時刻は五時を回ったばかりだというのに、既に辺りは真っ暗だった。太陽は霧の向こうに隠れてし
まい、最後の赤い光の帯でさえ、霧の前には無いに等しい。
 けれど、日差しが消えてもウェストミンスターの街中は、女王陛下の御膝元である故か、綺麗に街
灯が一定の間隔で並んでおり、夜に沈みかけた街並みに光を与えている。そして、街灯に守られた道
の上を、忙しなく馬車が行き来している。
 たった今、サンダウンの背後でも一台の馬車が立ち去ったところだった。サンダウン達を此処まで
乗せてきた馬車の御者は、劇が終わる頃にまた来ると告げて、他にも客がいるのだろう、足早に去っ
ていった。 
 劇場の周りは貴族達でごった返しており、冬であることも忘れるほどの熱気だった。
 年の瀬で貴族達も暇なのか、と呟くと、前を行くマッドが口を歪め、

「年の瀬だからこそ最後に社交界で根回しをしときたいのさ。」

 と言った。
 ウェストミンスターについ最近作られたという楕円形の劇場は、ヴィクトリア女王の伴侶であるア
ルバート公に捧げられた演劇場であるという。窓と言う窓から煌々とオレンジ色の明るい光が零れ落
ち、劇場の外観に落とされた夜の青との対比が美しい。
 貴族たちが社交の場として使いたい気持ちも、何となく分かるというものである。
 ただ、サンダウンにしてみれば劇場なんぞ、行ったのは何年振りか、というくらい馴染みのない場
所であった。保安官だった頃、付き合いで行ったような記憶があるにはあるのだが、はて、一体何の
劇を見たのやら。もしかしたら、つまらなくなって、途中で眠ってしまったかどうかしたのかもしれ
ない。
 流石に今回は、マッドを守る立場にあるので、眠ったりすることはないだろうが。 

「だが、この中からシャーロットという娘を見つけるのか?」 

 劇場の中は貴族達でごった返している。雑然とした空気ではなく、どことなく優雅な雰囲気ではあ
るが、人を捜すのに適した状況とは言えなかった。 
 それでも、サンダウンも保安官であった頃の経験を遺憾なく発揮すれば、対象者を見つけられなく
もない。保安官というのは――警察官もだが――己が獲物と見定めたものについては、何故だか人ご
みの中からでも見つけ出すことができるのだ。
 が、正直なところ、サンダウンの中でシャーロットとかいう娘は完全にノーマークであった。とい
うか、サンダウンの意識は今のところマッドに対してのみ大いに発揮されている。
 これはサンダウンが悪いのではない。もしもこれがアンジェラやジェラルド、ベイリーといった、 
マッドに対して何らかの発言を行った者であるならば、サンダウンも顔を覚えている。が、シャーロ
ット。クリスマスパーティにいたことは覚えているが、顔までは覚えていない。影の薄い、アンジェ
ラの妹としか。 

「本当に俺に言いたいことがあるのなら、向こうから何らかの接触があるだろ。」 

 マッドは随分と呑気なものだ。
 自分の命が狙われているかもしれないというのに。サンダウンはこんな人ごみの中に、マッドを連
れてくることさえ避けたいというのに。

「だから言ってるだろ。今、この状態で俺だけを狙って殺したりしたら、真っ先に疑われるのは、あ
いつらなんだぜ。」
「この劇場内で銃を乱射して、他にも犠牲者が出たなら、お前だけが狙いとは言えなくなるが。」
「誰が銃を乱射するんだよ。雇われ者か?此処に入れるのは上流階級の者か、それに雇われてる従者
くらいだ。そういう連中は、俺の親類縁者に雇われる立場にねぇだろうが。」

