18世紀に産業革命の発端となったイギリスは、アメリカでは見られないものが続々と連なっている。
テムズ河に浮かぶ蒸気船もだが、町に立ち並ぶ工場に取り付けられた、天高く上を向く煙突の群れは、
まだアメリカでは見られない。そこからもくもくと立ち昇り、空気に混ざりつつある黒煙も。
 実際、この時期のイギリスは加速的な近代化に伴う公害が広がり始めていた。テムズ河も、工場か
ら流れる廃液で汚染され、当時はまだ生息していた牡蠣が全滅するということも起きていたのだ。事
態を重く見た人々が、下水完備を目指すのは、また別の話である。
 しかし世界に先駆けて近代化が進んでいるとはいえ、まだ陸上の移動手段は馬車である。馬を引き
連れて歩く人の姿も珍しくない。
 サンダウンもマッドも、アメリカから愛馬を連れてきていたので、馬車ではなく各々の馬の背に乗
り、ロンドン港からシティまでの道のりを進んでいたのだが。
 馬車にしたほうが良かったのかもしれない。
 サンダウンは、むっつりと押し黙りながら、そう思った。
 ロンドン港を出た直後はまだ良かった。人通りは多く、ごみごみとしていながらも流石に港での犯
罪を見過ごすわけにはいかないのか、警察もいた。
 しかし、港を離れ、徐々に郊外に行くにつれ、町の様子が変わり始めたのだ。冷たい石畳は所々砕
け始め、煉瓦造りの家からは明かりが途絶えはじめる。道端に座っているのは薄汚れた子供や物乞い、
後は場末の酒場や宿の客引き達だ。路上に馬車が停まることはあっても、決して長居しようとはしな
い。
 なめし皮工場や、精肉工場が立ち並ぶこの区域は、その工場特有の悪臭が立ち込め、旅行者やある
程度の階層にいる人々は、好んで立ち止まろうとはしないのだ。
 18世紀のホワイトチャペルというのは、そういった悪辣な環境下に置かれていた。
 産業革命による、産業や商業の利益を得ようと、まるでかつてゴールド・ラッシュの時に人々がア
メリカに挙って渡ってきた時のように、イギリスの田舎からロンドンへと大勢の人々が流入した。
 だが、ゴールド・ラッシュで富を得ることができたのはごく僅かの人々であったのと同じように、
産業革命の恩恵に預かったのも、また限られた人々だった。
 利益を求めて田舎からやってきた人々の多くは職にあぶれ、失意のうちに田舎に戻るか、そのまま
ロンドンに居ついた。結果、ホワイトチャペルは、多くの貧困層を抱えることとなったのである。
 悪辣な環境と、ひしめき合う貧民層。
 これらが纏まって起こり得ることなど、想像に容易い。
 サンダウンは馬上から、道の上に頽れた人々を見渡し、此処でなら如何なる犯罪でも起こるだろう
と、心の中で頷いた。
 アメリカにまで噂になっている事件は、マッドが持っていた雑誌に載っていた連続殺人事件だけだ
が、実際は殺人など日常茶飯事なのだろう。昼間なのに、何処か薄暗い影を纏うホワイトチャペルの
路地を見て、そう思う。
 スリ、窃盗、強盗、傷害。これらの犯罪は、今も路地の何処かで行われており、殺人もアメリカで
は話題にならぬだけで、両手の指の数では足りないくらい起こっているに違いない。
 アメリカの荒野だって、そうだったではないか。
 しかし、アメリカ荒野では感じられない陰鬱な気配が、犯罪の匂いの濃いそこかしこから漂うのは
ロンドンの霧に包まれた性質にあるのかもしれない。
 だが、ロンドンへのサンダウンの偏見などはどうでも良い。サンダウンにとっての一番の問題は、
ロンドンへの偏見があろうとなかろうと、今現在サンダウンとマッドが横断しようとしている地区は、
かの連続殺人事件の舞台であり、そして今も犯罪の温床となっているスラム街にほど近い場所なのだ。
 サンダウンは、隣で呑気に辺りを見回しているマッドを見る。今のところ、マッドを狙っている輩
はいないが、身なりの良いマッドを金目当の強盗が襲うとも限らない。強盗如きにマッドが後れを取
るとは思わないが、しかしそれでも心配なものは心配だ。マッドを覆い隠すものがないことも、サン
ダウンの不安に拍車をかける。
 だから思うのだ。
 馬車に乗れば良かった、と。
 自分が馬を二頭引き連れていき、せめてマッドだけでも馬車に乗せるべきだったのだ。
 マッドは目立つのだ。その貴族然とした佇まいも、金に糸目を付けずに仕立てられた身形も、そし
て秀麗な顔立ちも。ごみごみとした悪臭漂うスラムでは、どうしたって場違いだ。その場にそぐわぬ
空気は、異端として人々の眼に映り、得物の匂いに敏感な強盗どもの目線も釘付けにするだろう。
 なお、サンダウンもマッドに言い含められて、それなりの恰好をさせられている――霧の都ロンド
ンにポンチョは駄目だポンチョは、というのがマッドの言い分であった。
 いっそ、突っ切ってやろうか、と思うのだが。

