シティ・オブ・ロンドンは、正しくロンドンの中央に位置している。
テムズ川の北側に位置し、金融街として名を馳せたシティは、独自の法を持っているが故に、実は
王族と雖も簡単に足を踏み入れて好き勝手する事の出来ない場所である。
サンダウンとマッドが、シティに足を踏み入れた時は、もう日はとっぷりと暮れていた。幸いにし
て、シティの中はスラム街とは違い、あちこちに明かりが灯っており人通りも多いが、しかしだから
といって、油断はできない。
サンダウンは、マッドに決して馬から降りないように言い含め、自分はマッドにぴったりと寄り添
う。そんなサンダウンを、マッドは面映ゆいような気持になって見ていた。
マッドとて男である。しかもアメリカ荒野ではそれなりに名の知れた賞金稼ぎである。だから、サ
ンダウンに守られるような存在ではないのだが、しかし幼い頃からぺたぺたと甘えていたサンダウン
が、幼い頃のままに甘やかしてくれるのは嬉しいもので、なのでマッドはサンダウンの行動に何も言
わず、ぱかぱかとサンダウンの傍についていく。
ロンドン市街は、ホワイトチャペルもそうであったが、石造りの家が多い。特にシティの中は銀行
も多く、背の高い建物が立ち並んでいる。
アメリカでも、巨大な建物はあったが、一つ一つがそれなりに間隔を取って立ち並んでいたから、
そこまで圧迫するような気分にはならなかった。しかしロンドンは――島国故に土地を考慮せねばな
らない所為か、建物同士が酷く近寄っている。狭苦しい路地など、大人が両の腕を広げれば、壁と壁
に手がついてしまいそうだ。
サンダウンが良い顔をしなかったのと、自分達にはまるで関係がなかったこともあって、ホワイト
チャペルの奥にまでは進まなかったが、あの路地の向こう側は、もっと狭苦しく圧迫感のある風景が
広がっているのだろうな、と思う。
まして、夜ともなれば。
マッドは白い息を吐き出して、星のない空を見上げる。ロンドンの冬の夜は、霧に閉ざされること
が多い。今はまだ視界は開けているが、そのうち辺りは雲の中に迷い込んだように真っ白に閉ざされ
るだろう。
テムズ河の向こう側も、夜の闇ではなく、霧の闇に閉ざされるのだ。
霧の都ロンドン、とはよく言ったものだ。
そして霧の中に埋没するからこそ、余計に背の高い石造りの建物に囲まれた路地は、苦しい空気に
曝される。
しかし、幸いにしてシティの中は街灯が充実しているし、それに今の時期はスラム街以外ならば、
華々しい空気に染まっている。
マッドは、明かりの灯る窓ガラスの向こう側をちらりと見て、イギリスのものはやっぱり豪勢だ
な、と思った。
ちかちかと蝋燭の炎を受けて硝子の飾りが、悪戯な光の妖精のように閃いている。硝子の飾りは、
林檎や、星、オーブなどが主だが、中には天使やマリア像などもある。それらを吊り下げているの
は、立派なモミの木である。
家の中に飾られたクリスマス・ツリーはバロック調で、アメリカで見かけるものよりもずっと豪
勢だ。アメリカでは、この頃に電飾でクリスマス・ツリーを飾るようになりはじめるのだが、しか
し一般にそういった電飾が普及するのはまだまだ先であるから、マッドも当然のことながら、電飾
のクリスマス・ツリーは見たことがない。
だが、電飾などなくとも、クリスマスであるというだけで街は華やかになる。
特に、富裕層の住まうシティや、マッドの本家があるウェストミンスター、更にその隣の王立区
などは、今にも何処からともなく讃美歌が聞こえてきそうだ。事実、この区域には教会が多い。
だが、クリスマスであろうと教会が多かろうと、不埒な輩というのは何処にでもいる。サンダウン
もそれを気にしているのか、
「マッド、ホテルはまだか。」
と、問いかけてくる。マッドを出来る限り安全圏に退避させたいのだろう。あと、底冷えするロン
ドンの寒さが堪えているのか。横目で見たサンダウンの髭に、幸いにしてまだ霜が張っていないこと
を確認して、マッドはマフラーに顎を埋める。マッドも、寒いことは寒い。
「もうすぐだぜ。」
マッドが答えると、その答えに応じるかのように、闇の中に薄黄色に照らされた、煉瓦造りの建物
が現れた。二人が、しばらく滞在するホテルである。
中世から続くのだと嘯くそのホテルは、確かにその煉瓦の様子から見るに古びていた。しかし愛馬
達を預ける厩はしっかりしていたし――馬を持つ者にとっては、自分達が泊まる部屋よりもこれが一
番重要である――ホテルの中も明るく、寒さの中辿り着いた者を迎えるべく温かだった。
