「シャーロットの容態は?」
現れた甥と姪に、クレメンス伯は顔色一つ変えずに問うた。二人から返ってくる返答が、如何なる
ものであろうとも、その表情は微動だにしないだろうと思うほどに、皺の刻まれた伯爵の顔は凍てつ
いていた。
「胸と腹部を刺されて意識がありません。医者も、とにかく予断を許さない、と。」
伯爵の問いに、アンジェラがこちらも勤めて平静な声で返す。そうか、と伯爵が溜め息混じりの言
葉を漏らした。
「犯人の目途は、立っておらんのだろうな。」
「ええ。使用人達は、巷で噂になっている切り裂きジャックが、とうとう淑女にまで手を出すように
なったのではないか、と囁いております。」
「ホワイトチャペルのスラム街と、ウェストミンスターの貴族の邸宅とは、わけが違う。如何な連続
殺人鬼でも、そう簡単に貴族の庭先に忍び込めると思うかね。」
クレメンス伯は、ゆっくりと、けれども冷徹にアンジェラの顔に事実を突きつける。それはつまり、
ベイリーの邸宅に入り込める人物が犯人であると言っているようなものだった。その中には、勿論、
ベイリーを始めとする親類縁者も含まれている。
己の身内に疑いの眼を向けるクレメンス伯に、アンジェラは悲しげに首を横に振る。
「確かにその通りです。あの庭は、小さいけれども木が生い茂っていて、見栄えも良くないから眼で
見て楽しむものではありません。だから人目に付かず犯行に及ぶことはできるでしょうが、それと、
庭の中に入って人を刺すことは別です。」
彼女もまた、身内に犯人がいることを疑っている。
それはきっと、警察も同じだろう。
「けれども、私達のうちの誰に、あの子を殺す動機があるのでしょうか?」
「それは私にも分からない。」
クレメンス伯も、アンジェラと同じように首を横に振った。
シャーロット。
サンダウンはその娘については、本当によく分からない。クリスマスパーティの時にはいたそうだ
から、サンダウンもちらりと見たはずなのだが、如何せん記憶に残っていない。印象が薄いのだ。そ
して、何らかの肉付けをしようにも、過去に面識があるはずのマッドでさえ、彼女については良く覚
えていないというのだから、過去の出来事から彼女が如何なる人物であるのか見出すのは不可能だ。
そして、更に、伯父と姉の発言。彼らもまた、シャーロットには殺される理由がないというほど、
印象が薄いのだ。
けれども、それでもサンダウンは知っている。シャーロットが殺される、幾許かの理由を。
「アンジェラとシャーロットは、死んだ従姉のことをベイリー伯父から聞いていたらしいが。」
マッドが抑揚のない声で、海底に沈んだ船の中のような伯爵の部屋の空気を掻き混ぜた。伯爵の眼
が少しだけ見開かれ、アンジェラを見る。アンジェラは、仕方なさそうに頷く。
「けれども、聞いたところでどうにもなりませんわ。彼女のことは私は会ったこともないのだし、彼
女が死んでも私達の立場が大きく変わるわけでもない。」
「そう。お前達は継承権からは少し遠い位置にあるからな。」
シャーロットが刺されたという第一報を聞いた時、クレメンス伯はマッドの従姉を殺した犯人が、
彼女を襲ったのかと思ったのだという。
「だが、それならばおかしい。シャーロットには爵位の継承権が降りる可能性は低いからだ。あの娘
には、殺される動機が全くない。」
「そうとは限らないだろう。」
ひやり、とマッドが再び部屋の空気を掻き混ぜる。マッドの白い手が、すっとサンダウンに延びて
きた。サンダウンはその手の上に、恭しく一枚の手紙を乗せる。それは、シャーロットと思われる人
物がマッドに宛てた手紙だ。
「シャーロットは、どういうわけだか、今日、劇場に俺を呼び出したんだ。」
何、とクレメンス伯とアンジェラが、同時に声を上げた。印象の薄い娘が、どう見ても派手な色合
いを持つマッドに手紙を書くなどとは考えられなかったのだろう。
二人の反応に、マッドは口だけで微笑む。
「今日、俺は従姉が殺されたアパートの前に行ってきた。すると、ベイリー叔父の命令で俺を尾行し
ていた馬丁を見かけたんだ。シャーロットはもしかしたら、馬丁がベイリー叔父に俺について報告し
ているのを聞いたのかもしれない。そして、俺があのアパートに行ったことを知った。」
「あのアパートに行っただと?なんと危険なことを。お前が一番狙われる可能性があるのに。いや、
それよりもそのことが何故、シャーロットがお前を劇場に呼び出すことと繋がるのだ?」
初めて、クレメンス伯の声に微かな乱れが生じた。唐突に突き出された情報に、冷徹な顔の下にあ
る人間の部分が混乱しているのだろう。
厳格さがほんの少しだけ薄れた伯爵に、マッドは笑みを湛えたまま告げた。
「従姉が殺されたアパートで起きた事件について、相談したいことがある、と。この事件というのは、
従姉が殺された事件だと考えて差し支えないだろう。」
彼女は、嘘か真かは分からないが、従姉殺しについて何か知っていると語っているのだ。それは、
マッドにのみひっそりと届けられた。しかしそれは実は穴だらけで、何処かでこの手紙の内容をこっ
そりと見た者がいるのかもしれない。或いは、何かの拍子にシャーロットが口を滑らせてしまったの
かもしれない。
「シャーロットが事件について何か知っている。だから、殺そうとした、と?」
「或いは。」
マッドは優雅な仕草で手紙を懐にしまうと、唇に人差し指を押し当てて、囁いた。
