同刻。
一人の少年が、森をうろついていた。
鈍色の髪を垂らし、今にも底が脱げそうなブーツで白い雪を踏みしめ、痩せ過ぎた身体を所々ほつ
れたローブで覆い隠して、枯れ切った落ち葉のように雪の上を這っていた。
ガチガチと合わぬ歯の音を響かせながら、しかし眼だけは爛々と光らせて、鳴る歯の隙間から、声
を唸らせていた。
「そうだ、奴らの鼻を、必ず明かしてやる。」
少年の声は、年齢の割にしわがれていた。それは、寒さの所為か、それとも少年の生来のものなの
か、分からない。
ただ、少年の足跡は紛れもなく人間のものであり、魔物でも幽霊でもなく、それに類する闇の淵に
生きる何者のものでもない。
しかし少年が歩く雪の上は、深く木々がしな垂れる森の中。普通の人間が、そうおいそれと踏み入
れる場所ではない。踏み入れるのは、向こう見ずな子供達だが、見た限り、歩く少年の眼からは、子
供にありがちな、何も知らぬが故の、勇気に近い無謀さは見えない。
少年の眼に宿るのは、ひたすらの理性と。
しかし、一方で激しい絶望だった。
冷静に考えれば、この時期に子供が森をうろつくわけがない。今時分は聖誕祭間近であり、人間達
はいずれも、その準備で忙しい時だ。子供達も夜を照らす、揺らめく炎に浮き足立ち、神子の降臨を
祝おうと大人に混じって、準備をしている。
こんな森の奥に入り込むはずもない。暗い森に、眼を向ける余裕などないはずだ。
けれども、少年は、お世辞にも神子を祝う姿からはかけ離れた様相で、森を彷徨っている。神子を
祝うものとは似ても似つかぬ言葉を吐きながら。
「俺は、神になんぞ縋ったりしない。自分の手で、奴らを超えるんだ。」
枯れ枝のような自分の指を、少年は睨み付ける。その指には、壁を這う茨のように、黒い模様がの
たうち回っている。刺青だ。少年の手には――いや、腕全体に、刺青が刻み込まれているのだ。
刺青は、人間にもよるが、基本的には罪の印だ。それを幼くして刻み込まれているというのは、ど
ういった意味を持つのか。
その瞬間、少年の掌から、ぼうっと炎が燃え立った。赤く揺らめく炎。ただし、神子を祝う為の蝋
燭飾りとは、かけ離れた色をしている。ただひたすらに、暗く照らす炎だ。
遠目に少年を見た者がいれば、少年が魔法を使ったのだと分かっただろう。
魔法を使えるのは、魔に属する者か、或いはそういった輩に魂を売り飛ばした人間か、そのどちら
かだ。
人間の世界では、そういう話になっている。
だが、魔物達にしてみれば、魔法と言うのはそんな極端なものではないし、魂を望むなど、それこ
そ悪魔か天使の、どちらかだ。そして人間は天使を聖なるものと見ているが、魔物の眼には、悪魔も
天使も同義だ。
魔物は魔法を人間に授ける事など出来ないし、見返りとして魂など求めもしない。そして魔法は、
魂を売り渡して使えるようになるものでもなければ、決して人間にも使えないというわけでもない。
それが分かっていれば、少年がただ単純に、魔法が使用できる人間である、というだけの判断にな
っただろう。
しかし人間の世界では、それは悪魔に近しいと見做され、故に少年は刺青を背負わされた。
殺されずにいるのは、少年の力に興味がある輩もいるからに他ならない。少年は、そういった視線
の庇護下で、如何にも何もしない従順な罪人のふりをしなくてはならなかった。
これまでの間、少年は信じもしていない神の子の誕生を、率先して祝ってきた。神を讃える言葉は
誰よりも吐き出し、誰よりも十字を切ってきた。
けれども、誰よりも神など信じていなかった。
