仄暗い森の中を進んでいく。
雪が降り積もると、普通は雪灯りで暗さは消し飛ぶはずなのだが、森の奥へ奥へと向かっている所
為か、昼だと言うのに夜のように暗い。
針葉樹の多い森ならば、それは猶更だ。そして、深く黒ずんだ緑に落ちた葉の隙間から覗く空も、
落ち窪んだような灰色に染まっている。
日の差さぬ森は、そこかしこに闇が蹲っていた。
普通の人間ならば、立ち入ることを躊躇うような場所だ。
けれども、人からの迫害故に瘴気を振り乱す少年は、些かの揺るぎもない足取りで森の奥へと進む。
サンダウンの背の高い影を追いかけて。
悪魔の炎が、欲しいと言った。
世界を変える為に、己に優しさの欠片もない世界を変える為に、悪魔の慈悲が欲しいと叫んだ。そ
ういう少年の名を、サンダウンは知らない事に、ふと気が付いた。だがすぐに、知ったところで意味
はないと考え直す。
サンダウンの魂には悪魔の炎が宿っている。だが、だからと言って悪魔のように名前を知ってどう
こうする事はない。いや、そもそも名前など知らずとも、悪魔の炎に触れさせることはできるのだ。
そして逆に、サンダウンの名前が誰かに知られたところで困りもしない。サンダウンの名前など、所
詮、ただの記号に過ぎないのだ。
マッドが、その名前を呼ばない限りは。
「どこまで行くつもりだ?」
流石に焦れてきたのか、少年が鈍色の髪を一振りして、サンダウンに問うた。せっかくのマッドの
好意で温められた身体は、再び雪でずぶ濡れだ。寒いのだろう、手が震えている。けれども、少年自
身は、自分の身体が訴えている寒さに気が付いていないのか、眼をぎらつかせてこちらを睨むばかり
だ。
「この先だ。」
少年の問いに、サンダウンは素っ気なく答えた。
別に、何処であっても構わない。悪魔の炎に触れるのは、サンダウン一人がいればどうとでも出来
る事なのだから、別に森の奥深くに行く必要はない。
ただ、サンダウンがそうしたかっただけだ。
マッドが昼寝を貪っている木の家から、出来る限り遠ざかっておきたかった。悪魔の炎など、マッ
ドは触れる必要もないし、見る必要もない。
悪魔の炎を、全身から吹き零れさせているサンダウンの姿も。
サンダウンの身体は、今や蒼褪めた炎に覆われていた。触れる事さえ躊躇われる、しかし微塵の温
もりもない、ひたすらに凍てつく炎。ただただ、悪魔が光あれと呟いただけの、光を見る為だけの、
足元を照らす為だけの炎。
炎で雪が解ける事はなく、むしろ雪さえ凍り付く。
少年は気が付いただろうか。この時、サンダウンの足跡が、地面に残っていない事を。純粋な炎に
なりつつあるサンダウンは、既に人としての形を成していない。依代のカボチャだけが、ぼんやりと
闇の中に浮かんでいるだけなのだが。
「いい加減にしろよ!」
少年が叫ぶ。何も知らないままに、叫ぶ。
「早く、炎を見せろよ!何処にあるんだ!」
鈍色の、ねっとりした髪を振り乱し、魔法使いの少年が、叫ぶ。瘴気がぐっと濃くなり、精霊達さ
えも寄せ付けない。
けれども、悪魔の炎は、その瘴気さえも凍り付かせる。
「見えているだろう………?」
サンダウンはようやく立ち止まり、ただし少年を振り返らぬままに告げた。
少年の立ち止まる音が響く。そこから漂うのは、怪訝な気配だ。
怪訝が立ち昇る瘴気を一瞬留めた。その隙を、悪魔の炎は、鬼火は見逃さない。抜け目のない罪人
の魂は、瞬く暇も与えず、火の粉をぱっと飛び散らせた。
「な…………っ!」
少年の驚愕の声が吐き出された。けれどもそれは完全には言葉にならず、途中で掻き消え、ただ大
きな息を吐いただけになった。
蒼褪めた火の粉が飛び移った先は、少年の痩せこけた、そして少年が憎み恨み続けてきた刺青の上
だった。そして、刺青の上を這うように、炎は広がっていく。
「あ………ああああっ!」
ようやく、少年が声らしい声を長々と上げた。ただし、言葉の態を成してはいなかったが。
刺青を舐めつくすように広がる炎を見て、サンダウンはやはりそこから炎は広がるか、と感心する。