   そう言うと、マッドは演目が書かれた紙に視線を落とす。
 上演されるのは、シェークスピアのハムレットと、ゲーテのファウストらしい。両方とも、サンダ
ウンにはさっぱりだが。いや、ハムレットは分かるけれど。父殺しの仇を王子が取ろうとする話だっ
た。そういえば、マッドが己の親類縁者の後継者争いを、シェークスピアの劇になぞらえて、何か言
っていた。

「これで劇がマクベスだったら、出来過ぎてたな。」

 マッドも思い出したのか、ふっと呟いた。
 シェークスピア四大悲劇の一つ。マクベスが主君を殺してその座を奪い、けれども重圧に耐えかね
て最後は、殺した主君の家来達に殺されるという話。
 マッドの親類縁者達は、マッドをマクベスになぞらえて、破滅すれば良いのにと考えているのだ。

「或いはクレメンス伯をリア王になぞらえるか。ハムレットは無理だしな。」

 父親が殺された件については、親類縁者は誰も口を出すつもりはないだろうし、そもそもマッドが
父親を殺した犯人を許してしまっている。ハムレットでは父親が、己の仇を討ってくれと請うのだが、

「俺の親父はそういうことを請うくらいなら、今流行の女優のポスターをくれとか言いそうだしな。」

 言いながら、マッドは二階の個室へと上がっていく。劇一つを見るのに、随分と豪勢な席をとった
ものだ。おそらく、シャーロットからの相談内容を考慮して、わざわざ個室にしたのだろうが。だが、
個室に入ってしまうとシャーロットがこちらを捜し出せなくないだろうか。

「一応、劇場の支配人には俺を捜してる令嬢がいたらこっちに通しておくように言っておくさ。けど、 
もしも本当にシャーロットが俺に会うつもりだって言うなら、俺の動きが分かるように向こうも何か
手を打ってると思うぜ。」

 既に劇場に使用人の誰かを入れているか、マッドと同じように支配人に話をつけておくか。 
 しかし、サンダウンはそれには頷けない。

「貴族の令嬢に、そこまでの考えが及ぶか?」 

 どうも印象が薄い所為か、シャーロットにそこまでの知恵があるようには思えないのだ。アンジェ
ラであったなら、そこまで考えるかもしれないと思えるのだが。
 するとマッドも、ああ、と頷いた。

「それはあるかもな。親父のほうの入れ知恵ならともかく、シャーロット本人がそこまで考えられる
かは、俺も分からねぇ。やっぱり、支配人にちゃんと言っとく必要があるな。」

 マッドはすぐに支配人を呼びつけると、シャーロットという令嬢が来たら、こちらに通すようにと
伝えた。支配人は承知しました、と恭しく応える。当初はシャーロットがマッドを捜していたらこち
らに通すつもりだったが、シャーロットがどういう娘であるか分からぬ以上、来るや否や即座にこち
らに連れてきて貰うほうが無難である。
 あとは、シャーロットが来るのを待つだけ、なのだが。
 待てど暮らせど、シャーロットはこちらにはやって来なかった。劇が始まり、ハムレットが終わり、
ファウストが始まっても、誰も個室の扉を叩こうとはしない。劇を見下ろすマッドは、少しばかりつ
まらなさそうな表情で、

「からかわれただけかね。」

 と呟いている。

「……からかう理由がない気もするのだが。」

 マッドを呼びつけておいて、マッドが案の定やってきて、自分が来るのを今か今かと待っている様
子を見て笑う。
 そういうことをやって楽しむ連中もいるだろうが、しかし今そんなことをして何になる。マッドの
心証が悪くなるだけでしかない。それは、もしもベイリーが自分達の娘をマッドに娶らせて、己の地
位を確固としたものにしようと考えているのだとしたら、全くの逆効果である。それともシャーロッ
ト本人にそういう性癖でもあるのだろうか。
 釈然とせぬまま、舞台で俳優が声を張り上げた。

