男が姿を消した後、マッドは木張りの床を長靴で鳴らして、再びサンダウンの前の座席に座った。
赤い革張りの椅子に座ったマッドに、サンダウンは流石に口を開いた。
「……お前や私が思っている以上に、この列車には人が乗っているようだ。」
「ああ、そうみてぇだな。俺も車掌を捜してる時、色んな連中とすれ違った。」
色んな人間が乗っていたな、と語るマッドに、サンダウンはそれなら、とむっとする。
それなら、いい加減に鍵をかけたらどうか。
マッドは人も少ないから、という理由で鍵をかけていなかったが、こうも入れ替わり立ち代わり
部屋を間違えられたり、駆け込まれてきては落ち着く事も出来ないだろう。
だが、とうのマッド自身はさほど問題としていないようで、鍵をかけようと動く気配がない。
欠けたものの明星
サンダウンの不満を乗せたまま、列車はがたごとと音を立てて走り続ける。マッドはサンダウン
の不満など気づいていないかのように、窓べりに肘を突いて、遠くで煌めいている星を眺めている。
列車の窓の外は相変わらず夜の闇に包まれており、つやつやとした星だけが、真珠の粉を塗した
ように白々としていた。
あとは、転々とあちこちで、列をなしている街灯だけが。
それらを眼で追うマッドは、サンダウンなどこの場にいないかのように遠い視線をしている。
正直なところ、サンダウンとしても個室に鍵が掛かっていないという事が、そこまでの不満を抱
くような事には思えない。確かに先程からの扉の開け閉めは、決して愉快なものではないが、かと
いってそれで不満を抱いて、マッドを睨み付ける必要があるとか感じられなかった。
だが、サンダウンは今現在不満に思っているし、星と街灯を比べているかのようなマッドの横顔
をむっつりと睨み付けている。
やがて、マッドが溜め息を吐いた。
そして、窓の外から視線を外し、サンダウンに向き直る。それは、当初サンダウンと眼を合わせ
ると、ばつが悪そうな表情を浮かべていたものとは全くの別物だった。どこか仕方のなさそうな、
呆れたような、ちょうどサンダウンがマッドの金で食事やら酒を取っている時と同じような顔をし
ていた。
「あんた、一体何が不満だ。」
気が付いていないのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。当然だ。マッドはこ
の世の誰よりも――おそらく、サンダウンが過去に置き去りにした人間も含めて、誰よりもサンダ
ウンの顔色を読み取る事に長けている。
サンダウンの不満顔や、睨み付ける視線に気づかぬはずがない。
マッドが気付いたのを良い事に、サンダウンは不満を漏らした。
「これほどま入れ替わり立ち代わり人が入ってきても、お前は鍵をかけないつもりか。」
「そんな事があんたは不満なんか。まあ、あんたは人生引き籠りみたいなもんだからな。人間との
やりとりは嫌かもな。」
さらりとぼろくそに言われたような気もするが、サンダウンはそれには特に反応せず、代わりに
頷いておいた。
要は、意味もなく開け閉めされる扉に鍵をかける事が出来れば良いのだ。
そんなサンダウンに、マッドがもう一つ溜め息を吐いた。あんたはそれで良いのか、という溜め
息だ。サンダウンも、マッドの溜め息の理由くらい分かる。マッドがサンダウンの顔色を読み取れ
るように、サンダウンだってマッドの心情を理解する事くらいは出来るのだ。
それと、マッドの心情を理解した上で行動する事は、また別の話だが。
「もうすぐ駅だ。そこで、しばらくの間停車する。俺は用事があるからその駅で一度降りる。鍵を
かけんのはその後だ。」
「……………。」
駅に着くまでに誰かが入ってきたらどうするつもりだ。
サンダウンはそう思ったが、しかしサンダウンの懸念を嘲笑うかのように、列車は唐突に停車し
た。
窓の外を眺めれば、そこには光に満ち溢れた停車駅があった。今までの白々とした街灯だけしか
ない駅とは全く正反対の、黄色やオレンジの光が灯る街灯の下には、大勢の人影がざわめいていた。
オレンジの光は駅からも溢れ出している。
いや、正確には、駅を越えた向こう側からも。
一体何の光なのだろうか、と思っているうちにマッドが立ち上がり、すたすたと扉を開けて個室
から出て行ってしまう。それを見たサンダウンも、慌てて立ち上がりマッドを追いかける。
マッドを追いかけて通路に出れば、そこにはマッド以外にも大勢の人間がいて、列車から降りよ
うとしていた。一体何処から彼らは湧いてきたのか。それよりも、何故一度に皆が此処で降りよう
