馬車が飛ぶように夜の都を駆け抜ける。
今や太陽は地球の裏側に回っており、日付もそろそろ頂点を回ろうかという時刻だ。そんな中、馬
車は石畳を鋭く叩きながら、夜の明かりも潰えようとしている霧の中を走っていた。
こんな暗闇の中を走り抜けるのは、度を越した酔っ払いか、なかなか稼ぎに有り付けない娼婦か、
夜間警備隊くらいだろう。いや、彼らでさえ、こんな肝が冷えるような疾走はしない。
けれども、アメリカ西部の賞金稼ぎは、激しく打ちつけ合う蹄の音と、車輪の軋む音を聞きながら、
遅い、と唸っている。ここは乾いた荒野ではなく、霧の都だと言い聞かせたところで意味のないとこ
ろだ。猟犬が時と場所を考えて獲物を見誤るなど元も子もない。
だが、馬車を操る御者にしてみれば、マッドの要件は間違いなく辞退したいものであっただろう。
信じられないほど弾まれたチップに眼が眩んだものの、鞭を振るう手は震えている。
シティを通り過ぎ、そのままホワイトチャペルに突っ込む辺りで、御者は何度も何度も問うた。本
当にこのまま進むのか、と。霧に閉ざされた夜のスラム街は、一寸先が闇という言葉が文字通り相応
しい。視界的にも、予測的にも。
何も見えぬ闇の中は、それは恐ろしいだろう。
ましてここはウェストミンスターでもシティ・オブ・ロンドンでもなく、連続殺人事件の舞台とな
っているホワイトチャペルのスラム街なのだ。しかも、マッドがこれから向かおうとしているのは、
紛れもなく殺人事件の現場となったアパートである。
だが、御者の尻込みなどマッドには全く興味のない事象であり、一言、さっさと行け、と無情に命
じるのだった。
サンダウンは、御者のように闇を恐れることはないが、御者とはまた別の意味で夜のスラム街など
勘弁願いたいところであった。辺りを霧に包まれ、何処から何が出てくるか分からない――それこそ、
連続殺人鬼に出くわすかもしれない中に、マッドを放り込むなどするべきではない。
以前も、夜のスラム街など言語道断だと言って、スラム街に乗り込もうとするマッドを説き伏せた。
けれども今回は、マッドは何を言っても聞く耳を持たなかった。
「早く行かねぇと、ウィリアムに逃げられる。」
金髪の――幼いマッドから金時計を奪い去った従弟のことを口にし、マッドは馬車を急がせた。
マッドと同じく人を殺すことに躊躇いを見せないであろうと、マッドが評した従弟が、何故、従姉
の死んだアパートにマッドがいると判じたのか。
チャールズの挙動と、そのスラングから、金髪の兄弟が、殺された従姉と何らかの面識があったの
ではないか、とマッドは言う。
確かに、弟と従姉について問われた時の、チャールズの挙動は不審極まりないものだった。何か関
係があるのではないか、と疑っても仕方がない。
「……お前は、従弟が従姉を殺したと思っているのか?」
サンダウンは、駆け抜ける窓の外をむっつりとした表情で見ているマッドに問いかけた。だが、マ
ッドは返事をしない。がらがらと、車輪が石畳と擦れ合う音が響くばかりだ。
「マッド。」
名前を呼んでみる。
無視することを許さぬという意味を込めて。サンダウンはマッドのこの行動には、批判的なのだ。
マッドがその身を危険に曝すことは、マッドが了承していてもサンダウンには許可しかねることだ。
もしも、特に意味もなく、ただ単純に従弟がそこにいるからというだけで、従弟には何の用もないの
に夜のスラム街に向かっているのなら、マッドが何と言おうと馬車を引き返させているところだ。
サンダウンの有無を言わさぬ声音に気が付いたのか、マッドがようやく口を開く。
「正直なところ、ウィルが犯人かは分からねぇ。だが、今なら、誰にも邪魔されずに奴の口を割らせ
ることができる。」
