嫌な時間というのは先延ばしにしようとしていても、すぐにその時がやって来るものである。
 マッドにとって幸いだったのは、その時間が思っていたほど不愉快ではなかったということだった。
 サンダウンとふらふらとシティ内をうろつきまわった四日間の後、マッドは渋々、父方の本家へと
足を向けた。サンダウンも一応一緒にいるが、はてどうやってこの男のことを説明しようか、とマッ
ドは頭を悩ませた。

「私は従者という役回りでも良いぞ。」

 よもや父親を殺した本人ですと言うわけにもいくまい。マッドはサンダウンの行為について納得し
ているし責めるつもりも毛頭ないが、他の連中はそうは考えないだろう。そこについてやたら滅多に
口出ししてくることは明白だった。
 ましてサンダウンには一切の身分――この場合は貴族的な意味での身分だ――がない。根強く貴族
社会の残るイギリスにおいて、まして貴族の中に混じる際に、それは弱点でしかなかった。かといっ
てサンダウンに貴族的立ち位置を与えてやることはマッドにはできないし、大体サンダウンはそんな
ものを欲しがらないだろう。
 だから、サンダウンの言ったマッドの従者という役回りは、一番無難な選択であった。
 が、マッドは渋い顔をする。マッドはサンダウンに自分の付き人をさせたいわけではない。一緒に
いることはマッドも望んでいることなので、何一つ文句はないが、けれどもサンダウンを従者にして
あれこれ命じて家来のように扱き使うなど論外だ。今のように、保護者然とされたままでも、それは
それで困るが。
 しかし、他に良い手がないのも事実。マッドは仕方なくサンダウンを従者というかたちにして、本
家に連れていく事にした。
 本家までの道のりは、馬車を使う。厩で寛いでいる愛馬に乗って行くのは、流石に向かう先が貴族
の屋敷ということで躊躇われたし、万が一愛馬を隠されて、本家に留まらねばならなくなるという事
態を避けたいというのもあった。そんなわけで、急ぎで仕立てた黒の三つ揃えに身を包んだ二人は、
馬車に乗り込んで、ウェストミンスター宮殿の近くにある、マッドの本家に向かったわけである。 

「帽子は被らないのか?」

 チャコールグレーのコートを着たサンダウンの問いかけに、マッドは、いらねぇ、と短く答えた。 
サンダウンの言った帽子というのは、当然のことながらアメリカで被っていたテンガロンのようなも
のではなく、所謂シルクハットのようなものだろう。
 貴族の服の一式としてはそれを被ってステッキを持つのが正しいのだが、マッドは自分が貴族であ
るという心地ではなかったし、いくら貴族に会いに行くからといってそこまで準備してやるつもりは
ないという気分でもあった。

「大体、ガキの頃に会ったっきりの連中だぜ。親父が死んでからは、あっちから接触してこようとも
しなかった。」

 微かな記憶を辿れば、何人かの顔は思い出せる。小さい時に遊んだことのある従兄妹達や、女伯爵
として一族の頂点に君臨していた祖母、その後を継いだ伯父など。だがそれ以外の遠い親類縁者は、
既に記憶の彼方にある。
 父親が死んでからは、母親は己の縁者に頼っていたので、マッドも専らそちら側の親類に会うこと
が多かったのだ。
 そんな縁遠い連中に、そこまでの礼儀を払ってやるつもりはない。わざわざアメリカからイギリス
くんだり来ただけでも感謝してほしいくらいだ。

「だが、お前のことを忘れたわけではないだろう。実際に、こうしてお前を呼び出したんだからな。」
「そりゃあ、遺産やら家系のことがあるからだろ。」

 マッドはうんざりした口調で話す。
 今回マッドが呼び出された理由の一番は、爵位を継いだ伯父――マッドの父親の兄にあたる人物の
健康状態が思わしくないからである。伯父には子供はなく、父の弟妹に子供はいるが、しかし全員が
マッドよりも年下である。従って、次期伯爵は、順当にいけば否応なしにマッドの手の中に転がり落
ちてくるのだ。マッドにとっては傍迷惑でしかないが。
 遺産の話に蹴りを着けに行く、としか聞いていなかったサンダウンは、流石に眼をぱちくりさせた。
爵位の継承の話なんて聞いていないという顔である。

「爵位なんて、簡単に放棄できるものなのか?」
「出来る。他に誰もいないっていうならともかく、俺以外にも従兄妹やら何やらがいるからな。そっ
ちに継がせればいいんだ。」

 伯父がマッド以外の誰かを指名し、マッドがそれに頷けば何も問題ない。マッドは自分の親から何
かを受け継ぐつもりは端からない。
 サンダウンはしばらくの間、何かを考えている素振りを見せていたが、ふと顔を上げてマッドを見
た。

