ホワイトチャペルは、シティへ向かう時に通り過ぎた時も感じたのだが、人の吹き溜まりのような
場所だった。汚れた街並みは決して豊かとは言えず、道路の端端に、小汚い衣服で痩せた身体を包ん
だ人々が蹲っている。
子供達はゴミの中から使えそうな物を漁り、女達は薄汚れた衣服のまま男の袖を引いている。男達
は昼間から酒場に集まって賭博で生活費を稼ぐか、待遇の悪い工場で身体を壊すまで働くかするのだ。
通り過ぎたその一瞬だけで、この場所から漂う腐臭のようなものは嗅ぎ取れたが、実際にホワイト
チャペルの路地を歩けば、産業革命を迎え、七つの海を支配したイギリスの、全くの裏の顔――いや、
負の顔と言ったほうが正しいか――が、これでもかと言わんばかりに視界に入る。
ゴシック調で彩られたクリスマスの色の裏側は、薄汚れた黒と茶と灰に塗れているのだ。
アメリカのスラム街も――場末の娼婦達が手を引く場所も、似たようなものだと言われるかもしれ
ないが、アメリカ西部はその乾いた大地と、何よりもまだ工場の少なさから、左程の悲壮感はない。
ホワイトチャペル全体に漂う、湿っぽい閉鎖された空気は、紛れもなく古い歴史の残る霧の都ならで
はのものだった。
けれども、此処で生きようとした貴族が確かにいたのだ。親兄弟の手助け一つ求めずに、生き抜い
た男がいた。
伯爵家から名前は抹消されてしまっていても、しかし周りの親族がどうしようもない輩ばかりであ
ったなら――そうであったからこそ、現クレメンス伯は、スラム街に身を投じた豪胆な弟を、己の後
身として捜そうとしたのだ。
けれども、その系譜は、ホワイトチャペルで途絶えてしまった。非情にも、殺人という手法にて。
そしてそれは、サンダウンが恐れていたことでもある。マッドよりも継承順位の高い者が、殺され
た。偶然かどうかは分からない。が、伯爵家の中で後継者問題が沸き起こっている以上、決して、そ
れが原因ではないとは言い切れない。むしろ、その為に殺されたのかもしれないのだ。
マッドが、その顔さえ知らない従姉。
ホワイトチャペルの薄暗いアパートの一室で、無残にも刺殺されていたという。
その一刺しは、次に、マッドを狙うかもしれないのだ。
本来ならば、マッドはホワイトチャペルになど行くべきではない。ホテルの一室で、厳重に保護さ
れてしかるべきだ。或いは、このままアメリカ行きの船に飛び乗るか。
けれども賞金稼ぎとしての本能か、マッドは従姉が殺された現場に行くと言うのだ。サンダウンが
引き止めても、マッドは頑として譲らなかった。
尻尾を巻いて逃げるということが、誰よりも我慢ならない人間だ。狙われていると分かっていても、
マッドは己を狙う存在に、背中を見せたくはないのだろう。むしろ、その首根っこを引っ掴んで、白
日の元に曝さねば気が済まないのだ。そういう性分であることは、サンダウンも良く知っている。
だから、サンダウンも、どれだけ強い口調でマッドを止めても、最終的には折れた。サンダウンが
マッドの意志を捻じ曲げれた試しなど一度もないのだ。マッドが危地に赴くと言うのなら、サンダウ
ンはマッドに危機が迫らぬよう、その身を守るだけだ。
ホワイトチャペルのうらぶれた色彩の中で、マッドの来ている臙脂色のコートがひたすらに鮮やか
に翻るのを、サンダウンは無言で追いかける。客引きの男や娼婦達が金目を捜してマッドに群がろう
とするのを、マッドはひらりひらりと避けて、人が集まるぐずぐずとした鍋底のような場所から、更
に奥深く、人気のない埃の溜まり場のような路地裏へと進んでいく。
