背後に付き従う静かな気配に、マッドは安堵する。
霧の都に漂う暗く冷たく湿気た気配とは正反対の、乾き切った砂の匂いは、アメリカ西部の荒野の
それと同じだった。
来て早々にサンダウンと引き剥がされたマッドは、その瞬間は駄々を捏ねなかったものの――とい
うか、その時はサンダウンが微妙に抵抗していた――わりとむっつりと不機嫌になっていたのだ。
なので、親類縁者――継承権が高い連中だけだが――が集まった広間に通された時になって、マッ
ドは駄々を捏ねた。別にその場で地団太踏んだり、転がって手足をジタバタさせたわけではない。た
だ、自分の従者に顔を見せないのはむしろ失礼なんじゃないのかと言っただけだ。あと、そちら側に
は自分の意見について有利な証人がいるのに、こちらにもそういうのがいないのは公平ではない、と
主張したのだ。
マッドの主張は聞き届けられた。
何処かの物置部屋にでも押し込められていたサンダウンは、今はマッドの後ろに佇立している。こ
こで自分の座る場所を探してしまったら従者として失格だが、幸いにして、それとも流石と言うべき
か、サンダウンはマッドの斜め後ろに立って微動だにしない。周りをきょろきょろ見回したりもしな
い。
従者の質は、そのまま主人の質に反映されると言っても良い。それを考えると、サンダウンの行動
はマッドに恥をかかせないには十分だった。
「さて、待たせたな。」
マッドは長い脚をテーブルの下で組んで、テーブルを取り囲む、顔も定かではない親類縁者を見据
えた。
マッドを末端として、縦に長いテーブルの左右に分かれて、爵位の継承権を持つ叔父やその息子、
娘が並んでいる。
そしてマッドと相対するテーブルの先端には、白い髭を蓄えた男が座っている。髪は白髪混じりで
灰色に見えるが、若い時は黒かったのであろう。その背後に背負う、絵画の中の女のように。
絵画の中の女について、マッドが詳しいことを知らない。いや、会ったことはあるのだが、彼女は
その時すでに老年であり、やはり黒い髪は白くなっていた。絵画の中の女は、若い頃の彼女――マッ
ドの祖母に当たる人であり、つまり先代の女伯爵であろう。
そしてそれを背負う白髪の男は、絵画の中の女と眼の形や顔の輪郭がそっくりだ。
「やれやれ、随分と我儘に育ってしまったものだ。」
白髪の男は、溜め息混じりに、そう言った。
「お前の言い分には納得できる部分もあるが、しかし相談役である従者がいなければ話はしない、な
ど、やはり我儘にもほどがあるだろう。不肖の我が弟は、もう少し長く生きて、息子を躾けるべきだ
った。」
物々しい言い方であったが、声は、遥か遠い昔に聞いた父親のそれと、何となく似通っているよう
な気がした。それ以外は全く似ていないが。むしろ、眼に宿る光だけならば、絵画の中の女伯爵のほ
うが、父親のそれに似ている。
けれども、完全には似ていないが、所々似通っているところが、対峙する男が父親の兄――クレメ
ンス伯であることを物語っている。
気難しげな表情を浮かべる伯爵に、そのすぐ斜め右隣りに座っていた男が、苛立たしげに話しかけ
る。こちらは少し小太りで、正直、父親にも、伯爵にもどちらにも似ていない。
「兄上、ですから何度も申し上げているのです。いくら兄上に子供がいないとはいえ、今まで暗黒大
陸で野放しにされていた者を呼び寄せて、爵位を継がせようなどと正気の沙汰とは思えない。そんな
者を議会に入れてごらんなさい。我々一族皆笑い者です。」
小太りの男は唾を巻き散らかさんばかりの、今にもテーブルを手で叩かんばかりの勢いである。マ
ッドは記憶を辿ってみるが、やはりこの男のことは思い出せなかった。代わりにその隣に静かに座っ
ているブルネットの髪を長く垂らした若い女のほうが、記憶に残っている。
「幸いにして他の兄弟は健在で、子も無事に育っております。その者を呼び寄せる必要など、」
「お父様、少しは落ち着かれませ。」
その、若い女が溜め息交じりに小太りの男を止めた。なるほど、台詞から分かるにこの二人は親子
なのだ。そして、少し生真面目で苦労の多そうな溜め息は、彼女の父よりも伯父である伯爵に似てい
るところがある。
「いや、君のお父上の言う通りだよ、アンジェラ。」
しかし賢明なる娘の言葉を遮ったのは、その娘の真正面に座った娘と同じくらいの年齢の男だった。
黒い髪と黒い眼は、マッドのものとよく似ていた。
「私としても、今までアメリカで暮らして、イギリスのことなど何も分からない輩に、この家を駄目