「良いか、ロンドンの街道を馬が荒れ狂って走ってりゃ、それだけで目立つ。ロンドンっ子どもは何
か犯罪が起きたんじゃねぇかと痛くもねぇ腹を探るだろうし、スコットランドヤードにもこんな奴が
いたって眼を付けられる。だから、荒野みたく馬を駆け巡らせるのはなしだ。」

 マッドにそう言われてしまっては、サンダウンも黙るしかない。
 いや、アメリカでも町中で馬を死に物狂いで走らせるなんてことはないのだから、マッドの言い分
はよく分かる。サンダウンもロンドンに来てまで言いがかりを付けられるのは嫌だ。
 だから、余程のことがない限りは――主にマッドの身に関することだが――馬を駆けさせるような
ことをするつもりはない。
 だが、連続殺人事件が発生したスラム街を横断するというのは、余程のことになるのではないだろ
うか。
 サンダウンはマッドに眼で問いかけるが、マッドは気づいているのかいないのか、馬の足を速める
気配はない。
 それどころか。
「キッド、あっちの路地のほうに行ったら、連続殺人事件の現場に着くみたいだぜ。」

 いつの間にそんな情報を入手したのか、賞金稼ぎとしての血が騒ぐのか、マッドはそんなことを言
っている。
 娼婦ばかりを猟奇的に殺していく殺人鬼。その殺人鬼が凶行に及んだ現場の一つが、この路地を右
に曲がった先にあるという。
 はっきり言っておく。
 サンダウンはそんな情報いらない。

「マッド。」

 サンダウンは、まさか霧の都ロンドンで、アメリカ荒野の賞金稼ぎの顔をしないだろうな、と不安
に思いつつも、しかししっかりと釘を刺しておく。

「お前まさか、その連続殺人事件の犯人を捕まえようだなんて思っていないだろうな。」

 猟犬としての血が、この町に充満する犯罪の匂いで猛っているというのか。
 マッドの中にある根本を問いただせば、鼻先で笑うような返事が返ってきた。

「んなわけあるかよ。」
「本当か。」
「本当だ。っていうか、別にどうだって良いだろうが、俺が誰を捕まえようが。」

 反抗的な態度を少し覗かせたマッドに、サンダウンはびくともせず、真顔で言った。

「お前が心配なんだ。」
「心配って………。」

 俺はそんなにやわじゃねぇぞ。
 マッドが口を尖らせて言う。サンダウンは溜め息を吐いて、分かっている、と答えた。

「お前の腕を見縊っているわけではない。ただ、私が心配なだけだ。」

 マッドを子供の頃から知っている。だからサンダウンの中では、マッドが如何に逞しく成長しよう
が、マッドは庇護すべき存在だ。マッドが殺人犯を追い詰め、撃ち抜くことができると分かっていて
も、だ。

「もしもお前に何かあったら。」

 マッドが殺人犯を追い詰めたいというのなら、サンダウンは反対はするが本気では止められない。
代わりに、何としてでもマッドを守ろうとするだろう。しかしそれでも、何らかの形でマッドが傷を
負わないという保証は何処にもない。
 もしも、そんな事になったなら。

「私は、お前に傷を負わせた殺人犯を縊り殺すだろうし、お前に手出しさせるまでそいつを放置し続
けた、スコットランドヤードの連中も全員叩き殺すぞ。」

 マッドが呆けたような表情をした。呆れているのだろう。しかし、サンダウンにしてみれば呆れる
ような事でも笑い話でもない。
 脅しでもない。
 本気だ。

「あんた、自分の賞金を吊り上げるつもりかよ。」
「賞金なんぞ、どうでも良い。」

 マッドを守るためなら、この首に懸けられた賞金がどれだけ吊り上がろうとも構わない。

「マッド、私の傍を離れるな。」

 犯罪の匂いが立ち込める町を睨み据えたまま、サンダウンは短く、マッドに命じた。