背の高い建物に囲まれた道は狭く昏く、霧と工場の煙の所為で空も見えない。あるのは黄色がかっ
た白い靄ばかり。酷く陰惨な空気が漂っているように感じるのは、この一帯で連続殺人事件が発生し
ている所為だろうか。
だが、とサンダウンは思う。
何人もの女が刺殺体で見つかっていると言うが、しかし果たしてそれは本当に連続であるのか。マ
ッドも言っていたが、中にはそれに便乗した別の事件も混ざっているのではないだろうか。そもそも、
スラムと言うのは、偏見なしにしても犯罪の温床となる。今回偶々、同じような手口の殺しが続いた
だけで、別の殺人事件だって頻繁に起こっているのではないだろうか。
ただ、ロンドンの霧と、貴族という古い血が絡み合っている所為で、背後に何か歴史の闇のような
ものが見えるだけで、実際の事件そのものは、アメリカと変わりはないのではないか。
けれども一番肝心なのは、そこにマッドというサンダウンにとっては掛け値なしの存在が組み込ま
れていることだ。連続殺人事件そのものに、マッドの従姉の殺人は絡んでいないとしても、マッドの
従姉を殺した犯人が、次にマッドを狙う可能性は高すぎる。
せめて、その犯人だけでも撃ち殺せたなら。
マッドにはホテルで誰にも会わずに大人しくしてもらっておいて、サンダウン一人がホワイトチャ
ペルの殺人鬼を殺すことができたなら。
しかし、それができないから、マッドがこうしてサンダウンの前を歩いて、ホワイトチャペルの路
地の奥深くへと進んでいるわけなのだが。
「此処だ。」
マッドが、低く呟いた。息苦しいほどに狭い路地の、突き当たり。雨か霧かで流れ落ちた汚れが、
くっきりと跡になって窓や扉の縁を汚している、古びたアパート。今も、じゅくじゅくと何処かで結
露しているのか、湿っぽい空気が漂ってくる。
アパートの住人は、今は全員出かけているのだろうか。人の気配らしいものが窓という窓から感じ
とれない。それとも、殺人があった所為で、皆、逃げ出してしまったのだろうか。
「此処で、伯父貴が死ぬ前から、暮らしてたんだと。」
スラム街に降りた貴族は、このアパートを終の棲家としたのだ。その、子供も。
「駆け落ちしたのが十七の頃だっていうんだから、意地もあったんだろうが、よくまあそれから一度
も本家に泣きつかなかったもんだ。」
まだ、先代伯爵が生きていた頃、現クレメンス伯が結婚したばかりの頃の話だから、当然マッドは
この伯父に会った事がない。だが、マッドの意地は、間違いなくこの伯父から来ているものだろう。
その、娘が如何なる人物であったのかは分からないが、もしかしたら他の従兄妹達よりも、マッドに
似ていたのかもしれない。だとしたら、スラム街で生きてきたのだとしても、あのクレメンス伯のお
眼鏡には叶ったことだろう。
同じように考えて、殺した誰かが、いるのだろうか。或いは、殺しを依頼した誰かが、あの親類縁
者の中に。
「なあ、キッド。」
マッドがアパートの一室――そこで従姉が殺されたのかどうかは分からない――から眼を逸らさず
に、サンダウンを呼んだ。
「このホワイトチャペルを、貴族の誰かが歩いたら、目立つだろうな。」
「ああ。」
現に、マッドは此処に来るまでに、人目を惹いている。マッドの顔立ちが目立つ所為もあるだろう
が、それなりに身形を整えているから客引きに会いやすいのだ。
「ってことは、連中が此処に来るにはスラムの住人っぽい服装をするか、それか別の誰かを雇うかす
るしかねぇってことになるか?」
「或いは、夜、人目を避ければ。」
夜、深い霧に乗じれば。
だが、貴族が夜間、一人でふらふらしたりするだろうか。ホワイトチャペルはスラム街だ。貴族が