親類不在の、ただ、従姉の魂だけが残るその場所でなら。
そう言ったっきり口を噤んだマッドと、サンダウンを乗せた馬車は、やがて人気のない暗闇に沈む
アパートの前に停まった。御者が、青黒い闇の前で、血の気の失せた顔をしたままこちらを振り返っ
たが、マッドは何も言わず、ひらりと馬車から飛び降りる。その後、幾許の間も許さずに、サンダウ
ンも降り立つ。
闇の中には、何の気配もない。ただ、沈痛な霧だけが濃く立ち込めている。
マッドは、躊躇いもなく、人が居るのかどうかも分からないアパートの中に入っていった。冷たい
壁に囲まれたアパートの中は、もはや何処に何があるのかも分からぬほど、闇がこもっている。
だが、それでもマッドは容赦なく突き進む。荒野のように星があるわけでもない、光に見放された
ような場所に、マッドの中の何かが引っ掛かったのだろうか。淀みなく歩くマッドの後姿を、サンダ
ウンは怪訝に思ったが、ふと、マッドが何に惹かれて歩いているのかを察する。
低い低い。
夜の闇に似つかわし過ぎて、地面の奥底で鳴り響く音かと見紛うほどであったから、すぐには気が
付かなかったが。
低い、ピアノの音がするのだ。
マッドの、その身体の中に半分流れる彼の母親の血が、アパートの前についた時からピアノの低音
を聞きつけていたのだろう。
アパートの狭い通路を一辺の曇りもない歩みで進むマッドは、不意にとある部屋の前で立ち止まっ
た。そして無言のまま、その扉を叩く。
ぴたり、とピアノの音が止まった。すると、その場の空気に馴染んでいた地面を這う音が消え去る。
真の静寂が、そこには漂っていた。ピアノの音がなくなったことで、アパートの中は完全に死に絶え
てしまったかのようだ。
止まったまま、その後何の反応もない部屋の中に、マッドはピアノの低音ほどではないが、やはり
低い声で言い放つ。
「俺だ。」
その部屋の中にいるのが、ウィリアムであることが分かっているかのように。
もしも違っていたら、中に潜んでいるのが殺人鬼であったならどうするつもりだったのか。サンダ
ウンは、腰に帯びたピースメーカーに手を伸ばしながら、マッドのすぐ後ろに立つ。扉から出てきた
者が、おぞましい何かであったなら、容赦なく叩き落せるように。
きぃ、と静寂を引き裂く音がして、扉が開いた。
零れ落ちたのは、見事な金髪。瞬いたのはサファイアのような碧眼。
静かにもう一度碧眼は瞬き、合点がいったように頷いた。
いつか気づかれると思っていた。
マッドとサンダウンを部屋の中に通したウィリアムは、淡々とそう告げた。分厚いカーテンで覆わ
れた部屋の中にはランプが一つ灯っており、そのすぐ傍には古びたピアノがあった。それ以外の家具
といえば、テーブルと椅子だけで、他には何もない。
ゆらゆらとオレンジ色の光が揺れる部屋について、ここは、とマッドが問えば、ウィリアムは乾い
た眼を瞬かせる。
「僕の、隠れ家。」
答えて、彼はピアノの椅子に座る。膝の上に置かれた白い手は、マッドのそれほど優美ではないが、
やはりピアノを弾く者としての繊細さに溢れていた。
ウィリアムの中にある自分と同じ血に気づいていないのか、マッドは彼の真正面の椅子に座ると足
を組んで従弟の顔を見つめる。
「それは、ずっと昔からか?それとも、何か理由があって、此処を隠れ家にしたのか?」
「ここが、彼女の部屋の隣だったから。」
ウィリアムの表情は先程から能面のようだ。
「僕達の、従姉の。」
仮面を貼り付けたような顔のまま、彼は、静かに告げる。この隣の部屋が、従姉の殺された部屋だ
った、と。
告げられた真実に、しかしマッドの表情一つ変えない。
「殺される前から、お前は此処を隠れ家にしてたんだな?そして、話をするほどには親しかった。そ
