マッドは客室のロッキングチェアに座って、長い脚を組み、床に降ろしたほうの脚で椅子を揺り動
かしていた。揺れるたびに、きぃきぃと音を立てる椅子に凭れ込み、眼を閉じる。眼を閉じても、サ
ンダウンが斜め前で佇立している気配がすることに、安堵した。
 ただ、サンダウンは少し怒っている。マッドが自分を囮にすると言ったからだ。サンダウンはマッ
ドを守るためにそこにいる。それなのに、守られるべきマッドが、それを粉々に打ち砕くような真似
をしているのだから、怒るのも当然だ。
 サンダウンが、流石にマッドのようにすぐに頬を膨らませたりはしないが、けれどもひしひしと怒
っているのだという気配を滲み出している。
 サンダウンの怒りはマッドにとっては身を竦ませるほど恐ろしいものではあるが、同時に自分のた
めにここまで怒っているのかと嬉しくもなる。なので、なんとも言えない気分をマッドは味わってい
た。
 そして、怒っていたとしても自分の本分を見失わぬのがサンダウンという男でもあった。

「言われた通り、他の連中がシャーロットが刺された時に何をしていたのか、聞いてきたぞ。」

 マッドがクレメンス伯の部屋を辞したそのすぐ後、警察は当然のことながら、このタウン・ハウス
にもやってきた。そして、クレメンス伯やアンジェラ、そしてマッドについてもあれこれと聞いてき
たのだ。
 マッドが爵位の継承権第一位にいると知った時の警察の顔は、すぐさま従姉殺しのことを思ったの
だろう。正に獲物を見つけた時の猟犬の顔をしたのだが、マッドが生憎とその時はアメリカにいたと
いうと、眼に見えて萎んでいった。
 マッドは心底伯爵になど興味がないが、傍目から見れば従姉殺しの犯人としてはマッドが一番怪し
いのだ。アメリカにいて、つくづく良かったと思う。
 その警官から、サンダウンはどういう神業を使ったのかは知らないが、他の連中のアリバイとやら
を聞き出してくれたらしい。基本的に無口で、お喋りが得意には見えないこの男が、本当にどうやっ
て警官の口をこじ開けたのか。
 マッドが不思議に思っているのを、眠いと勘違いしたのか、サンダウンがマッドの顔を覗き込んで
くる。

「……ホテルに戻るか?そこで休んでから、話すか?」
「いや、別に疲れてねぇから。」

 お前が警官を口説き落としたテクニックについて考えていた、と言うと、サンダウンの眉が怪訝そ
うに顰められた。マッドが何を言っているのか分からなかったのだろう。

「やはり疲れているんだろう。……それとも寝ぼけているのか。」
「だから違うって言ってんだろ。」

 これ以上話していても、話は平行線を辿る一方だ。放っておいたら、サンダウンはマッドを担ぎ上
げて、ホテルに戻りかねない。

「それで、警官はなんだって?」
「…………アルバートとその息子のジェラルドは会社にいて、すぐに話しができたらしい。二人とも
その時間は仕事で銀行へ行っていたらしい。」

 経営難に陥っていたことを考えると、彼らは銀行に融資の依頼をしに行っていたのかもしれない。
ぼんやりと思う。

「じゃあ、その二人にはシャーロットを刺すのは無理だな。」
「誰かに頼んだのでなければ。」
「ああ………。」

 次に、と低い声は続ける
「エイムズ伯とその家族は、とある貴族のお茶会に呼ばれていたそうだ。クリスマスには会えなかっ
たからその代わりだそうだ。それと、エイムズ伯は事件の事を聞いて、すぐこちらに向かうと言って
いたらしい。もうすぐ来るかもしれない。」

 父の友人であった男の近い来訪に、マッドは鷹揚に頷く。
 そして、ふっと問うた。

「エイムズ伯には、娘がいたよな。」

 問いかけに、サンダウンの眉がますます顰められ、眉間に皺が起きる。

「クリスマスパーティには娘が同伴していたな。あとは、お前のほうが良く知っているだろう。」
「ああ、そうだった。」
「だが、それがどうした。その娘がいたところで、その娘は一番爵位から遠いだろう。」

