欲望しか見えないのよ!あの人とは違って!」
「そうじゃねぇだろう。」
マッドの苦い声は、女には聞こえなかったようだ。
女は身を翻すと、白いドレスの裾をはためかせて、下品に扉を開くと耳障りな足音を立てて遠ざ
かって行く。遠ざかる事に信じられないほどの清涼感を感じるサンダウンの横で、マッドは倒れた
蝋燭を拾い、ついでに女に手酷く当たり散らされた青年に手を差しだす。
「ありゃあ、世間知らずな上にヒステリー持ちだな。おい、お前、大丈夫か。」
「触るな!」
差し伸ばしされたマッドの手は、一見すると呆然自失しているかのようだった青年によって振り
払われた。
「俺達の事はあんたらには関係ないんだ。放っておいてくれ。」
「だったら、ずけずけと人の部屋に入って来るんじゃねぇよ。しかも散らかしやがって。」
蝋燭を拾い上げたマッドから、青年はそれをひったくると、黙れ、と吐き捨てた。蛇の威嚇のよ
うな青年の声に、だがマッドは恐れもしない。
「お前も、あれだな。この列車に乗るべきじゃねぇな。覚悟もねぇまま乗ったんだろう。それとも
誰かが列車に乗ったから、負けじと乗ったとか、か?」
マッドの言葉に、青年は土色の顔に微かに朱を昇らせた。どうやら図星であったらしい。
まさかあの女を追いかけたのか、とサンダウンは趣味の悪さにぞっとしたが、どうやらそうでは
ないようだ。
「あいつらの探してた、もう一人か。てめぇが追いかけたのは。」
「追いかけてなんかない。」
「でも、全員がそう思っている。そしてお前もそれを知ってるんだ。」
そうではないのだ、と。それを証明しようとしても、川に入って蝋燭を捕まえても、全てが残る
一人と比べられて終わる。
これから先も、ずっと。
「ずっとじゃねぇさ。ただ、あいつらと一緒にいたら、しばらくはそうだろうな。列車から降りる
までは。それが嫌なら、この列車を降りて、別の列車に乗るってのもありだが。」
「そんな事はしない。」
「逃げたと思われるのが嫌だからか。」
誰も気にしやしねぇのに。
呟くマッドに、しかし青年は嘲笑った。
「違う。俺は、蝋燭に火を灯してみせる。お前達みたいに、諦めたりしない。」
握り締めた白い蝋燭は、本当に朽ち果てた骨のようだ。
「誰かの炎を奪っても、火を点けてみせる。次。そうだ、次の川辺で、他人の蝋燭から火を奪う。」
「できるとは、思えねぇな。」
俺達に。
マッドの声は、諦めと言うよりも決然としていた。出来ないのではなく、してはならないのだ、
と言っているようだった。
「仮に、」
ゆったりと葉巻に火を点け、その葉巻を青年に突き付ける。
「こんなふうに灯ったとしても、多分、重すぎて持てねぇさ。」
「それでも、俺はあいつみたいに何も知らずに、無邪気に終着駅に行くのは、嫌だ。火を灯して、
今度こそあいつに勝ってみせるのさ。」
そして俺を馬鹿にした奴らを見返してやるのさ。
あの女も、そうして、気が付くだろう。
笑いながら蝋燭を抱え、ずりずりと這うようにして背を向ける青年に対し、マッドは微かに囁い
た。
「だったら良いな。」
重みを知らない青年から、マッドは葉巻を離して自分の口に咥えた。