マッドとサンダウンは、ウィリアムをボロアパートに一人放置しておくわけにも行かないので、再
びクレメンス伯のタウン・ハウスへと戻った。馬車でスラム街を抜け、再びウェストミンスターの整
然とした街並みに戻る間、ウィリアムは黙り込んでいた。
タウン・ハウスに着いても何も喋らず、無言のまま屋敷へと入る。
彼らが玄関を開くなり、チャールズが怒鳴り込んできた。弟に何をしたのか、と唾を飛ばす勢いで
迫ってきたチャールズの脇を、ウィリアムはもはや何の表情も浮かべていない顔を張り付けたまま、
通り過ぎる。
だが、その際に、兄の足を踏みつけていった。
「ああ、チャーリー、ごめんね。」
兄を一瞥し、ウィリアムはおざなりな謝罪を口にすると、そのまま執事へと向き直る。
「僕の部屋、ある?」
「はい、ウィリアム様。準備しておりましたので、すぐにお使いいただけます。」
「うん。」
それっきり、チャールズには眼もくれずに、さっさと己に宛がわれた部屋へと去っていく。チャー
ルズは、まだ足の痛みに悶絶していた。
マッドも、ウィリアムの顰に倣って、チャールズを放置したまま、執事に話しかける。
「シャーロットの容態について、何か新しい情報は入ったか?」
「いいえ。シャーロット様については、以前厳しい状態が続いているとのことです。」
「そうか。」
ならば、マッドとしてはこれ以上此処にいる理由もない。既に夜は更け、今からホテルに戻れば夜
明けだが、かといってこの屋敷で休むつもりはマッドにはなかった。引きずり回されるサンダウンと、
馬車には気の毒だが、今からホテルに帰ろうかと考えている。
しかし、そんなマッドを執事は止める。
「エイムズ伯爵がお帰りになったらお会いしたいとおっしゃっております。」
シャーロットの事件について聞いて飛んできたエイムズ伯は、どうやらまだ此処にいるらしい。今
晩は泊まるのだろう。
「もう夜も遅い。伯爵もお休みだと思うが。」
「いえ、夜が遅くとも、貴方様がお疲れでない限りはお会いしたい、と。」
父の友人だった男は、随分と強引である。
だが、未だ彼とはきちんと話していないのも事実。イギリスに住むエイムズ伯は、アメリカにある
父の墓を詣でることもできないのだ。息子であるマッドとも、これを逃せば話すことも出来なくなる
かもしれない。
エイムズ伯の心の裡は分からないが、普通に考えれば死んでしまった友人の息子と、何らかの話を
したいと思うのは、当然かもしれなかった。
別に、話をするくらいならなんでもない。マッドは執事の言葉に頷いた。
「分かった。会うから部屋に通してくれ。」
エイムズ伯の部屋に入る時、サンダウンが少しだけ緊張したのが伝わった。この男でも緊張とかす
るのか、と思うと同時に、自分が殺した男の友人に会うのだから、緊張はするか、と考え直す。その
息子であるマッドとは、緊張もせず、むしろ同じベッドで寝てたりするのに、おかしな話でもあるが。
そもそも、マッドとてエイムズ伯にサンダウンのことを、自分の父親を殺した男です、なんて説明
するはずもないのに。
エイムズ伯の客室は、一番最初にマッドが通された部屋――その後でチャールズが奪った――と雰
囲気が良く似ていた。伯爵に、下手な部屋は宛がうことはできないということだろうか。まあ、相手
が伯爵であろうとなかろうと、貴族の矜持として客人に妙な部屋を使わせることはできないだろうが。
部屋に入ってきたマッドを見たエイムズ伯は、顔を綻ばせた。机に向かって何かを紙に書きつけて
いた彼は、特に見られても平気なのだろう、それを出しっぱなしにしてマッドに近づいてきた。
「やっと帰ってきたのか。夜更けにスラム街に行ったと聞いた時は肝が冷えたが。」
まあ無事でよかった。
眠る準備もしていなさそうなエイムズ伯の様子に、マッドは首を傾げる。
「俺が帰ってこないとは、思わなかったのか?」