 エイムズ伯爵夫人が男であったならまた話は別だろうが、イギリスでは男の兄弟が継承権には優位
なのだ。エイムズ伯爵夫人は、マッドだけではなく他の親類全てが死に絶えでもしなければ、爵位は
手に入らない。

「まあそうなんだがよ。ベイリーみたいに、娘を俺に嫁がせようっていう魂胆もあるだろ。」

 それは、エイムズ伯に聞けば良いことだ。彼と、父親の中で何か取り決めはあったのだろうが。い
や、仮にエイムズ伯が何か言ったとしても、父が反古にしているだろうな、とマッドは思う。

「それと、チャールズは会社にいたが、ウィリアムは見つかっていない。チャールズは弟はピアノの
稽古をつけにどこぞの令嬢の家に行ったと言っていたが、そこにはいなかった。最後のマイケルは、
大学にいた。」
「シャーロットが刺された時、所在が不明なのは、ウィリアムだけか。」
「……誰かに頼んだ、という可能性もあるだろう。それに、ベイリーとアンジェラは同じ家にいた。
動機は分からんが、犯行自体は可能だろう。」

 それと、とサンダウンは付け足す。

「チャールズも後ほど此処に来るそうだ。この時、ウィリアムも一緒かどうかは分からんが。」
「マイケル叔父は?」
「来るつもりはなさそうだった、と警官は言っていたな。」

 冷たいものだ、というのが警察の感想だ。
 サンダウンの言葉に、マッドは苦笑する。マイケルのことは、マッドは良く知らない。マッドが子
供の頃から、社交界に出てくるような人ではなかったのだ。偶に姿を見かけても、難しい本を片手に
子供の相手などしない男だった。
 それをマッドは悪し様に言うつもりはない。マイケルは、良くも悪くも他者に興味がないのだ。腹
の探り合いが必要な上流社会を突つくのなら、顕微鏡片手にダンゴムシを弄っていたいのだろう。
 他者の眼を気にせぬ無関心さは、紛れもなくマッドの中にもあるものだ。ただ、マッドの中には父
の他者に向けられる声のほうが大部分を占めている。
 おそらく、とマッドは思う。
 親類縁者の中には、多かれ少なかれ、マッドに似た部分があるのだ。或いはマッドの中に親類縁者
に似た部分があるのか。
 クレメンス伯の覇気、ベイリーの抜け目のなさ、エイムズ伯爵夫人の挑発的な物言い、マイケルの
無関心。悉くがマッドの中にもあって、ただ、幸いにして父親の陽気さが、それらを冷たい霧の奥底
で蠢くものではなく、マッドを荒野のからりとした空気に換えているのだろう。
 一方で、父親にはない皮肉めいた気障ッたらしいところは、十中八九、親類縁者か、或いは母親の
ものだろうと推測できる。それとも、遠い昔会ったきりの、祖母である女伯爵のものだろうか。この、
黒い眼と髪も。
 マッドは、自分の目の前に立っている男を見上げる。
 この男は、母親を見たことがある。この男なら、もしかしたら、この眼と髪が、何処から来たもの
か判じることができるかもしれない。
 聞いてみようか、と口を開いた矢先、けたたましい音を立てて客室の扉が開いた。
 マッドは顔を上げてそちらを見る。サンダウンは、マッドよりも早くそちらを見て、マッドを扉か
ら隠すように移動している。
 サンダウンの影に隠れて見えなくなった扉から、強い怒りの声が上がった。

「どうして、私の部屋にこの男がいるんだ!」

 駆け抜ける音階のように朗々とした声だった。だが、発している言葉は余りにも幼稚だ。昔から、
こういう物言いしかできない男だったな、とマッドはサンダウンの背後で立ち上がる。

