マッドの言葉など鼻で笑う青年は、ねっとりと這うようにして扉を開く。
が、扉を開いて一歩外に出た瞬間、その身体が棒でも飲み込んだかのように強張り、立ち尽くし
た。
しかし、何があったのか、それはサンダウンからもマッドからも見えなかった。青年が棒立ちに
なった途端、扉は閉まり、通路の風景は隠されてしまったからだ。
その直後に、くぐもった魂消るような悲鳴が、閉ざされた扉の奥から聞こえたが、それについて
二人が何か反応を示す事は出来なかった。
例えば、様子を見る為に、或いは助ける為に、扉を開くという事は出来なかったのだ。
何故ならば、二人が扉を開くよりも先に、たった今出て言ったばかりの、そして断末魔を放った
であろう青年と入れ替わるように、その手に蝋燭を持った鬱金色の髪の青年が、酷く疲れたような
顔で扉を開いたからだ。
墜落する鷲
油っぽい鈍色の影はもはや何処にもなく、代わりに部屋を見渡す青年は、少しやつれているよう
に見えるが、けれどもそれ以外は至って健康的に見えた。がっしりとした上背も、硬く引き締めら
れた唇も、からりと乾いていて、鬱金色の髪も列車の灯りを受けてきらきらと輝いていた。
「申し訳ない……連れがどうやら失礼をしたようだ。」
朴訥とした口調で、青年は疲労した顔に微かな笑みを湛えて、サンダウンとマッドに言った。
「この列車に乗り込んだのを見たから、もう覚悟は決めたのだろうと思っていたのだけれども、ど
うやら違ったようで。それもこれも、私の所為なのだけれども、貴方がたには申し訳のない事を
した。」
手の中の蝋燭を弄りながら、青年は困ったように呟いた。
どうやら、この青年が、一連の中に出てくる最後の一人のようだ。肺病の男と老人が告げた片割
れ。そして今、一人で途方に暮れたように立ち尽くしている。
「もしかしたら、私達は乗るべき列車を間違えたのかもしれない。私は、私達はあちこちで迷惑を
かけている。」
「間違えちゃいねぇさ。間違えてたら、この列車には乗れねぇ。さっきてめぇが自分で言ったよう
に、覚悟が出来てねぇだけだ。」
マッドは葉巻を燻らせながら、独り言のように、けれども青年に向けて言った。それは、マッド
がこの列車に乗ってから、何度か言い放った台詞だった。
その台詞を聞かされた人々は、皆が激昂するか失望するかの表情を浮かべたのだが。
けれども、青年は、そのどちらの表情も浮かべなかった。ただ、困ったように、けれどもマッド
の台詞に対して頷いた。
それはあの、肺病の男の顔色と同じ、何かを決めて諦めたような表情だった。
「そう、この列車に乗る事は多分、正しい事なんだと思う。でも、私達が今乗る事は、間違ってい
たのかも。だってみんな、乗りたがっていなかったから。それを無理やり乗せてしまったのは、
間違いだったのかもしれない。」
「無理やり乗せたのか?」
「いや……立ち止まっていたから、私が真っ先に乗り込んだ。そうすればついて来るだろうと思っ
ていた。」
そうして、案の定そうなった。
肺病の男、顰め面の老人、夢の国を彷徨い続けているような女、そして油の中から這い出したば
かりのような青年。その他諸々の誰か。彼らは鬱金色の光を追いかけて、列車に乗ったのだ。それ
は、恨みによるものか保身の為かは分からなかったが、とにかく青年が列車に飛び乗ったを見て、
自分達もと飛び乗ったのだ。
暗い夜の底を漂う事を止めて。
だったら、とマッドの手が繊細に動いて、灰皿を何処からともなく引き寄せて、加えていた葉巻
をそこに凭せ掛けた。
甘い白い煙が一筋の線を作る。
その煙は、サンダウンが肺病を恐れて開け放った窓から、ひらりとたなびいて、すぐに消え去っ
てしまった。
「てめぇだけの所為じゃねぇだろう。」