と考えたのか。それは、あのオレンジ色の光にあるのか。
マッドの後を追って人ごみを掻き分ければ、マッドは駅から出ていこうとしているところだった。
それを捕まえて、駅の向こう側を見やれば、やはり点々としたオレンジの光が連なって列を成して
いるところだった。
そして、そのオレンジの周りに人々が集まっている。中にはオレンジの光の中に分け入っている
者もいるようだ。
マッドは、追い縋ったサンダウンの手を振りほどこうともせず、人々の集まるオレンジの中に向
かう。正確には、オレンジの光を途中で途切れさせている場所――橋に。
近づくにつれ、サンダウンはオレンジの光が列を成している場所にあるのは川で、オレンジの光
は川に浮かべられた蝋燭の光だと分かった。小さな船に乗せられ、その周りを薄い紙で四角に囲ま
れた蝋燭は揺らめきながら川を流れていく。
光の中に分け入っている人々は、どうやらそれを捕まえようとしているようだ。橋にいる人々は
流れるそれをただ眺めているだけ。マッドは、橋の上へと行く。
橋の上から光の流れを見下ろし、サンダウンはマッドに問うた。
「……これを見る為に?」
すると、マッドは頷く。
「あの蝋燭を乗せた船には、列車に乗ってる人間の名前が書かれてる。列車に乗ってる人間は、列
車に乗る前にあの蝋燭を川に流した。」
「………私はそんな事した記憶はない。」
「全員が全員、そうしたわけじゃねぇ。あんたみたいな奴だっているさ。」
「………お前も流したのか?」
「ああ。そんで、橋の下にいる奴らは、自分の名前が書かれた蝋燭を見つけて、捕まえようとして
んのさ。」
「………捕まえて、何か意味があるのか?」
「さあ……。」
マッドは興味がなさそうに葉巻に火を点ける。その火が、ぽつりと一滴川に向かって落ちた。
マッド自身は、彼の名を書いた蝋燭を捜しに行くつもりはないようだ。そもそも、マッドはどん
な名を書いたというのだろう。通名であるその名を書いたのか、それとも誰も知らないマッドの本
名を書いたのか。
サンダウンの疑問に対して、突然一陣の風が吹き荒んだ。途端に、橋の下にいる人々の口から悲
鳴が漏れた。どうやら水面が揺れて、蝋燭を乗せた船も激しく揺さぶられたようだ。沈んでしまう
かもしれない、と。
しかしそれ以上にサンダウンが気にしたのは、頭に乗せていた古びた帽子が空に舞い上げられて
しまった事だ。あ、と手を伸ばした時には帽子は川へと落ちている。
「別に良いんじゃねぇの?あんなぼろい帽子。」
マッドは本当にどうでも良さそうな口調で言ったが、サンダウンとしては愛用の帽子を見捨てる
わけにはいかない。
帽子を追いかけて土手を下り、悲鳴を上げる人々を押しのけて、水面が揺れる川へと突っ込んで
いく。川の水は、水素のように透明で、そして少しの冷たさも感じなかったがサンダウンにはどう
でも良い事だった。
型崩れしたサンダウンの愛用の帽子は、蝋燭を乗せた船の一つに引っ掛かっていた。帽子の重み
で傾きかけた船は、今にも沈みそうなところで辛うじてバランスを保ち、水の上を滑っていた。
サンダウンはその船から帽子を持ち上げ、自分の頭に乗せようとする。
しかし、サンダウンの帽子の取り方が些か乱暴すぎたのか、船は完全にバランスを崩し、サンダ
ウンが見ている目の前で水に浸食されていく。
その光景を見たサンダウンは、咄嗟に船を手で支えてしまった。そして船の中に保った水を捨て、
再び水に浮かべようとしたが、何故かもう船は水に浮かぼうとせず、サンダウンが手を離そうとす
るたびに傾いて沈もうとするのだった。
途方に暮れたサンダウンは、とりあえずそれを持ち上げて川べりまで持っていく。砂利だらけの
地面に置くと、蝋燭にはありふれた名前が書かれていた。煌々と光り続ける蝋燭は、水に濡れた周
りの囲いの所為で、輝いているが今にも途切れそうにも見える。
どうすれば良いのか、と思っていたが、他に何の手も思いつかないので一人で一度列車に戻り、
こっそりと自分達の部屋のベッドの上に置く。紙で出来た囲いの代わりに、部屋に置いてあるラン
プの一つを拝借し、中の芯を抜いて、代わりに蝋燭を入れておいた。
これで良し、と思っていると、突然、背後の扉が開いた。
ぎょっとしていると、そこから顔を覗かせたのは、この部屋のもう一人の住人であるマッドであ
り、そしてマッドは壮年の、サンダウンと対して歳の変わらなさそうな男に肩を貸している。そし
て、マッドの後ろには、白い髭を長く蓄えた老人がいた。