にさせることだけは避けたいのでね。」
「あら、ジェラルド。わたくし、この前貴方の経営する会社の業績が思わしくないと新聞で見たので
すが。そんな貴方に、伝統あるクレメンス家の今後を語れるのかしら?」
途端に、ジェラルドと呼ばれた男の頬に朱が昇る。言った本人――マッドの席にほど近い位置に座
っている金髪を高く結い上げた中年女は、ほほ、と口元を扇子で隠して嗤っている。この女は、マッ
ドとサンダウンが屋敷到着早々、好奇の眼を向けてきた奴の一人である。なお、残りの連中も、万遍
なくテーブルのあちこちに散っている。
真っ赤になって絶句したジェラルドへの嘲りを皮切りに、そこから始まる静かな罵りの応酬に、マ
ッドはテーブルを蹴り飛ばしてやりたくなった。見事なまでに典型的な後継者争いの図である。まあ、
爵位を継げば、1万ポンドの給料が得られるのだから、それは争いたくもなるだろう。
繰り広げられる身内の争いに、クレメンス伯本人は眉間に皺を寄せ、アンジェラは言い争いに参加
している父親の隣で、ますます深い溜め息を吐いている。どうやら、常識を持っているのはこの二人
だけのようだ。
背後にいるサンダウンが、どういう表情をしているのかは分からないが―いや、多分無表情のまま
だろう――呆れているような気配は伝わってくる。
やれやれ――。
マッドは腹の中で嘆息し、そして今度こそ容赦なく、テーブルの底を蹴り上げた。長いテーブルだ
ったのでテーブルがひっくり返ったりということはなかったが、その場を静まり返らせるだけの派手
な音は出た。
「叔父上方に聞きたいんだが、この俺はアメリカから何の為に呼び出されたんだ?クレメンスの血統
総出で行われる演劇を観覧するために呼ばれたのか?しかし先程から見ていれば、あまり面白い劇の
ようには見えないが。脚本が悪いんじゃないか?」
なんなら俺が脚本を書き換えてやろうか?
マッドはゆっくりと、騒いでいた叔父叔母従兄妹達を見渡す。そして流れるままに言葉を吐き出す。
「シェークスピア並みの悲劇が良いか?しかしこの面子じゃ、ロミオとジュリエットは無理そうだな。」
もちろん、父親の仇を討つハムレットも、だが。
すると、クレメンス伯爵がマッドの声を遮った。
「リア王もマクベスも結構だ。」
「じゃあ、喜劇のほうを?アメリカのことを暗黒大陸なんて言うから、むしろやっぱり喜劇か。」
暗黒大陸はアフリカのほうである。アメリカは新天地だ。
「そちらも結構。真夏の夜の夢では、お前の父親のおかげで我ら兄妹皆痛い眼を見た。」
心底疲れ切っている伯爵の様子に、マッドは親父は何をしたんだろうね、と思い、一つ思い当たる
ことがあった。が、それは口に出さない。
「我等はお前に悲劇や喜劇を書かせるために、わざわざ遠いアメリカの大地から呼び寄せたのではな
い。」
どうやら、ようやく本題に入るらしい。
「我がクレメンス家の爵位は現在、この私にある。先代――即ち私の母、お前の祖母に当たる人から
受け継いだものだ。だが、私にはこれを継がせる子供がいない。」
全員、育たなかった。
そう呟いた声は、微かにだが憂いがあった。伯父に、実は三人の子供がいたことはマッドも知って
いる。ただ、産まれて一年と経たぬうちに死んでしまい、最後の子供に至っては死産でその産褥で夫
人も亡くなった。
「私も歳だ。身体も少々の無理が利かなくなりつつある。そこで、私が存命のうちに、爵位の後継を
決めておきたいと考えている。」
背凭れに身体を凭せ掛けた伯爵は、確かに疲れている。目の前で身内が争いを始めた所為もあるだ
ろうが、やはり伝え聞いていた通り、体調も思わしくないのだろう。
「だから俺を呼び寄せたと言いたいのか?だが、さっき誰かが言ったように、俺はアメリカで野放し
されていて貴族的振る舞いなんか出来ないが。」
「確かに少々の粗ははあるが、別に見るに堪えんほどではない。それに、お前は父親に似たな。その
口の上手さは社交の場では金よりも尊い。しかも雄弁と沈黙の使い分けも出来そうだ。」
兄上、と悲鳴のような声が上がった。
「それでは、まるでその者を後継者としようとしているようではありませんか!」
「この者が継承権第一位であることは紛れもない事実だ。」
マッドが、この家から弾き出されない限りは。
弟達の悲痛な叫び声など一蹴して、クレメンス伯爵は、真っ直ぐにマッドを見つめる。黒々とした
眼。背後の絵画にある女伯爵と同じ色の眼をして、伯爵はマッドに宣言した。
「私は、お前に後を継がせる為に、お前をアメリカから呼び寄せた。」