マッドはその日、ホテルに帰ると告げた。アイリーンとの婚約と、爵位継承を受諾の意を告げたそ
の日のうちに、ホテルに帰ると告げると、皆から非難の声が殺到した。
アイリーンは既に今日からタウン・ハウスに寝泊まりするようになるのに、爵位を継承する当の本
人が不在なんて、というのが主な非難の内容であったが、マッドは其れを軽くいなす。荷物は全てホ
テルに置き去りにしているし、そもそも次期当主が使用する部屋はチャールズが使っている。今から
部屋の準備も悪いだろう。そう言って、親類縁者の声を封じた。特に、ごねて部屋を奪ったチャール
ズは、顔を真っ赤にしていち早く黙り込んだ。
そして、タウン・ハウスから去ったマッドとサンダウンは――ひっそりと、アイリーンの部屋に忍
び込んでいた。もちろん、アイリーンは二人がいることを知っている。だが、他の人々は二人がホテ
ルに帰ったと思い込んでいる。犯人ならば、今を好奇としてアイリーンを狙うだろう。
この部屋では、きっと事には及ばない。それが、マッドの意見だった。この屋敷の中で何かを起こ
せばそれだけ容疑をかけられやすくなる。だから、犯人はアイリーンを何処かに誘き出すはずだ。そ
の為に、どういう手口を使うかは分からない。いや、この場合、きっとマッドの名前を使って誘き出
すだろう。そのために、マッドはわざわざホテルに帰るような素振りまで見せたのだ。
そして事に及ぶならば、それは犯人も何処かに出向いても誰にも気づかれぬ深夜。ナイフ片手に、
アイリーンを追いかける。その場所は、このタウン・ハウスからそう遠くないはずだ。深夜に、こっ
そりと馬車を出すのは難しい。歩いて行ける場所に誘き出すはず。
マッドの罠に気づかないのなら、今、マッドが考えた通りに犯人は動くだろう。
「……気づいていたとしても、犯人が諦めない限りは、お前の言う通りに動くしかないだろう。」
アイリーンの部屋のクローゼットの中で、サンダウンが囁いた。香水の匂いのする暗がりの中で、
サンダウンの青い眼が瞬いている。
「犯人はもう、追い詰められている。お前に気づかれることに気づいているのなら、猶更。ならば
諦める以外に手と言ったら、やはりお前の考えている通りに動くしかないだろう。」
万が一の可能性を求めて。
「その、万が一の可能性ってのは?」
「……お前がアイリーンとの婚約を解消すること。そして………。」
サンダウンが言いさした時、部屋の中で動きがあった。扉の隙間から、手紙が差し込まれたよう
なのだ。
周囲を伺いながら、アイリーンがクローゼットの中にそれを差し込む。
「差出人は貴方の名前になっていてよ。」
「ああ、予想通り、お前を誘き出す内容だな。」
「真夜中の十二時だなんて……とんだシンデレラもあったものね。」
このタウン・ハウスからほど近い十字路にやってこいとの内容だ。読んだ後、手紙は燃やすよう
に、と。そして誰にも言わないように、と。
「結婚後の夫婦関係について、二人きりで話し合いたい、迎えに行くから十字路で待っていろ、か
……。」
「私が従者を連れて行ったらどうするつもりなのかしら。」
「夫婦関係のことを従者に聞かれたい奴はいないだろう。」
仮に従者を連れてきたとしても、その従者共々殺すつもりだろう。そういう手筈を整えているは
ずだ。
「筆跡に見覚えは?」
「知らないわ。こんなミミズみたいな字を書く人、私は会ったこともない。」
「だろうな。これは利き腕とは逆の手で書いたんだ。」
そうすれば、筆跡はごまかせる。子供でも分かる手口だ。マッドも昔、悪戯でこういう手紙を良く
書いた。
「それで、私はこの手紙の通りに動けば宜しいのね?」
