珍しいことに、随分とすっきりと晴れた朝だった。窓という窓からは、燦々と日差しが差し込み、
窓の形に切り取られた廊下の光は、信じられないくらいに白い。エントランスに至っては、いっそ、
外のほうが昏いのではないかと思うほど、天使の梯子が投げかけられていた。
まるで、霧の底に沈められた夜が、嘘のような天気だった。
エントランスホールに続く階段を、静かに降りるマッドの髪には光の粒子が幾つも降り注ぎ、さ
ながら、銀の宝冠を抱いているように見えた。
光の所為で、先端が真っ白に見えるマッドの髪を見下ろしながら、サンダウンはその後に続く。
あの夜。
マッドが霧の都を歩き、アンジェラを捕えたあの夜。サンダウンは無言で二人の姿を遠くから眺め
ていた。
マッドがアイリーンの代わりに十字路へ向かうと言った時、咄嗟に止めろと言わなかった自分を褒
めてやりたい。アイリーンの目の前で、従者の取り扱いとなっているサンダウンがマッドに意見する
など有り得ないし、その内容もアイリーンを軽視するものであったから、猶更だ。
サンダウンが無言を貫くしかない中、マッドは淡々と、獲物を迎え撃つ準備をする。厚手の広い肩
掛けをあたまからすっぽりとかぶり、昔、共に悪戯をした仲の女を捕まえようとする時のマッドは、
一体どんな気分であったのか、サンダウンには推し量る術もない。
サンダウンが見たのは、アンジェラを捕えたマッドが、何処からどう見ても荒野の賞金稼ぎの顔を
していたことだけだ。
そしてマッドの顔は、それ以降、貴族の顔に戻らない。
アンジェラの腕を捕えた賞金稼ぎは、いつものように飄々とした声で、殺人犯を見下ろす。
「残念だ。なあ、アンジェラ。俺は、お前になら、爵位を明け渡しても良いと思っていたのに。でも、
お前が欲しかったのは爵位じゃねぇんだな。」
唇を震わせてマッドを見上げるアンジェラは、唐突に知らない顔を見せた男に、なんと思ったのだ
ろうか。マッドの顔でありながら、もはや彼女の知っているマッドの顔をしていない男に。
「よりにもよって、この俺様が欲しいだなんてなあ。俺が好みじゃないって言ったのは、ありゃあ嘘
か。」
「私は。」
ひくり、とアンジェラの喉が震えた。いつも取り澄ましていた白磁の顔が、初めて歪む。彼女がそ
の隣をと臨んだ男の、耳慣れぬ口調での糾弾に、陶器のような顔にひびが入る。
「俺の隣を手に入れるために、マリアを殺して、実の妹であるシャーロットまで刺したのか?」
そこに、非難の色はなかった。マッドの声は糾弾ではあったが、マリアを非難するものではない。
「ああ、そういうのは、嫌いじゃないぜ。そういう、欲しいものは何が何でも手に入れようとする。
嫌いじゃねぇな。」
アンジェラの、まるで本能に従ったままの行動は、荒野においては当然のこと。荒野で生きるマッ
ドが、責めたてるはずもない。
だが、とマッドの声が低く霧を割った。震える街灯の光が、その時だけ、鋭い色を放ったような気
がした。
「そうしたことで、てめぇが被るもんを、被る覚悟はできてるんだよなぁ?」
人を殺した事で発生する、人が定めた罪とやらを。どれだけ本能に従うことが許される荒野であっ
ても、人を殺した以上、何らかの足枷を嵌めることになる。如何に正義の元に銃を撃ち、斧を振り下
ろしても、確実に咎というものは産まれるのだ。
賞金首を撃ち取るマッドが、時に賞金首の家族や仲間から恨まれるように。
保安官だったサンダウンが、その銃の腕を疎まれたように。
そういった枷が、必ず何処かに打ち込まれる。人の生死が金にすり替わる荒野であっても、それは
確実に打ち込まれるのだ。
霧の都ロンドンでなら――荒野よりも法に重きが置かれるイギリスであるならば、猶更。
まして、彼女を捕えたのはマッド・ドッグだ。貴族だから、の一言で逃がしたりはしない。荒野の
賞金稼ぎは、地位や名声には無関心だ。
彼が獲物を屠る時、彼は、ただただ、己の矜持だけを秤にかける。
「アンジェラ。俺はお前を捕える。捕えて警察に引き渡す。誰が泣き叫ぼうが、金を積み立てようが、
俺はお前に容赦なく荒縄を突きつける。」
「待って、私は―――。」
「命乞いは俺にするもんじゃねぇ。検事や弁護士に吐き捨てるもんだ。金を積み立てる相手も俺じゃ
ねぇぞ。」