「チャールズから、スラム街に行ったウィリアムを、君が捜しにいったようだと聞いた時、まさかウ
ィリアムをそのまま放置しておくわけがないと思ったからね。」
座りなさい、とソファを指し示したエイムズ伯に、マッドは大人しく従う。
ゆっくりとソファに座ったマッドを眺めるエイムズ伯の眼は、やはり笑っている。マッドがそれに
対して疑問の眼差しを向けると、失敬、と言った。
「いや、父親に似てきたな、と思ったのだよ。彼も、まあ、こちらの手の内を探るのが上手い男だっ
た。今の、こちらに探りを入れる君の眼は、本当に奴にそっくりだ。」
失敬、と言ったにも拘わらず、伯爵はくすくすと笑う。
マッドの眼から見れば、彼のほうがよほどか父に似ている。その、陽気なところとか。マッドも陽
気は陽気だが、父ほど底抜けに明るくはない。それは、おそらく母親の神経質な部分がマッドの中に
色濃く受け継がれてしまった所為だろう。
だから、マッドはエイムズ伯や、他の誰かが言うほど、自分が父親に似ているとは思えなかった。
今、自分の後ろで佇立しているサンダウンなら、なんというだろうか。サンダウンは父親について
は一瞬しか知らないだろうが、母親と比較してマッドの事をなんというだろうか。
聞いてみたかったが、今はその時ではなかった。
サンダウンではなく、エイムズ伯に聞かねば。
「俺に、何か用があるのでは?」
「それは、君のほうじゃないのかね?」
穏やかな眼で、問われる。
なるほど、父親の友人をしてきただけあって、一筋縄ではいかないようだ。この問いかけがマッド
の内面を揺さぶるためのものかどうかはともかくとして、今まで相手ほど容易く会話はできそうにな
い。
一方で、むこうもこちらの言わんとすることをあっさりと理解してくれそうで、ある意味、話しや
すいと言えなくもないが。
マッドはぐっと背筋を伸ばしてそのままソファに凭れてふんぞり返り、長い脚を優雅に組む。
「分かってるのなら、話は早い。確かに、俺は貴方に聞きたいことがあった。」
一瞬、アメリカ西部のスラングを交えて話そうか悩んだが、流石に相手は伯爵である。従兄妹達な
らともかく、目上の貴族には相応しくないと思い直した。
「貴方には娘が二人いる。その二人のどちらかを、俺と婚約させようとしたことはなかったか?或い
は今も、あわよくばそうしようと考えていないか?」
質問すると決めたなら躊躇わず、何も衒わずに直接的に問うのが良い。どもることも、言い直すこ
ともしない。
そうすれば、相手を動揺させることができる。
「今か昔か、どちらでも良い。俺と貴方の娘を、婚約させようと考えてはいなかったか。そう考えて
いたな?」
「いきなりの質問だな。だが、正直に答えよう。君の予想は正しい。私は君と自分の娘を婚約させよ
うと考えていた。」
エイムズ伯はマッドの質問に少し瞠目したが、それ以上の動揺は見せず、そしてはっきりと質問に
応える。回答には悪びれも後ろめたさも何もなかった。
昔、と伯爵は応える。
「君がまだ子供だった頃だ。君は知らないだろうが、私は君の父親に、自分の娘と婚約させてはどう
かと提案した。自分で言うのもなんだが、エイムズの家はそれなりに由緒ある家系だ。借金もなく、
質実に女王陛下にお仕えしてきた。一方で君の家系も十字軍の始まりと同じくらいに古い家系だ。君
が将来、クレメンス伯となる可能性も見越して、私は婚約を提案したんだ。」
だが、とエイムズ伯の顔に苦笑が広がる。
それは、マッドの予想していたものだった。
「君の父親は笑って断ったよ。いや、にべもなかったと言うよりも、そんなに自分の娘に自身がある
のなら、娘本人に君を落とさせろ、と言っていたな。」
予想していた父親の言葉だ。彼は、誰が相手であっても息子の意見のない婚約などさせない人だっ
た。何度か婚約を結んだこともあったらしいが、最終的には全て破棄してしまった。