「此処は私の部屋だ!出ていけ!」
「悪いが、ここを選んだのは俺じゃない。文句ならばクレメンス伯に言うんだな。」

 サンダウンを押しのけるようにして、マッドは幼稚に騒ぐ男の前に立つ。見事な金髪と青い眼。昔
から、その髪と眼を鼻にかけていた。

「此処は客間の一室で、それなら客人達は使用人に案内されて此処に通されただけだって分かるだろ、
チャーリー?」

 殊更ゆっくりと、気だるげでさえある口調でマッドが窘めれば、チャールズは足を踏み鳴らさんば
かりに怒鳴った。

「此処は昔から、私の部屋だったんだ!」
「俺が覚えている限りでは、この部屋はいつもクレメンス伯が使っていたと思うんだが。」

 言ってから、そういうことか、とマッドは納得した。
 マッドが子供の頃――祖母である女伯爵が健在であった頃、この部屋を使用しているのは現クレメ
ンス伯だった。クレメンス伯が必ず此処に通されていたのだ。つまり、この部屋は、次期伯爵が使用
できる部屋、ということだろう。
 ただ、マッドが現れるまでは次期伯爵は不在であったため、誰でも――それこそ継承順位の低いチ
ャールズでも使用ができたのだ。
 けれども、今やマッドが此処にいる。それは、暗に次期伯爵がマッドであると決まっているような
ものだった。
 やれやれ、とマッドはサンダウンに目くばせをする。そんなしょうもないことで争っても意味がな
い。時間の無駄だ。さっさと出ていこうとして、思いついたように問う。

「そういえば、ウィルは見つかったのか?」

 途端に、チャールズはかっと頬に血を上らせた。弟はまだ見つかっていないのだ。弟の不在が、何
故ここまで彼を取り乱させるのかが、マッドには分からない。

「まさか、お前、ウィルが何かしたと思ってるのか?」

 続けた問いかけに、トランクが飛んできた。サンダウンが受け止めていなければ、トランクはマッ
ドの顔面にぶつかっていただろう。
 受け止めたトランクを、サンダウンは無言で床に降ろす。ただ、その時一瞬立ち上った気配は、殺
人鬼でも裸足で逃げ出すほど凄惨なものだったが。
 だが、幸いにしてチャールズはサンダウンの気配には気づかず、頬を紅潮させたまま荒い息を吐い
ている。

「出ていけ!ウォップの血が混ざったヤンキーが!」

 イギリス貴族とは思えぬ言葉遣いに、マッドは微かに瞠目した。どう考えても、下町のスラングだ。
或いは、アメリカ西部ならばこんな言葉遣いは日常茶飯事だが。
 何処でそんな言葉を覚えたんだ、と、マッドはクレメンス伯がデュパンの名前を出した時と同じよ
うな疑問が湧く。伯爵の場合は教養で済まされるが、チャールズのそれは教養などではない。
 もしかしたら。

「お前達、もしかしてスラム街に入り浸っているのか。」

 例えば、スラム街に女がいるとか。
 別に、貴族が娼婦を買うことは珍しいことではない。それどころか、この時代の貴族は、売春宿に
走ることが多かった。だから、別段マッドの指摘は、貴族の顔色を変えてしまうようなものではなか
ったのだが。

「失せろ!」

 真っ赤だったチャールズの顔は、今度は一瞬で蒼白になった。そしてマッドの眼の前で、華麗な細
工の施された扉は、ぴしゃりと閉ざされた。
 あまりの剣幕に、マッドは呆気に取られたが、チャールズが何故スラムとの関係性を問われて豹変
したのか、一つの可能性に思い至る。

「マッド?」

 唐突に身を翻したマッドの背に、サンダウンが声を上げ、しかし当然のように付いてくる。何処へ、
と問いつつも、サンダウンの中にはついていかないという選択肢はないようだった。

「ホワイトチャペルに行く。あの、アパートだ。」

 チャールズが恐れているのは、自分達――ウィリアムに従姉殺しの嫌疑がかけられることではない
だろうか。だが、継承順位のさほど高くない彼らが、すぐさま嫌疑をかけられるのはおかしい。スラ
ム街に出入りしていたとしても、娼婦のことを正直に話せば良いだけのことだ。
 ならば、何故あそこまで怯えたのか。
 考えれば思いつく。
 彼らは、あのアパートについて、知っていたのだ。
 そして、スラングが混ざるほどに、深く関わっていたのだ。