「神なんぞ、誰も救えないくせに。」
枯れた木のように、痩せた身体。それを最後に案じてくれたのは、一体誰だったか。思い出せない
し、思い出したところでそれはきっと苦痛でしかないだろう。この先、少年にそういった相手が現れ
る可能性は、限りなくゼロに等しい。
そして何より、そうした者との別れは、想像を絶するほどの苦行だろう。別れが、ではない。別れ
方が、だ。
少年の前から、何故、悉くが消えうせたのか。一体誰に、どういうふうに奪われたのか。そこに見
える色は、黒と、赤だけだ。
神は、それを一度でも救いはしただろうか。
否。
少年の吐いた、最初のほうの、紛れもなく信仰のあった祈りは、掻き消されて終わった。
「神を信じても無駄ならば、悪魔を信じても同じだ。」
けれども、希望を絶望で答える神よりも、絶望を絶望のままに答える悪魔のほうが、まだましだ。
呻く少年の手から、暗い炎が消える。そしてそのまま、薄い少年の膝が、雪の中に埋もれた。
「まだだ。まだ、」
この炎が、原初の炎に変わるまで。
その炎が、この森の奥にあるのだ。
少年の声は、けれども、そこで途絶えた。ただ、ぱさり、と雪が少年の上に落ちる音が響いた。
そして数分後。
ぽってぽってと足音を立てながら、マッドが森の中を歩く。赤い犬耳フードを被り、雪を掻き分け
て、堂々と歩く。その後ろを、もっふもっふと、こちらもフードを被ったトカゲ達が追いかける。ト
カゲのフードは、それぞれ色が異なり、白の中では非常に目立つ。なお、このフードをトカゲが何処
から持ってきているのかは、未だに謎である。
あと、どうやって着込んでいるのかも、謎である。気が付いたら着込んでいる。
そんな、謎に満ちたトカゲを引き連れて、マッドは歩く。ぽてもふと歩く彼らは、時折立ち止まっ
ては松ぼっくりを拾ったり、意味なく、道から外れてはまだ誰も踏んでいない雪を踏んでみたりして
いる。
「キッドのやつははやめにかえれとかいってたが、あいつぜったいに、おれにめしをつくらせるつも
りだな。」
マッドは、家で留守番をさせているカボチャ男の事を思いだし、ぽつりと呟く。
あいつめ、めしぐらいじぶんでつくりやがれ、と頬を膨らませると、トカゲ達も同意するように、
きゅいきゅい鳴く。
「だいたい、そもそもあのおっさんは、めしをつくるやつがいないと、めしをぬいてもいいとおもっ
てるあたりが、だめなんだ。」
鬼火であるサンダウンに、食事は実は必要ないというあたりを無視して、マッドはサンダウンにつ
いての不満を言う。
「おれがいわねぇと、ふくもあらわねぇんだからな。あのおっさん、ふゆのあいだは、ふくをあらわ
なくてもいいとおもってやがるにちがいねぇ。」
におわなけりゃいいってもんじゃねぇんだ、とマッドは、腹立たしげに、思い切り雪に足跡をつけ
る。
と、ぽむぎゅう、という妙な足音が鳴った。
マッドが、その場で停止する。ぴたりと止まったマッドに従い、トカゲ達も止まる。
マッドは、雪の中から自分の脚を引き抜き、もう一度踏み込む。すると、むぎゅううう、と音がす
る。
「………なんか、ふんだぞ。」
言いながら、何度も踏んでは、むぎゅうもきゅうと音を立てる。
「とりあえず、ほってみるか。」
散々踏みつけた後になって、マッドはようやく、雪を掘り返すことにした。すると、トカゲ達が俄
然やる気になり、短い手足を駆使して、雪を掘り返していく。
数秒後、そこには横たわる人影があった。
枯れ木のように痩せた身体を見下ろし、マッドは呟いた。
「かわいそうにな、いきだおれだぜ。」