「………よくよく考えてみれば、お前の伯父に子供がいないなら、お前の父親が死んでいようが死ん
でいまいが、最終的にはやっぱりお前が継承者になるんじゃないのか?」
「まあな。」

 イギリスの継承権は、勿論長男最優先である。長男に子供がいれば――男であろうが女であろうが 
関係ない――そのままそちらに継承権はいくわけだが、今回の場合は長男である伯父に子供がいない。
その場合、マッドの父親以下の兄弟に継承権が移る。もしもマッドがいなければ、マッドの父親の弟
に継承権は移るが、マッドは生憎としてこうして生存している――この場合、マッドの性別は関係な
い。結論として、放っておいてもマッドに爵位が転がり込んでくるわけである。

「つまり、だ。」

 サンダウンはいつになく真剣な面持ちで呟く。

「お前の父親の弟共が、お前の地位を狙ってお前を襲う可能性があるわけだ。」
「いや、俺は放棄するから。」
「そんな言い分が通用しない連中かも知れない。」  

 サンダウンの背負っている気配が、何やら不穏な深みを帯びていく。もともとマッドに対しては保
護者然としている男であるが、それが完全に拗れ始めている。従者の顔ではなく、騎士の顔をし始め
たと言えば聞こえはいいが、騎士は騎士でも地獄から硫黄と炎を連れてくる黙示の騎士である。
 完全に、ここがイギリスの、しかも近くに宮殿があることを忘れた、アメリカ荒野の賞金首の顔を
している。
 ジャケットで隠してはいるが、腰に帯びたピースメーカーがその名前に反して禍々しい気配を立ち
昇らせていた。
 放っておいたら、何だか大変なことになる気がする。
 ここは荒野ではないのだ。マッドの賞金稼ぎとしての威光は、霧の中では効果がない。

「大丈夫だ。深入りせずに、さっさと帰る。」
「念のために言っておくが、連続殺人事件にも深入りするな。」
「分かってる。」

 サンダウンの厳しい顔に、マッドは何度も頷いた。





 ヴィクトリア女王の在位真っ只中であるこの時期、マッドの本家の屋敷は、文字通りヴィクトリア
調の佇まいをしていた。ゴシック様式が復権していたため、つまりはゴシック調の家具が並べたてら
れていたのである。
 屋敷といっても貴族が住居にしている、所謂カントリーハウスではない。貴族が議会のために、自
分の領地からロンドンに出てくる必要のある時に使用するタウン・ハウスである。豪勢な庭園はなく、
敷地は狭いが、代わりに階数がある。マンションのようなものである。
 田舎にある領地ではなく、シティにほど近いこちらにマッドを呼んだのは、アメリカから来るマッ
ドの交通の便を慮ったのか、それとも領地に足を踏み入れさせたくなかったのか。マッドにしてみれ
ば、どちらでも良いことではあるが。
 エントランスに入れば、そこは広間になっており、シャンデリアの向こう側に両側から迫りくる階
段が降ろされている。絨毯が敷き詰められたそこで、初老の男が恭しく一礼していた。おそらく、執
事だろう。
 二階から、物珍しげにこちらを見下ろす目線が幾つかある。使用人達ではなく、どうやら己の親類
縁者に属する者達の視線だ。貴族らしくない、無関心をすることができない不躾な目線に、マッドは
微かに眉根を寄せた。
 まさかこんなのしか揃ってないなんてことはねぇだろうな。
 家長に、第一継承者である己が呼び出された以上、継承権を持った他の輩もいるであろうことは予
想していた。家長が呼んだにせよ、自分から押しかけたにせよ、彼らの何れもが、マッドに正であれ
負であれ興味を持っていることも。
 だが、その興味をこうして直接的に飛ばしてくるとは。
 貴族というのは、はたしてそういうものであっただろうか。マッドが知っている貴族は、好奇心に
駆られていようとも、それをポーカーフェイスで隠しおおせるものなのだが。
 もしも、己の親類縁者にしか、今現在進行形で不躾な視線を客人に向ける輩しか残っていないとい
うのなら、病に侵されつつある伯父の心労たるや察するところがある。だからといって、後継者に指
名されても困るが。
 サンダウンも、自分達に突き刺さる視線に気が付いているのか、眼だけを僅かに動かしてそちらを
窺っている。もしもこれが悪意あるものであったなら、ピースメーカーが火を噴いていたところであ
る。
 マッドは貴族の風上にもおけない視線を、殊更無視して、幸いにしてこちらは貴族の使用人として
一部の隙もない執事に声をかける。 

「お待ちしておりました。」

 恭しい男の声は、マッドが何者であるのか知っているものだった。しかし、それでもマッドは己が
何者であるのかを、はっきりと告げる。
 ゴシック調のエントランスホールで、マッドは遥か昔に置き去りにした己の名前を告げた。