「ああ。」
「わかったわ。」
何の躊躇いもなく頷いたアイリーンの眼差しに、マッドはふと、遠い昔に見ただけの祖母の眼を思
い出す。ああ、此処にも自分と同じ眼を持つ者がいたのか。
「なあ、アイリーン。お前、ウィリアムのことはどう思ってる?」
「ウィル?ああ、あの子のピアノは、私、好きよ。正直なところ、貴方のピアノよりも、あの子のほ
うが好みだわ。」
甘ったるくって我儘で。そこが癖になる。
「まだ寝んねなのよ、あの子。」
「みたいだな。」
「それが良いんだろうけれど、そろそろ起こしてあげたほうが良いかもしれないわね。」
「同感だ。」
マッドは自分が去った後の伯爵家のことを考えながら、それが一番良い、と頷いた。
霧が都に降り積もる。雪の白ではなく、霧による白の闇が、夜の闇に合わさって、奇妙な光景を延
々と生み出している。街灯の明かりは遠くからでも見えるが、光が霧によって拡散され、あちこちに
飛び散ってぼやけている。
空を見ても星は見えない。霧で、覆われてしまっているからだ。ただ、街灯の滲むような光だけが、
冷たい石畳を妙に温かなものに見せていたが、一方でひたすらに周囲は見えず、隔絶した空気が辺り
に漂っていた。
そこを、一人、ふらふらと細い影が歩いていく。その足元には、ごくごく薄い影しか浮かんでいな
い――霧の所為で、影さえも曖昧としてしまっているからだ。
白いレースの縁飾りのついた肩掛けを頭からすっぽりとかぶり、少しだけ身を屈めて硬質な音を立
てて石畳の上を歩く。手を胸の前で握り締め、俯き加減の表情は見えないが、何かを堪えているよう
にも見える。
ロンドン全体を覆う冷たい霧に寒さを堪えているのか、それとも何処からともなく現れる何者かに
怯えているのか。そのどちらもであるように見える。
けれども、襲撃者にとってそんなことはどうでも良い。
如何に寒くて震えていようとも、襲撃するこちらに怯えていようとも、ただ、その胸を突いて殺す
だけだ。閃いたナイフに、歩く影は気づいていない。
足音が、十字路に差し掛かった。
街灯に照らされて、一瞬、俯きがちだった顔が照らされる。マフラーで口元まで覆われており、や
はり表情は分からない。だが、眼だけがはっきりと見えた。鋭く、勝気な眼差しだ。何が起きても、
自分だけは大丈夫だと信じ切っている眼。
その眼差しは、紛れもなくクレメンス家のものだった。
襲撃者は、その眼を見るなり身を翻えし、影の真ん前に躍り出る。街灯の下、唐突に現れた真っ黒
な姿に、はっと立ち止まった影目掛けて、黒の中唯一銀に光るナイフを繰り出した。肩掛けですっぽ
りと覆われてしまっているが、胸の位置は分かる。十分に観察して、心臓の位置は確認してきた。そ
れが、変わるわけがない。
そう思って繰り出したナイフ。
だが、その真っ最中に妙なことに気づく。
違うのだ。胸の位置。いや、身長が。暗さと霧で、遠くからでは分からなかったが、明らかに身長
が、アイリーンよりも高い。
気が付いた時には、既に勝敗は決していた。
ナイフを持っていた手は、腕ごとあっさりと掴まれ、捩じり上げられる。片手で、やすやすと。
「残念だったな。今回ばかりは、霧も闇も、お前の姿を味方をしてくれなかったわけだ。それとも、
今回が初めてだったのか?霧と闇を味方に付けた勝負に出たのは?」
だとしたらお前にはまだ早かったってわけだ。
ばさり、と音を立てて、広い肩掛けが石畳に落ちる。その向こう側から現れたのは、細身だが上背
のある男――マッドの顔だった。
マッドは容赦なく、黒で覆われていた襲撃者の顔を見る。そして、見る前から既に予想していたよ
