「キッド。」

 日が天頂を通り過ぎて、駆け足で坂道を下り始めた頃。玄関の扉を勢いよく開いて、黒い子犬が犬
耳フードが飛んでいきそうな勢いで返ってきた。
 ぽってぽってと駆け寄ってきたマッドの後ろには、もっふもっふとトカゲが大量に押し寄せている。
 サンダウンにしてみれば、見慣れた光景である。
 だが、サンダウンは、ふるもっふなトカゲの大群の背中に、見慣れぬ物を見た。

「いきだおれだぜ。」

 サンダウンの視線の向きを正しく読み取ったマッドは、トカゲの背中に乗せたそれについて、そう
称した。
 サンダウンは、マッドの言葉を無視して、馬鹿な、と呟きトカゲの背負うそれの傍に近づく。トカ
ゲに、もふっとめり込むようにして倒れているそれは、紛れもなく人の形をしている。人の形をして
いる魔物は、数多くいるが、しかし、これは。

「もりのなかで、ゆきにうもれてたんだぜ!いきだおれだぜ!」
「………人間、だと?」
 
 サンダウンは、マッドの言葉をもう一度無視して、呻いた。そしてもう一度、馬鹿な、と呟く。
 トカゲの背中に乗せられているのは、どう見ても人間だ。人間に似ている魔族は確かにいるから、
それの見間違いかとも一瞬思ったが、しかし紛れもなくこれは人間だった。
 だが、それならば、何故サンダウンが気が付かなかったのか。
 人間の存在が森に近づけは、サンダウンは必ず気が付く。いや、森の中であるならば、サンダウ
ンでなくとも、森と一体である精霊達も気が付くはず。
 だが、森は騒いでいなかった。如何なる異物も飲み込んでいないと、静かだった。サンダウンの
鬼火も、かつての同胞に揺れ動きはしなかった。
 けれども、それにも拘わらず、人間が目の前にいる。
 いや、それよりも人間から漂う気配が、明らかに人間のそれではない。

「なんだ、これは………?」
「にんげんなのか?」

 無視され続けているマッドが、焦れたのか、くいくいとサンダウンのポンチョを引っ張る。

「これがにんげんなのか?ほんものの?こんなにまぢかでみるのは、はじめてだぜ。」

 つまり、遠目で見たことがあるのか。
 サンダウンは、聞き捨てならないことを言ったマッドを睨んだが、マッドは眼をきらきらさせて、
人間を突ついている。
 人里に下りた挙句、遠目に人間を見たらしい、あまり素行のよろしくない子犬の耳がぱたぱたと動
くのをサンダウンは睨み付け、しかし今はそれどころではないと考える。目下、問題はマッドがつれ
返ってきた人間にあるのだ――どっちにしろ、マッド絡みだが。
 改めて人間を見る。本当に人間なのかと疑いたくなるほどの瘴気を発する身体は小さく、骨に皮が
付いているだけではないかと思うほどに痩せている。トカゲの上に倒れ伏した身体を覆う衣類も全て
が襤褸で、一見すると屍鬼の一種と言われてもおかしくない。

「ちびだから、にんげんのこどもなんだな。」

 サンダウンの真似をして人間を検分して、マッドは言った。自分も大概ちびである事を無視した台
詞である。というか、痩せているが、身長だけを見ればマッドよりも大きい。

「でもがりがりだな。にんげんてこんななのか?」
「………違う。この子供が、異様に痩せているだけだ。」
「なんでだ?」
「………さてな。」

 人間の子供が痩せる理由など、魔族の子供が痩せている理由と、そう大差ない。病気か、それとも
食事を取る事が出来ないか。そして後者ならば、飢饉によるものか、それとも食事を与えられていな
いか。
 サンダウンは、少年から湧き立つ、瘴気を見下ろす。
 この少年の場合、あらゆる意味があって、食事を与えられていないというのが、正解か。

「どこかにかんきんされて、それでにげだしてきたのか?そういうはなしを、きいたことがあるぜ。
おかしのいえにいるまじょにつかまって、ふとらせてからたべられるよていだったけど、それをさけ
るために、めしをくわずにいたんだぜ。」
「……………。」

 確かに聞いた事がある話だが、微妙に違う。そもそも、この森にはお菓子の家なんてないから、そ
こから逃げ出す人間なんていない。
 大体。

「魔女は人間なんぞ食わん………。」
「しってるぜ。っていうか、にんげんってうまいのか?どうなんだ?」
「しらん。」

 魔物は人間を食うと人間は思いがちであるが、好んで人間を食する輩は、ほとんどいない。血が必
要な吸血鬼でさえ、別に牛とかの血で良いとか言っているから、人間を食べる必要というのは、基本
的にないのだろう。
 
「それで、キッド。こいつはどうしたらいいんだ?」

 連れて帰った本人が、処遇を全く考えていなかった。
 マッドのこの態度は、今更なので、今更とやかく言うつもりはないが。

「………人間のところに戻すのが妥当だろう。」
「でも、なんでゆきにうもれてたりしたんだ?このじきになると、にんげんはそうゆうこうどうにで
るしゅうせいでもあるのか?」
「ない。」

 この時期、まして聖誕祭の時期に森の中で雪に埋もれる人間などいない。モミの木でも取りに来た
のかもしれない、という事も有り得なくはないが、子供が一人でする事ではない上に、この子供の様
子を見る限り、モミの木を飾りたてたりできるほどの余裕のある家ではなさそうだ。

「でも、キッド、こいつをもとのばしょに、もどしていいのか?」

 マッドの言葉に、何、とサンダウンは問う。
 マッドは少年の匂いを嗅いでいたが、少し顰めた顔を上げてサンダウンを見る。

「こいつ、へんなにおいがするぜ。こんなのをにんげんのところにもどしていいのか?にんげんって
のは、おれたちみたいにまほうにはつよくねぇんだろ?」
「…………。」

 サンダウンは少年から沸き上がる瘴気を見る。マッドには見えていないだろうが、獣人としての本
能が、少年が只の人間ではないと知らせているのだ。

「こいつをだまってにんげんのところにやったら、なんかたいへんなことになるきがするぜ。」

 瘴気というのは、伝播するものだ。
 最初は単純な負の感情だろう。しかし、サンダウンの鼻が利かなくなるほどに瘴気を纏ってしまっ
ているならば、それはもはや魔法に近く、そして人の感情が人に影響を与えるように、これもまた人
に影響を及ぼすだろう。
 マッドの言う通り、放置していて良いものではない。
 しかし、

「人間の元に、戻すんだ。」

 所詮は人間である。これが魔物であったから、サンダウンも何らかの対策をしただろう。けれども
これは人間だ。放っておいて、人間に影響は与えたとしても、魔物であるマッドにはなんら関係がな
い。
 二度とこの少年が、マッドの傍に近寄らなければ、マッドがこの瘴気に影響を受ける事はないだろ
う。
 サンダウンは、マッドが無事であるならば、それで良い。
 と、その時。

「う………。」

 トカゲの上に倒れていた少年の唇から、目覚めの声が零れた。
 転瞬、サンダウンの手に巨大な鎌が現れ、何の素振りも見せないままに、それを少年目掛けて振り
下ろした。