サンダウンは、マッドの手を壊れるかと思うほどに決して離さぬようにと強く握り締め、列車の
通路を駆け抜ける。
ガタガタと立てつけの悪い音を立てる床を蹴るその合間合間から、海から抜け出そうとする憐れ
な海馬の如き手が、無数に伸ばされる。
誰もいないと思っていた個室の扉は開き、人通りもなかった通路にも、一体今まで何処にいたの
かと思うほど、人々の苦悶に満ちた声が満ち溢れ、ゆらりゆらりと白い手が伸ばされる。彼らは口
々に正への渇望を吐き出し、覚悟なんてものは知らないかのように列車に乗っている事も忘れて、
生ける炎に舌を伸ばす。
「あんなの、当てつけで胸を刺しただけ。」
「魔王に殺されただけで、何も悪い事なんてしていないのに。」
「殺すつもりなんてなかったのに、あいつは俺を殺したんだ。」
「我らが死んでしまったら、あの国は滅んでしまう。」
其々が其々の望みから、欲求から、そして身勝手から、他人の炎を奪おうとしている。
だが、サンダウンは奪われるわけにはいかない。この炎は覚悟一つないままに生きた何者かに奪
われて良いものではない。
サンダウンの手にあって、先々を照らす炎は、サンダウンを世界と繋ぐもの、サンダウンを殺す
もの、サンダウンに人間である事を知らしめるもの。
そして、サンダウンが殺した。
戦乱の神に対抗する者
列車の扉を蹴破るように開けて、サンダウンは列車から飛び降りる。赤い光に照らされた駅は、
しかし今までとは違って無人ではなく、サンダウンが腕にランプを抱えて立ち上がった瞬間に、闇
の中に佇む人々が一斉にそちらを見た。
不気味なほど巨大な眼を見開いて、真っ白な手を蝋のように伸ばしてサンダウンを追い掛ける。
正確にはサンダウンの手の中にあるランプを。
そしてサンダウンが手を握りしめているマッドを。
「赤い炎を。」
その中を潜り抜けるのだ、と。既に列車に置き去りにした鬱金色の青年の声が、しかしはっきり
と耳元で聞こえた。
青年の声に従って、群がる蝋燭のような手を掻い潜ってサンダウンは駅を通り抜ける。
駅の向こう、行く先には草原に幾つもの岩が突き刺さって、その中央で赤い炎が狂おしいほどに
燃え盛っていた。
それはまるで、振り向かずとも分かる背後の死人の狂乱に対抗するかのよう。
死人が欲しがり、けれども、きっと生者でなくては動かす事の出来ない炎だ。
夜の縁を焦がす炎を目前にしたところで、手を繋いだマッドが声を張り上げた。
「キッド、放せ!」
これ以上は。
マッドの声は微かに引き攣っていた。今まで聞いた事のないマッドの声音に、しかしサンダウン
は聞き届けるわけにはいかなかった。
こんな、死人の群がる場所に、よりにもよって誰よりも何もかもを覚悟したマッドを、置いてい
けるわけがなかった。
諦めたのではなく、ただただ己の運命を覚悟していた、自分で全ての道筋を決めたのは、あの場
所においてマッドだけだったのに。
そして、サンダウンは、マッドの道筋の最期の決定を認めるわけにはいかなかった。
「キッド!」
マッドが再び声を振り上げる。
目の前には岩に取り囲まれた炎が。
マッドはそれを恐れているのではない。ただ、サンダウンのしている事の意味が分からないのだ
ろう。
賞金稼ぎの手を死に物狂いで握り締めて、死者の木霊の群れから救い上げようと必死になってい
るサンダウンが、マッドには理解できないのだ。
なにせ、マッドが列車に乗る羽目になったのは、サンダウンの所為なのだから。マッドはこのま
ま列車に乗り続け、終点へと向かうべきなのだ。
それをサンダウンが邪魔する理由が分からないのだ。
マッドを殺したのは、サンダウンなのだから。
そう。
賞金首サンダウン・キッドは、賞金稼ぎマッド・ドッグの胸を撃ち抜いた。
その銃の腕に違わず、寸分の狂いもなく。
「俺を撃ち抜いたのは、あんただろう。」
サンダウンの手に繊細な手を握りしめられたままで、マッドはサンダウンに事実を突き付ける。
マッドはサンダウンの目の前に、胸から血を流して倒れた。サンダウンの足元に、雷に打たれた立
木のように。
「別に、それを詰るつもりはねぇよ。あんたは当たり前の事をしただけなんだからな。」
そう、マッドはそうなる事を覚悟していた。だから、何が起ころうともサンダウンを詰ったりは
しないだろう。
「でも、あんたはなんで俺を連れて行こうとしてるんだ。」
マッドを撃ち抜いておきながら、マッドの炎の灯るランプを抱え、どうして生者の道を駆け抜け
ようとしているのか。
そんな事も、マッドは、分からないのか。
「……お前が。」
サンダウンは、別に化け物でも、英雄でもなくて、ただただ普通の人間なのだ。行く先を違えな
い勇者ではない。
当たり前に、後悔だってするのだ。
失われた物を、自分で壊してしまった物を、嘆くように。
「……お前が、いない事が。」
それを、後悔して何が悪いのか。誤った道を正そうとして、何が悪いのか。これまで何一つとし
て求めてこなかったサンダウンが、たった一つ、世界を捻じ曲げてでも何かを取り戻そうとする事
の、何が悪いというのだろう。
たった一つ、報いが欲しいと願うのは、それほどに悪なのだろうか。
まして、それが手元にあるというのなら。
握り締めたマッドの手は、海の底に沈んだ骨のようでもなくて、氷河に閉ざされた貝殻のようで
もなくて、ひたすらに温かい。マッドの手など握り締めた事はなかったけれども、けれどもマッド
の手が冷たいはずがないのだ。
だからサンダウンは、目の前の魂を、諦める事が出来ない。
例えばもし、目前に迫る赤い炎を、この魂を抱えて潜る為には千の命が必要であると言うならば
サンダウンは千の命を引き裂いただろうし、万の花が散る必要があるというのなら世の中の花と言
う花を悉く引き千切っただろう。
背後に迫る、死者の呼び声を見捨てろというのなら、サンダウンには躊躇う必要もない。
もしもマッド一人を見捨てれば、背後で生を諦めきれぬ死者全てを助ける事が出来るのだと言わ
れても、サンダウンにはそんな天秤は意味をなさなかった。
命というものの算出は、林檎のように単純に出来ないのだ。
一の命が、無数の命よりも勝る事は、この世では日常茶飯事だ。
時には、自分の命よりも。
「キッド!」
燃え盛る赤い炎に、マッドを無理やり引き摺るように、一緒に飛び込んだ瞬間、マッドがもう一
度、血のような叫びを上げた。
途端に、サンダウンの身体は蝋燭の芯のように燃え上った。
呆然とするよりも先に、マッドが黒く突きぬけて存在している事に、無性に安堵した。マッドに
焔が燃え移らない事にも。
しかしサンダウンとマッドの手は繋がれたままだ。
繋いだ手をそのまま灰にしようとしてマッドを振り払うサンダウンに、けれどもマッドは、今度
はマッドが手を離さない。
「馬鹿じゃねぇのか、あんたは。」
じわり、とマッドの手に煙が移っていく。
いけない、と思った瞬間に、
「仕方のねぇおっさんだな。」
マッドが呆れたような、同時に何もかもを許したような声を、炎で焼き尽くした。