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  匂いがすごい、と言って、マッドは列車の窓を大きく開いた。先程まで食べていたサンドウィッ
 チの匂いが、確かに色濃く漂っている。ずっとその匂いを嗅いでいた所為で、鼻は麻痺していたよ
 うだが、新鮮な空気が流れ込むと、ソースの匂いが気になってきた。
  運河からの潮の匂いがソースの匂いを消し飛ばしている間、マッドはちょっと窓から身を乗り出
 して、辺りを見回していたりする。その光景に、危ないぞ、と言おうかどうしようかサンダウンは
 迷って、結局黙り込んだ。サンダウンに口出しされる事をマッドが好んでいない事は、良く知って
 いたからだ。
  ただ、代わりにマッドの様子をつぶさに観察し、マッドが列車から転がり落ちるなんて事があっ
 た場合はすぐに手を伸ばせるように身構えた。




  後に続くもの





  長い長い運河からは、濃淡のある潮の香りが漂ってくる。列車の走る音で何もかもが掻き消され
 てしまっているが、本当ならば下から、運河の流れる水の音が太く聞こえてくるはずなのかもしれ
 ない。
  星やら何やらをも飲み込んだ運河は、相変わらず黒々として、そして映った星を浪間で反射して
 煌めいている。
  よほど、底は深いのだろうか。
  だが、だからといって落ちて助かる保証など何処にもありはしない。要するに、危ない事に変わ
 りはないのだ。
  だが、幸いにして、サンダウンが列車から転がり落ちるマッドを捕まえる、という事態は発生し
 なかった。そんな事が発生するよりも前に、マッドが窓から首をひっこめたからだ。
  サンダウンはほっとしたが、一方でマッドが窓から首をひっこめた理由について思い当り、くる
 りと首をそちらの方に向ける。マッドもそれに気づいたから、窓から身体を乗り出すのを止めたの
 だ。サンダウンが見ている方向を眺めている。
  先殿、きわどい服装をした少女が出て行ったばかりの扉の向こうで、何やらひたひたと足音がし
 ているのだ。几帳面で何処か衣擦れのような、酷く存在感の薄い足音だったが、けれどもサンダウ
 ンとマッドの耳にははっきりと聞き取れた。
  常人とは違う足音に、サンダウンが少しばかり緊張を孕んだ眼で扉を見ていると、あっという間
 に閉じられていた扉が開かれた。
  がらがらという音と共に開かれた扉の向こう側には、一瞬誰もいないのかと思ったが、少し視線
 を転じれば、小柄な老人が立っていた。
  顔も皺だらけで、眼は果たして開いているのかどうかも分からない。瞼の際に微かな光が湛えら
 れているからきっと開いているのだろう。髪の毛は薄く真っ白で、対照的に着ている服は黒い。た
 だし、その服は西部ではあまり見慣れぬものだった。強いて言うならば、遠い異国から来た書物で
 見る程度の、アジア系の服だ。
  しかし、さて、先程の少女に関してもそうなのだが、アジア系の民族が入ってこれるほど、この
 列車の一等席は安くはない。サンダウンが知るアジア系移民といえば、基本的には出稼ぎに来た貧
 しい人々が大半で、金鉱脈による一攫千金を夢見ているようなのがほとんどだった。だから、彼ら
 が、列車に乗り、且つ一等席にやってこれるとは思えなかったのだ。
  だが、老人は一等席だなんだという権利になど一向に物怖じもせず、恐らくマッドが選んだので
 あろう豪華な個室に堂々と入ってきた。小さくて皺だらけではあったが、けれどもその動きはかく
 しゃくとして、むしろ老いを感じさせない隙のなさがあった。
  さて、無断で堂々と入ってきた老人に対して、マッドは特に気を悪くするわけでもなく、窓の外
 へと乗り出していた身体を元の位置に戻し、ふかふかの赤いカバーのついた座席に座り直す。そし
 て老人に黒い眼を向けた。

 「よう、爺さん。俺達に何か用か?」

  マッドの朗らかな声音に、老人の皺だらけの顔がますます皺だらけになった。どうやら笑ったよ
 うだ。

 「いやいや、人を捜しておってな。若者を二人、見かけんかったかね?」

    老人の問いかけに、マッドはサンダウンと顔を見合わせると、いいや、と首を横に振った。

 「目の保養になるような女のガキなら見かけたけどな。それとは違うんだろ?」
 「残念な事に違うようじゃのう。」

    老人もマッドと同じくらい朗らかな声に笑みを持たせると、よっこいしょ、とマッドの隣の座席
 に座った。
  かくしゃくとはしているが、少し疲れたのだろう。
  だが、一等車両の座席――しかも個室だ――に堂々と座り込む辺り、肝の太さは筋金入りなのか
 もしれない。
  マッドは全く気にしていないようなので、サンダウンも咎める事はしないが。
    座席に腰を下ろし、人心地ついたのか、老人は小さく溜め息を吐いた。
 
   「まあ、儂よりも早く出発しとったからのう。一つ早い列車に乗ったのかもしれん。」
 「それなら現地で会えるだろ。行先は一緒なんだろ?」

  マッドの問いかけに、老人はゆったりと頷いた。

   「そうじゃな。間違って何処かで降りたりせん限りは、大丈夫じゃろう。」
 「こんな真夜中に、誰も降りたりしねぇよ。」

  小さく呟くように笑うマッドの台詞に、サンダウンは奇妙な物を感じた。この列車は――老人の
 いう二人の若者が乗って行ったのだろうという列車も含め、夜にしか動かないものなのだろうか。
 サンダウンは何も考えずに乗っているが、もしかしたら夜行列車なのかもしれない。

   「でも、若者二人って、孫か何かか?」

    マッドの問いかけに、いやいや、と老人は首を横に振った。

 「まあ、年齢的には孫のようなものかもしれんが。だが、孫のように甘やかす事は出来んかったの
  う………。本当ならば、もっと甘やかしてやっても良かったかもしれんが。あげく、三人のうち
  一人はこの旅にも連れていけん。それが、あやつの為ではあるんじゃが……。」
 「別に、爺さんに甘やかされてもそれが良いとは思えねぇけどな。俺も自分の爺さんに甘やかして
  もらった記憶はねぇし。」

  というか、その前に死んでたしな。
  マッドがからりとした声で言って、窓べりに肘を突いた。

 「それに、一人残してきたって事は、そいつに全部任せるって事だろ?甘やかされたガキに、何か
  は知らねぇが、任す事は出来ねぇんじゃねぇの。」
 「そうかもしれん。」

  しばらくの間、老人は何かを考え込むかのように、もしくは自分を納得させるかのように、ひと
 しきり頷いていた。
  やがて、ゆっくりと伸びをして、席を立つ。

 「さて、もう行こうかのう。」
 「別に、此処にいても良いんだぜ?」
 「いやいや。儂も一応席は取っておるんでな。もしも二人が先に行っておるんなら、駅で降りる時、
  その席におったほうが二人が見つけやすかろうて。」

  ではな、と言い、老人は深々と礼をすると、扉をがらがらと開いて誰もいない通路へと、着た時
 と同じようにひっそりと出て行った。