して、チャールズはそれを好ましくは思っておらず、お前を此処から引きはがそうとして何度か此処
に足を運び、当然従姉とも顔を合わせたわけだ。」
こっくりとウィリアムは頷く。
「興味があったんだ。娼婦として暮らす、従姉に。」
若いピアニストは、言った。
「僕が彼女について知ったのは、ずっと前のことだ。創作活動のために父さんの遺品を整理してたん
だ。なにか、面白いものはないかって。そしたら、お父様宛の手紙の中に、出奔した伯父様のものが
あったんだ。」
手紙の内容は、病で伏せった父親を励ますものであったらしい。ただ、おそらくこの時には、伯父
もまた、悪辣な環境下で身体を損ねていたのだろうが。
「そこに、マリアのことが書かれていた。」
「…………。」
ようやく初めて聞いた従姉の名に、マッドはしかし反応しなかった。
「俄然興味が湧いて、会いに行ってみることにしたんだ。チャーリーに言えば絶対に口煩く反対され
るだろうから、黙って会いに行った。」
「……チャーリーなら、」
マッドが口を挟む。
「お前のためなら、ふんじばってでも連れてきたんじゃないのか。」
「そうかもしれない。」
ふっと、ウィリアムの表情が突然ほころんだ。
「結局チャーリーにはばれて、何度かマリアのところにやって来ては騒がれたけど、それを見たマリ
アも兄さんと同じことを言っていたよ。」
兄さん、と。それはマッドに向けて言った言葉。実兄であるチャーリーを差し置いて、マッドを兄
さんと呼んだウィリアムの顔は、もう仮面を被っていない。
「兄さんは、僕が手に入れようと思ったものは、何が何でも自分で手に入れて、僕に施そうとするか
らね。兄さんは金時計のことを覚えてる?おばあ様が、ピアノが一番上手な人にくれるって言ってた
金時計。あれ、僕は本当に欲しかったんだ。僕の好きなピアノで、僕が一番になって、手に入れるっ
て思ってた。なのに蓋を開けてみれば、チャーリーがいちゃもんつけて手に入れて施すんだもの。」
「あいつは、俺のことが嫌いだったからな。」
「僕が、貴方のことを兄さんって呼んでるから。嫉妬だよ。それと同じで、マリアのことも気に入ら
なかった。娼婦だとか、そういうのじゃなくて。」
「………どんな女だった。」
「とても頭が良かった。」
クレメンス伯爵家の血筋として、恥じることのない才知を備えていた。父親が己の知識を生きてい
る間に出来る限り注ぎ込んだ所為もあるだろう。スラムで生きていく強かさがあったが、それはとも
すれば卑屈になりがちだ。しかし、彼女にはそれがなかった。むしろ、上へと芽吹く、苛烈さがあっ
た。
まるでピアノが鳴り響くような声で、ウィリアムはマリアと呼ばれた娼婦について語る。それこそ
が、彼の最新の曲であると言わんばかりに。
活き活きと語る若者の顔は、兄の隣でやる気がなさそうにそっぽを向いていたものと同じとは思え
ない。
「勿論、そのまま貴族になるには、品位だとかを磨く必要があっただろうけど、それくらいどうとで
も出来るだけの覇気があった。伯父様に教えてもらったのかもしれないけれど、簡単なソネットは諳
んじてたし、もっと色んな本を読めば、その辺で道楽にふけってる貴族なんか脚元にも及ばないくら
い見事な貴婦人になってみせると思った。」
そうだね、とウィリアムは碧眼で、マッドをひたりと見つめる。
マッドに良く似た、眼差しだ。
「兄さん、貴方に似ていた。ひいては、現クレメンス伯爵に。即ち、おばあ様に。」
彼女の眼は、間違いなく、クレメンスの家長の眼をしていたのだ。マッドと、同じ。
マッドはウィリアムの言葉を黒い眼で受け止める。そして、囁き返した。
「お前と、同じだ。」
すると、ウィリアムはピアノに凭れかかった。