「だって、私は。」
「言い訳も俺相手にするもんじゃねぇな。俺はお前を捕まえて、警察に突き出すだけだ。その後、お
前がどうなろうと知ったことじゃねぇ。精々、クレメンス伯に泣きつけばいい。お前が刺したシャー
ロットに温情を請えばいい。」
「私は、」
「アンジェラ、」
「私は、貴方のために!」
「俺は、イギリスを出ていく。」
マッドの言葉は、乾き切っていた。最初からそこにあったのだと言わんばかりに、当然のものとし
て吐き出された。
そう。マッドは最初から、そのつもりだった。
最初から、爵位も財産も放棄して、アメリカに帰るつもりだと、何度も何度も宣誓していた。サン
ダウンは、それを何度も聞いている。マッドにとっては岩に刻まれた自明の理だ。
「爵位も財産も放棄する。もともとそのつもりで此処に来た。最初に言っただろう。アメリカ行きの
船があり次第、出ていく。イギリスからは、何も持ち帰らない。」
マッドが持って帰るのは、アメリカから持ってきたものだけだ。自分と、馬と、そしてサンダウン
と。
眼を見開いたアンジェラの口から、
「クレメンス家は、どうするつもりなの?」
「なんとでもなるさ。もしもお前がこんなことをしなけりゃ、お前に全部明け渡すつもりだったが、
それは無理だ。だから、ウィリアムに後は任せる。エイムズ伯が後見人になってくれれば、あいつは
上手くやるよ。」
俺なんかよりも、よほど。
マッドはその時、微かに笑ったようだった。
マッドはサンダウンに問うたことがある。自分は果たして爵位を継承するに向いているのか、と。
荒野で酸いも甘いも噛み分けてきた男は、黒い眼に震えるような光を湛えて問うた。その眼差しは、
正直なところ、彼の親類の誰もに似ていなかったから、サンダウンは答えた。
お前に、伯爵なんてものは、無理だ、と。
マッドをアメリカに連れて帰りたいだとか、そういったサンダウンの中の邪な思いを排除しても、
それは本心だった。今、眼の前で階段を降りるマッドの頭に、光で出来た銀の宝冠が乗っているのを
見て、ますますそう思う。
きっと、マッドは伯爵という地位を与えられれば、歴代の誰よりも名当主として謳われることだろ
う。議会に出ても社交界に出ても、アメリカにいたということを足枷とせぬまま、謳歌するに違いな
い。
けれども、マッドはそれを疎んじた。疎んじて、結局延々と自分以外の誰かを爵位に着けようとし
ている。
もしもマッドが、心底から伯爵の地位にふさわしいのなら、その地位から逃げ出したりはしないは
ずだ。何処かで、心の中の何かと折り合いを付けて、イギリスに根差そうとするだろう。
だが、マッドはそれをしない。
マッドは自分の中の心と折り合いをつけるつもりはなく、それこそ、本能のままに荒野に戻ろうと
している。激しいほどの無責任が、マッドの中には渦巻いている。
大体、そもそも。
マッドが四角く切り取られた天使の梯子が降りたつ場所を歩いた瞬間、確かにその頭に乗せられた
宝冠が形を浮かべる。
お前は既に、荒野の王になっているだろう、と。荒野を駆け巡り、命を削り、魂を焦がしながら、
その手の裡から何一つ零さぬようにと眼を見張り、その場所で既に頂にいるではないか、と。
だから、サンダウンはマッドに告げたのだ。
お前は伯爵には向いていない。
そして心の裡で呟いた。
お前は王であるのに、伯爵なんぞに身を落とすつもりか、と。血に濡れた玉座よりも、名誉ある爵
位のほうが良いのか、と。
すると、マッドは眼に柔らかい光を灯し、安心したように微笑んだのだ。マッドも、その言葉を待
っていたのだ。自分が、実は誰よりも伯爵に向いていないということを、マッドも気づいていた。
だからマッドは、イギリス紳士としてはあるまじき、何もかもを投げ捨ててアメリカに逃げ帰ると
いう行為を成そうとしている。
光の下にある扉の前には、金の髪に光の髪飾りをいっぱいに着けたウィリアムが佇んでいる。青い
眼に、悲壮ともいえる決意を湛えた少年のあどけなさを残す青年は、その美しい繊細な指で、扉を開
き、マッドに向けて優雅に一礼した。
マッドは、それには眼もくれない。
サンダウンを引き連れて、マッドは二度と通ることがないであろう扉を潜った。
荒野の王が、霧の都から、帰還する。