「時よ止まれ!汝はいかにも美しい!」 

 ファウストも終わりを迎えたのだ。
 マッドとサンダウンの前には、如何なる淑女も現れない。
 代わりに、慌ただしげに個室の扉を叩いたのは、先程マッドが言伝を頼んだ劇場の支配人だった。
少しばかり眉間に皺を寄せた彼は、

「こちらの男性が、貴方様に急ぎ伝えねばならないことがあるそうなのですが。」

 己の背後にいる男をマッドに差し出した。マッドが頼んだ言伝の相手は男ではなく淑女であったの
だが。しかし、マッドは差し出された男の顔を見て、支配人に頷いた。

「分かった。要件を聞く。」

 男は、ベイリーの馬丁だったのだ。
 支配人が去った後、馬丁は息も絶え絶えと言わんばかりの風情であったが、早口で話し始める。

「私はベイリー様に馬丁としてお仕えさせていただいております者です。泊まっていらっしゃるホテ
ルに行ったのですが、此方の劇場に向かわれたと聞いたので来たんです。」
「前置きは良い。俺に何の用だ?ベイリー叔父から、何か言伝でもあるのか?」

 マッドは優雅に足を組み直し、馬丁に用件だけを伝えるように促す。
 マッドに見つめられた馬丁は、ようよう息が整ったのか、唾を二、三回飲み込んで最後に一つ大き
な息を吐き出すと、本題だけを告げた。

「ベイリー様の御令嬢であるシャーロットお嬢様が、何者かに刺されました。」





 マッドとサンダウンは、馬丁の乗ってきた馬車で、そのままベイリーの家に向かうことになった。
別に、マッドが犯人扱いされているわけではない――というか、マッドは容疑者から一番程遠い位置
にいる。マッド以外の親類にも、皆、この件についての連絡は伝えられているのだ。
 シャーロットは、庭先で見つかったのだという。胸と腹を刺された状態で見つかり、凶器と思われ
るナイフはすぐ近くに放り出されていた。
 そして一番の問題は、シャーロットはまだ生きているという点である。
 彼女は、意識不明の重体ではあるが、まだ、生きているのである。もしかしたら、彼女は犯人を見
ている可能性が高い。
 馬丁からこれだけのことを聞き出したマッドは、その後は無言になった。

「使用人達はもう大騒ぎです。巷で噂になってるジャック・ザ・リッパーが、とうとう貴族の娘にも
眼を向けるようになったのか、って。」

 今日、マッドを尾行していた馬丁は、低い声で話し続ける。
 その声に対して、マッドは重く閉ざしていた口を、再び開いた。

「お前は、あのボロアパートがどういう現場なのか、知っているのか?」

 ぱたり、と馬丁の声が止まる。眼をマッド一点に留めて動かなくなった彼を、マッドは鼻先で笑っ
た。

「今日、俺の後を付けてきてただろ。その時、俺達が行ったボロアパートのことを、知ってるのかっ
て言ってるんだ。」

 まさかお前に気づいていないと思ったのか?
 馬丁も尾行に気づかれたことは分かっているだろう。けれども自分が何者かまでは分かっていない
と高を括っていたのかもしれない。馬丁の顔なんぞ、覚えていない、と。
 だが生憎とマッドは覚えていた。賞金稼ぎの性が、覚えさせていたのだ。
 眼を見開く馬丁。だが、眼の代わりに、先程までは動いていた口が、ぴったりと閉ざされた。なる
ほど良く訓練されている。

「誰に言われて俺を尾行した?」

 けれども、脅しはこちらの常套手段だ。
 サンダウンはするりとマッドの隣から席を移動して、馬丁の隣に行き、その蟀谷に真鍮の口を押し
付けた。ぎょっとしたような眼が、こちらを見た。

「シャーロットか?それともベイリー叔父か?」

 お前の黒幕は誰だ。
 物言わぬ馬丁に、マッドは一言、言い募った。

「それとも、まさかとは思うが、シャーロットを刺した犯人か?」