ひとまずは及第点だ、とマッドは脱いだコートをホテルマンに預けながら思う。バロック調の内部
は、放置していればあっという間に蜘蛛の巣だらけになるだろうが、そんなものは何処にもなく、し
っかりと手入れされている。
ホテルマン達は、サンダウンとマッドという、中年の男と若者という組み合わせに対して何一つ疑
念の眼も向けなかった。貴族を相手にすることもあるのか、そこには相手の秘密には踏み込まない洗
練された無関心があった。
定められた言葉だけを告げるホテルマンに通された部屋も、放っておけば寒々しくなるような、石
造りの部屋だったが、マッド達を待っていたその部屋は既に暖炉で火が炊かれており、やはり温かか
った。
ホテルマンの運んだクローゼットに荷物を放り込み、二人して炎の温かさにぼんやりした後、どち
らともなく、これからのことについて話し始めた。
「本家との話し合いは……?」
「四日後だ。来て早々、むさ苦しい連中と顔を合わせて重苦しい話なんぞしたかねぇから、そういう
ふうに設定した。」
長旅で疲れているのに、すぐに財産だの跡継ぎだの、そんな法律関係の話などしたくない。
そう告げると、サンダウンは頷いた。マッドの我が儘を、我儘ではなく当然の感情と配慮してくれ
たのだ。
「それならば、しばらくはゆっくりと休めるな。」
「ああ、あんたも船酔いで削り取られた体力を元に戻せるぜ。」
「ああ。」
茶化したつもりだったが、真顔で頷かれてしまった。そして、サンダウンは万全の態勢になって、
マッドを、宣言した通り守るつもりなのだと今更になって気づく。
マッドは再び面映ゆいような気分になって、咄嗟にサンダウンから眼を逸らした。
「じゃあ、あと四日間、どうする?この辺りは色んなもんがあるぜ。あんたはイギリスは初めてだろ?
俺も、まあガキの時に来たっきりだから最近のことは知らねぇが、でも幾つかの有名どころは知って
るぜ。」
気恥ずかしさから咄嗟に話題を変える。
しかしシティの中には観光名所として有名なところがあるのも事実だ。歌で有名なロンドン橋もあ
るし、シティ内にはないけれどもロンドン塔だって見える。或いは、シティ内では最も古い市場であ
るスミスフィールドに行っても良い。
ただ、ロンドン塔とスミスフィールドは、一方で血腥い歴史の証人でもある。ロンドン塔は数多く
の貴族を監獄し、処刑したことでも有名であるし、スミスフィールドも公開処刑の場としても有名だ
った。
そういう血腥い場所をサンダウンが嫌だというのなら、先程も述べたようにロンドンに無数にある
教会の中でも特に有名な、セントポール大聖堂やテンプル教会に行っても良い。
あとは、少し東に足を延ばせば、ウェストミンスター宮殿やバッキンガム宮殿があるし――中には
入れないが――薔薇で有名なリージェンツ・パークもある。
観光する場所については、枚挙に暇がないほどだ。
「北に行けば大英博物館や大英図書館があるし、シティを拠点にしてたら、何処にでも行けるぜ。」
あんたがよく分からないって言うなら、俺が案内してやってもいい。
マッドがそう言いかけた時、サンダウンがマッドの手を取った。ごく自然な動作だったので、マッ
ドは一瞬何も思わなかったが、サンダウンがその手を自分の頬に寄せた時、ひたりと固まってしまっ
た。
抱き付いたり一緒に寝たりして甘えておいて今更な気もするが、マッドはサンダウンの行為に固ま
ってしまった。
だが、サンダウンはマッドの硬直には気づいていないのか、マッドの手を自分の頬に当てると、ア
メリカ荒野の青い空を閉じ込めたような眼でマッドを見る。
「マッド。」
「なんだよ。」
サンダウンの声に、辛うじて平静に答える。
「手が、まだ冷たい。」
サンダウンは、いつもと変わらない荒野の風のような飄々とした声で告げる。
「先に風呂に入ってこい。そして、もう休め。明日以降のことは、明日考えれば良い。」
ゆるり、と手がサンダウンのかさついた頬から離れる。そういうサンダウンの頬だって、冷たかっ
たのだが。けれどもサンダウンの手は妙に温かい。
「疲れているのはお前も一緒のはずだ。今日はもう休め。」
「あんたは、」
離れていった手を未練がましく追いかけながら問えば、お前が休んだら休む、と返された。
「安心しろ。暖炉の火は消しておいてやる。」
それと、と再び大きなかさついた手が近づいてきて、マッドの頬を一撫でする。
「一緒に寝てやるから。」
低い落ち着いた声が、緩やかに耳朶に浸み込んだ。