悪魔の炎は、他人の負を好むのだ、と。
少年の腕は既に完全に、青い炎と化している。そしてそれは、勢いを留める事無く、一切の焦げる
臭いも立てず、無味無臭で少年の胴体へと燃え広がる。
炎に覆われる少年の顔が驚愕に引き攣り、その剃刀色の眼が零れん落ちんばかりに広がり、同じよ
うに口も叫び声を上げるままに広がっている。その唇には、炎に温められた所為か、霜が貼り付いて
いた。
「………そんな顔をする事はないだろう?」
炎が顔まで迫り、はっきりと後悔の色を滲ませる少年の眼に、サンダウンは言う。
「お前が、悪魔の炎に触れたいと、言ったのだから。」
悪魔の慈悲は、ひたすらに気紛れだ。だから、温かく見えても、実際はコキュートスの如く冷やや
かだ。縋るようなものではない。それは、ただ罪人の上に落ちかかるものだ。
「そうだ、お前はお前を虐げた人間達の望むがままに、罪人になった。」
サンダウンはそんな説明をしなかった。ただ、少年が望むがままに、悪魔の炎に触れさせた。既に
炎の中で、眼だけを蠢かせている少年は、恐怖も後悔も通り過ぎて、望みを叶えたサンダウンを怒り
を込めた眼で睨み付けている。
己の望みは、こんなものではない、と激しく訴えて。
だが、それはサンダウンの知ったことではない。サンダウンに悪魔の炎に触れた者の末路を、少年
に語ってやる義理などない。
激しく燃えたてながら、サンダウンに迫りくる新しい鬼火に、サンダウンは小さな一瞥をくれた。
それともう一つ、いつの間に現れたのか、大鎌による一線を。
それは違う事無く、唯一残っていた少年の恨みの籠った両眼を真っ二つに割った。
自らの眼玉を依代として燃え盛った少年は、依代を叩き潰され、あっという間に、呆気なく、雪の
上に霧散した。
「…………うきゅ。」
マッドは小さく鳴き声を上げて、昼寝から眼を覚ました。自分でも妙な声を上げたと思って視線を
巡らせれば、トカゲの脚が頬にめり込んでいたかららしい。
幸せそうな顔で眠るトカゲ達を、もふもふと掻き分けてトカゲ山から顔を出せば、はて、鬼火の気
配が何処にもない。
寝ぼけた頭をくるりと動かして、トカゲ達の鼻息を首筋に感じつつ、サンダウンの姿を探す。が、
何処にもない。
「あのおっさん、また、どこにいきやがった。」
あのカボチャ頭は、マッドが眼を離すと勝手に何処かに行こうとする性質があるらしい。
なんとも面倒臭い生態だ、とマッドは思いながらトカゲの中から脱出する。マッドが脱出する際、
マッドに踏まれたトカゲ達が目を覚まし、トカゲ山が崩れ始める。
「きょうこそは、なんとしてもあのおっさんの、へんなくせをなおしてやらねぇとな。」
ぶつぶつと呟きながら寝室から出ると同時に、玄関から、ひゅお、と身も凍るような音がした。そ
の直後に、ばたんと閉じる音。玄関の扉の前に立っているのは、たった今、マッドが悪態を吐いてい
たカボチャ頭である。
「キッド!」
マッドは、ぽてぽてと足音を立ててサンダウンに近寄る。
「おい、てめぇ!このおれさまをほうちして、どこにいってやがったんだ!あんたにはほうろうする
せいへきでもあるってのか!」
開口一番、そんな事を口走るマッドをサンダウンは、やけにゆっくりとした動作で見下ろす。カボ
チャ頭の眼の部分には、ちらちらと青い炎が揺れ動いている。
「………放浪は性癖とは言わない。」
「んなことはどうだっていいんだ!」
反論したサンダウンに、マッドは言い返す。
「きょうというきょうは、あんたのほうろうへきについて、きちんとはなしをしようじゃねぇか!」
尻尾を振り上げて叫ぶマッドに、サンダウンは大人しく頷く。カボチャの殊勝な態度に、とりあえ
ず満足したマッドは、ふと気が付く。
「そういや、あのチビはどうしたんだ?まさか、たべたのか?」
マッドの言葉には大きな意味はない。しかし、サンダウンは一瞬だけ立ち止まり、
「人里に戻した。」
「そうか。」
マッドは納得しなように頷き、そんなマッドをサンダウンは無言で抱き上げた。