此処に来なくてはならなくなった理由はともかくとして。彼らが列車に飛び乗ったのは、彼らが
決めた事だ。
マッドは消えてしまった煙を追いかけながら、青年に向けて言った。
「むしろ、まああんな状態で乗り込まれるのは他の乗客には迷惑だが、ふらふらし続けるよりも、
真っ当な状態になれたんだ。最終的には感謝されるだろうよ。」
でも、と青年は困った表情を崩さない。
憂いの源は延々と脈々と続くのだと言うような顔で、蝋燭を見つめる。
「彼らは、次の駅で降りようと画策している。」
遠くの空が、赤く染め上げられている。青年はそちらの方を見て、マッドも同じように窓の外の
闇夜の裾が赤く染まっているのを確認した。
何処かで、巨大な赤い炎が燃え立っているのだろうか。
「あの、篝火に、蝋燭を近づけようとして、そして門をくぐろうとしている。」
「蝋燭なんて、持ってねぇだろう?てめぇが持ってるのが、あのガキの持ってた蝋燭だろう?それ
以外に川から引き揚げた蝋燭なんてないだろう?」
ねっとりと油っぽい手で、女に献上しようとして、けれども炎が燃え尽きていたが故に跳ね除け
られたあの蝋燭は、今は鬱金色の青年の手の中にある。
だが、青年は首を横に振った。
「彼らがどんな動きをするのかなんて、今までだって読み取れた事がないのに、分かるわけがない。
思いもかけない方法を取ってくる可能性だってある。そう、自分の命を目の前で食い破ってみせ
るような、」
「随分と弱気じゃねぇか。一度、食い破ってるところを見てるんなら、二度目はなんて事ねぇだろ。」
マッドの台詞に、サンダウンは奇妙に思い思わずマッドの顔を見た。相変わらず何処か皮肉めい
た笑みを湛えた表情だが、マッドの台詞からはまるで、今目の前にいる青年と以前から知り合いで
あったかのような印象を受けたのだ。
どういう事なのだろうかと思ってマッドを眺めるが、マッドはサンダウンの視線などまるで気に
していない。
ただ、視線は燃え盛る赤い光を見ている。
そんなマッドの視線に、青年は緩く、沈鬱な溜め息を吐いた。
「一度見たからと言って、二度目は耐えられるかと言うと、きっと私は耐えられない。むしろ、二
度三度と繰り返されるたびに、破綻に近づいていく。私はそこまで強靭には出来ていない。きっ
と彼も、彼女も、誰もかも。私が引き連れてきたのは、そういう人間ばかりだ。」
だからこそ。
「気を付けた方が良い。彼らは何をしでかすか分からない。私にも、本当に、もう、分からないん
だ。きっと、私と同じで何を犠牲にしても良いと考えている。」
貴方は、と青年は言い知れない瞳でマッドを見て、そしてささくれ立った指を一本伸ばし、サン
ダウンを指差す。
「この男を次の駅で降ろすつもりなんだろう?」
サンダウンを真正面から見据えた青年の台詞に、サンダウンは一体何の話をしているのか分から
なかった。
次の駅で降ろす。
何をいきなり言うのか。
サンダウンは、マッドと一緒に列車に乗っているのだ。それとも自分達の到着駅は次の駅なのだ
ろうか。
切符も地図も持っていないサンダウンは、ふと不安に駆られた。
だが、そんな不安に対してマッドは何ら回答を出すでもなく、青年の言葉に頷いただけだった。
「ああ。こいつは、次の駅で降ろす。俺は、その為に此処にいる。」
「…………マッド?」
なにか、あの赤い炎に煽られるように、とてつもない不安に駆られて、サンダウンはマッドを見
た。マッドも赤い炎から眼を離して、サンダウンを見返した。
そして、マッドらしくなく、何かを決めかねるかのように少し口ごもっていたが、すぐに決然と
した色を両の黒眼に灯して、サンダウンに言い放った。
「あんたは、次の駅で降りるんだ。あんたは、この先には進めない。進めるのは、俺だけだ。」
サンダウンを置き去りにするのだ、と。
マッドは暗にそう呟いた。