「俺を殺すための、布石か。」
それは、サンダウンが尤も恐れていること。マッドを殺すために、連続殺人に紛れてマッドを殺す
ために、マッドに少しずつ被害者を近づけていく。まずは娼婦から、貴族の淑女に。そして次は男に
手を伸ばすのだろうか。最後、終着点は、マッドだ。
「もちろん、可能性があるだけだ。だが、これが本当に継承権絡みの事件なら、最後に行き着くのは、
俺だろう。」
懐から抜け出たマッドの手には、もうシャーロットからの手紙は乗せられていない。代わりに彼が
手にしているのは葉巻だ。一番最初に、このタウン・ハウスを訪れた時は、後ろを取られぬようにと
控えていたのだが、非日常の最中にあって、どうやら貴族の顔よりも賞金稼ぎの顔をしていたほうが
得策だと考えたのか。
一言、失敬、とだけ告げて、あっさりと葉巻を口に咥えた。きっと、伯爵が咎めてもマッドは止め
なかっただろう。伯爵はそんな甥の姿を、眼を細めて見つめただけで、何も言わなかった。
「けれどまだ悉くが可能性の段階でしかないが、警察は切り裂きジャックの線も一応は考慮するだろ
うが、やはり後継者争いに眼を向けるだろう。近いうちに、シャーロットが刺された時に、何処で何
をしていたのか、聞かれるだろうな。」
「私達は家族なのに?」
「家族でも関係はないだろうな。」
アンジェラの言葉を、マッドは鼻先で笑う。
むしろ家族だからこそ、警察は真っ先に疑うだろう。どれだけ怪しくなかったとしても。
「さて。」
不意に、クレメンス伯が細めていた眼をそのままにして、マッドに問うた。
「我が甥っ子は、いつからオーギュスト・デュパンになったのやら。」
「伯父上がアメリカの小説家を知っているなんて、驚きだな。」
世界初と言われる探偵の名を出した伯爵に、マッドは表情一つ変えない。聞いているサンダウンは
何のことを言っているのかさっぱりで、後でマッドにデュパンとやらについて聞いたのだが。
「ではデュパン殿は、これからどうするのかね?私が危険だから大人しくしているように言ったとこ
ろで聞きはしまい。」
「俺は探偵ではないんだが。」
マッドはクレメンス伯の言葉をひらりと躱す。ひらりと躱して彼が立って見せたのは、白刃の上だ。
探偵のようにロッキングチェアではなく、賞金稼ぎとしては踏み外せば首が飛ぶような刃の上こそが
相応しい。
だがそれは、サンダウンが最も最も避けたいことだった。
「もしも犯人の狙いが俺ならば、俺が囮になるのが一番手っ取り早い。」
「マッド。」
クレメンス伯の部屋を辞し、アンジェラと別れて二人っきりになって、ようやくサンダウンはマッ
ドを咎めることができた。
よりにもよって自分を囮にするなんて。
マッドはこれまでも、よく自分を敵前に曝け出すことがあったが、敵の狙いが完全にマッドである
かといえばそうではない場合がほとんどだった。けれども今回は違う。今回は、完全にマッドが標的
なのだ。敵は――犯人はマッドを殺しにかかってくる。
「犯人の狙いが、爵位であるなら、な。」
マッドは葉巻を咥えたまま、揚げ足を取る。しかしマッドは、揚げ足じゃないぞ、と言い返してき
た。
「まだ奴の狙いが爵位であると決まったわけじゃねぇ。全然違うものであるかもしれねぇんだ。俺が
狙いだっていうのは、まだまだ可能性の一つでしかないぜ、キッド。」
「……だが、危険だ。」
「今に始まったことじゃねぇだろう。」
なあ、キッド。
マッドが、ひたりとサンダウンに近づく。誰かに怪しまれない程度の立ち位置。だが、声が強請る
色を湛えている。
「嫌なら、あんた一人でアメリカに帰るか?」
少し小首を傾げたその表情の真ん中で、黒い眼が不安げに揺れている。
マッドはサンダウンが決して自分を手放さないと知っている。知っているが、しかしそれはマッド
の中では未だ強固な事実には至っていない。
だから、時折、こうして瞳に微かな不安を浮かべるのだ。
いっそ、これがあざとく行われているのなら良いのだが、マッドは本心から不安を零している。
「お前を、こんな場所に残して、帰れるわけがないだろう。」
良いか、とマッドに囁く。本当ならば抱きしめて不安はないのだと言い聞かせてやりたいが、此処
では無理だ。
「私の傍を離れるな。私が必ずお前を守ってやる。」
「……ああ。」
すり、と一瞬だけ、マッドの頭が肩口に当たった。だがそれは、すぐに通り過ぎる。通り過ぎてい
った黒い頭に、サンダウンは、しかし、と問いかける。
「今回の事件の狙いは他にあると言っているが、何か思い当たることがあるのか?」
娼婦殺しの続き、継承権問題、シャーロットが何かを知っていたから口封じ。他に、何か狙いがあ
るのだろうか。
「……お前、馬車の中で、誰が人を殺せるかを言っていたな。それが、何か関係があるのか。」
「いや。」
マッドは、うっとりとした微笑みを浮かべる。
「ただ、俺は俺と似た奴を挙げていっただけさ。それに、こういうのはやっぱり、賞金稼ぎの眼で見
て見ないと分からねぇことがあるもんだな。」
標的として犯人を見るのではなく、犯人を追いかける側の目線で標的と犯人の関係性を見てみない
と。
「何か、分かったのか?」
「…………さあ?」
マッドの声に、微かに曇りが入った。
「だが、犯人にとっても今は正念場だろうよ。なんせシャーロットはまだ生きてるんだからな。」
彼女が生き延びたら、何を語り出すか。
それが、犯人にとっての断頭台でもある。