住む場所からは距離がある。少なくとも馬車か馬での移動になるだろう。
「……夜でも、目立たねぇか、それ。」
姿は見られずとも、音が誰かの耳に入らないか。夜中の馬の蹄は、万が一にも聞かれたら、何より
も目立つ。
アパートを見上げるマッドの眼が、一瞬きゅっと細くなる。と、マッドが突然踵を返した。サンダ
ウンは、マッドの肩越しに何かの人影を見る。
「マッド。」
「良い、戻るぞ。」
良くはない。
あの人影が、マッドを追いかけてきたものだとしたら。あれもまたマッドの命を狙っているかもし
れないのだ。
だが、マッドはサンダウンの腕を掴んで、追いかけようとするのを止める。
「良いんだ。どうせ、向こうから接触してくる。早けりゃ今晩にでも、晩餐とやらに呼ばれるさ。」
まるで、その人影が誰のものであるのか分かっているような台詞だ。サンダウンが眉を顰めると、
マッドは口だけ笑みを作ると、頷いた。
「あれはベイリー叔父んとこの馬丁さ。昨日のパーティの時、厩に馬を入れてるのを見た。身分の低
いところから来た馬丁なら、確かに此処に来ても目立たないだろうな。」
「……晩餐に呼ばれるというのは?」
「俺に見張りをつけてることがばれた以上、後は話し合いでどうにかしようってことだろう。要は、
取引さ。」
「取引?何を?」
「さあな。爵位か、それとも自分は味方だっていうアピールか。いずれにしても何らかの話し合いを
しようとはするだろう。」
「……奴が犯人ということは?」
「それはまだ分からねぇが。」
口ごもったマッドに、サンダウンはやはり此処に来るべきではなかったのではないか、と思う。悪
戯に犯人を刺激しただけではないか、と。
それに、もう一つ、犯人について可能性がある。
貴族本人が此処に来ることが困難であるならば、先程の馬丁のような身分の低い者に殺しを依頼す
るということなのだが。それは例えば自分達の使用人もあるだろうが、或いは、それ専門の殺し屋が
いないだろうか。
貴族の落胤だけを殺す、それ専用の輩が。
「俺は、落胤じゃねぇが。」
「分かっている。」
マッドは正真正銘の貴族だ。だが、貴族として暮らしてきたわけではない。ある意味、落胤だ。
「政敵を殺すために殺し屋を雇うっていうのは、ない話じゃねぇが。」
「他の親類縁者にしてみれば、お前は政敵だろう。そういう殺し屋なら、お前を怪しまれずに殺す方
法くらい、思いつくかもしれん。」
連続殺人事件に乗じるのではなく。
「今の状況で俺が殺されたら、真っ先にあいつらが怪しまれるだろうに。それとも痴情の縺れとか?
だが、ここには俺が懇意にしてる娼婦もいねぇしな。あとは、行きずりの金目当の犯行ってのもある
が。」
「それか、私がお前を殺すよう仕向けられるか。」
ひくり、とマッドの動きが止まった。
真っ黒な眼が、零れ落ちそうなくらいに見開かれている。信じられないことを聞いた、とかそれ以
上の表情だ。瞳と共に、涙も零れ落ちそうな。
「安心しろ、そんなことには、決してならない。」
当たり前だ。サンダウンがマッドを殺すなど、天地がひっくり返ったとしてもあってはならない。
もしもそんなことが起きたなら、そういうふうに仕向けた犯人はおろか、そういう土壌を作り上げた
イギリス全土を焦土と化してやらねばならない。
「マッド、私はお前以外の言葉は信じない。奴らにお前を裏切るように仕向けられたとしても、奴ら
の言葉は私の前には風の音にすらならない。だからお前は、もしも私が裏切るように見えたのなら、」
サンダウンは一つ、自分の胸を叩く。
「容赦なく撃ち落せ。」