「今でも君が娘と婚約してくれたら、とは思う。我が伯爵家にとって、クレメンス家との婚姻は有利
に働くだろうからね。妻もそう思っている。だが、正直なところ、君の父親の言う通り、娘に君を落
とせるとは思えない。」
マッドは、ちらりと見たエイムズ伯の娘達を思い出す。母親と同じで着飾ることが好きそうな、ど
こか、つんと取り澄ました顔立ち。
派手好きは嫌いではないが、取り澄ましてこちらが取り入るのを待っているような女は、好みじゃ
ない。
「貴方の娘は、乗馬は出来るのか?」
「乗馬よりも、サロンでお茶を飲んでるほうが好きだよ。」
「ああ……。」
なるほど、確かにマッドの好みじゃない。
そう言うと、やはりね、とエイムズ伯は肩を竦めた。
「私もそんな気はしていた。特に、子供の頃、君とアンジェラが一緒に悪戯をしているのを見て、ど
うもあちらのほうがお似合いだな、と。ベイリー卿も何度か君とアンジェラの婚約のことは口にして
いたようだ。」
エイムズ伯は首を傾げた。
なにか奇妙なことを思い出した、という表情を浮かべて。
「そう、君とアンジェラはお似合いだったよ。アンジェラなら君も頷くんじゃないか、と思っていた。
だが、君の父親は頷かなかった。もちろん、子供同士のことだ。感情などいつどちらを向くか分から
ない。だが、君の父親は、そう、その時、私の娘との婚約を断った時よりも明確に断ったんだ。」
相応しくない。
きっぱりと、ベイリーに向けて、マッドの父親は言い放ったのだ。
自分の息子は、決してアンジェラを選びはしないだろうし、そしてまた、私も二人の婚約には反対
する、と。
「彼にしては、有り得ないほど冷たい口調だったな。私の娘の時は、娘に落とさせろ、だったのに、
そこまできっぱりと否定するのか、と。兄弟間だからなんの気兼ねもなく断っただけなのだろうか、
と少々考えたよ。」
「俺と、貴方の娘やアンジェラとの婚約話は、有名だったのか?」
「うん?まあ、親類縁者はみんな知っていたと思う。それに、今回の爵位継承権の話が持ち上がった
時、昔話として持ち上がった。君の従兄妹達も皆知っているだろう。」
それなら、とマッドはエイムズ伯に、死んでしまった従姉のことを聞いた。
「死んだ従姉――マリアと俺の、婚約については?」
途端、今度こそ明白に、エイムズ伯の眼が大きく見開かれた。本当に、意表を突いた質問だったの
だ。
彼もまた、マリアのことは知っていたが、しかしマッドと婚約するかもしれないとまでは想像して
いなかたのだろう。まさか、と溜め息のような声が零れる。
「マリアと、君が?彼女はつい最近まで話題にも上らなかった人だよ?」
「マリアは継承権第一位だが、生まれと育ちがそれを邪魔している。尤も、それを跳ねのけるほど頭
の良い女だったらしいから、教育すればなんとでもなったかもしれない。だがクレメンス伯は潔癖な
人だ。彼女には公妾として地位を確立させて爵位を継承させず、俺を伯爵として、彼女を俺に宛がう
計画だったということは?」
「いや……できなくはないが、しかし突飛だ。誰かが思いつくかもしれないが、実際にしようとは思
わないのでは?」
「だが、思いつくことではあるわけだ。」
マッドは暗澹たる気持ちで呟いた。ウィリアムも思いついたのだ。他の誰かが、それを想像しても
おかしくはない。
そして、その誰かが、きっとマリアを殺したのだ。
「エイムズ伯。実は本題はこれからだ。俺は、貴方に頼みたいことがある。」
「何かね?そんな気は、していた。」
君の父親も、ものを頼む時は、妙に暗い眼をしていた。
「ほとんどものを頼むことをしない奴だったから、誰かにものを頼むというのは、それだけ危険な案
件ということだろう。」
「ああ。正しく。俺は、貴方と、貴方の娘に用があるんだ。」
マッドは父親よりもずっと暗い眼をしているだろう、と思いながら、父の友人に頼み事を打ち明け
た。