継承権について親類が話している時と同じ、つまらなさそうな顔。
「僕には無理だ。伯爵なんかに興味はない。マリアもそう言っていたな。彼女は血筋だけで言えば、
継承権一位なわけだし。僕がそう言ったら、笑って興味がないって言ってた。堅苦しいのは嫌だって
さ。」
それに、と若者は今度は身を乗り出す。
「クレメンス伯父様だって、彼女に爵位を譲る気は本当はなかったんじゃないかな。だって兄さんが
いるのに。」
「じゃあ、何故弁護士まで呼んで彼女を調べた?金銭的な援助でもするつもりだったのか?今更?」
「金銭的な援助もあるかもしれないけど、むしろ、ちゃんとした教育を受けさせて、それなりの地位
をつけさせたかったんじゃないの?マリアは美人だし教養もそこそこあったけど、今のままだとスラ
ムの娼婦でしかないから、そこから高級娼婦に格上げさせたかったのかもしれない。」
そうすれば、とウィリアムは口を一瞬噤み、マッドの顔色を窺うように上目遣いになった。
何かいかがわしいことでも話そうとしているかのような従弟に、マッドはその先を自分で続けた。
「そうすれば、俺に宛がうこともできる、か?」
言い当てられたウィリアムは、ばつが悪そうに頷いた。
この時代、高級娼婦が貴族の愛人として名を馳せることは良くあった。この時代ならば、正にカロ
リーナ・オテロ、リアーヌ・ド・プジーといった娼婦達が、王族にまで取り入って寵愛を受けていた
のだ。
「正式な婚姻はなくても、公妾としておくことはできるし。」
「潔癖なクレメンス伯爵が、そんなこと考えるかね。」
「でも、マリアはクレメンス伯が見れば気に入るタイプだと思うね。兄さんと似ているから。兄さん
を呼び寄せて、マリアも公妾になれるほどに教育すれば、僕みたいに邪推する人はいる。特に、女性
陣は。」
従姉妹達は、みんな兄さんのことが好きだったよ。
「僕も。」
ウィリアムの言葉は、マッドに何の感慨も与えなかったようだ。マッドは代わりに、問う。
「マリアのことは?」
若者の白い頬が微かに震えた。
活き活きとしていた眼と、何かを到達してはならない先を突きつけられた白い頬の対比が、何より
も彼の中でマリアがどういう存在であったかを物語る。
掠れた、しかしそれでも旋律のような美しい声音で、好きだった、と囁く。
「好きだった。クレメンス伯父様のことも、おばあ様のことも。僕は、多分、クレメンスの家長に惹
かれるんだ。あの、眼に。」
黒々とした、宇宙を飲み込んだような眼。混沌として、何もかもを飲み込む貪欲で底知れぬ気配を
放つ眼。宿る光は鋭く、覇気に満ちている。
誰がどれだけ爵位を望んでも、爵位は既に生まれ落ちた時に身体の何処かに刻まれ、後継者を指し
示しているのだ。
クレメンス家の場合、それは瞳に顕れる。
「チャーリーは僕の為に爵位を取ろうとしてるけど、それは無理だ。爵位はチャーリーの手には一秒
たりとも転がり落ちない。」
「その為に、後継者を次々と殺しても?」
途端に、ウィリアムは弾かれたように笑った。静かなアパートの中に、奇妙にそれは木霊する。揺
り動かされた空気の中で、だが、静寂は芯でも通ったかのように揺るがない。
「チャーリーが人殺し?無理だよ。」
「お前のためでも?」
「僕の為でも。やろうとしたって、チャーリーは失敗する。マリアはチャーリーに殺されるような間
抜けじゃない。」
仮に、と笑みを消してウィリアムはマッドを見た。
「運よくマリアを殺せたとしても、そこで終わりだ。兄さん、貴方には、チャーリーの奸計に引っか
かるような人じゃない。」
貴方の眼は、クレメンス家である以上に、そういう存在であることを告げている。
何かに畏れるように、ウィリアムは呟いた。