うな声を上げた。
「言い逃れはできねぇぜ。何せ現行犯だからな。悪戯だって現行犯で見つかった時は、言い訳もでき
なかっただろ、アンジェラ。」
ブルネットの髪の、マッドと同じ眼差しを持ったアンジェラと、マッドは静かに見つめ合った。
ウィリアムは言う。
「アンジェラは、ずっと兄さんのことが好きだったみたいだよ。」
二人で悪戯をしていた時から、ずっと。だから、ベイリーがマッドの父親に二人の婚約を申し出た
時、密かに喜んでいたらしいのだ。
あたし、あの子と結婚するのよ。
そう、ませた口調で皆に言っていたらしい。マッドが不在の、イギリスで。
そしてマッド不在のまま決まっていく事柄を良しとしなかったマッドの父親によって、その申し出
は打ち砕かれる。ただしそれは、エイムズ伯が自分の娘との婚約を申し出たときよりも、きつい言葉
で断られた。
「何故あそこまで強固に断ったのか、それは誰にも分からない。」
その場にいたクレメンス伯も、弟のいつになく頑強な言葉に、首を傾げた。だが、と一族の長であ
る彼は、こうも言う。
「だが、想像できなくはない。アンジェラはクレメンスの血をよく受け継いでいる。それは良くもあ
り悪くもある。アンジェラの場合、それは悪い方向に向かってしまった。」
クレメンスの血は、その意志の強固さにある。彼らは時に、目的のためならば人を殺すことさえも
厭わない。マッドも良く知っている、自分の気質だ。ただ、その目的が皆に支持されるものであるな
らば、それは良きものとして映ることだろう。
「アンジェラは、貴方と結婚するために、こんな愚行に走ったのね。」
事の顛末を聞いたアイリーンは、小さく溜め息を吐く。
マリアを殺したのは、勿論、マッドと婚姻する可能性があったからだ。誰よりも継承権が高いが、
その経歴によって伯爵とな成り難い。けれども、マッドと結婚する可能性は、その血筋から言って高
い。
シャーロットを刺したのは、シャーロットが自分を疑っているようだと気づいたから。
「私、お姉様がマリアという人の住所を調べているのを、知ってしまったんです。お姉様の部屋に、
インクを借りに行く時に、お姉様の書き物を見てしまって。」
そしてもう一点、シャーロットがマッドに接触しようとしたから。姉のことを相談するためであっ
たのだが、アンジェラにはそれだけには見えなかったのだろう。
「きっと、君の父親は、アンジェラがあのような凶行に及ぶ可能性があると、気づいていたんだろう
ね。」
マッドからの相談を受けて、一時的にアイリーンとの婚約をすること、そしてアイリーンを撒き餌
にすることを許したエイムズ伯は、力なく言った。
「もしかしたら、だから君をアメリカに連れて行ったのかもしれない。そういった、柵のない場所に。
君自身だけの力で、君の地位を確立する場所に。そこから君をイギリスに引き戻してしまったんだ。
奴は、今頃怒っているだろうな。」
ハムレットの父親のように、息子の前に姿を見せはしないだろう。代わりに、息子をこんな事に巻
き込んだ親友や、兄弟の夢の中に化けて出るかもしれない。
「けれども、幾つかの悲劇は防ぐことが出来た。」
「本当に?」
エイムズ伯に、マッドはもはや貴族の顔もしないまま、賞金稼ぎとして問うた。
「如何なる悲劇も、防げてねぇぞ。既にマリアが死んでる。アンジェラは人殺しだ。ベイリー叔父の
家は失墜するだろう。クレメンス家にも、多少の傷はつく。そして俺はそれを背負わない。」
改めて言ってやる。
マッドは、はんなりと微笑んで、けれども荒々しい荒野の男の口調で言い放った。
「爵位なんぞ、願い下げだ。」