「待て、マッド。」
冷たい石畳を速足で歩くマッドの背を、サンダウンの声が追いかける。硬質なブーツの足音は、こ
ちらの存在を示すように甲高く鳴り響くのを、マッドは忌々しそうに舌打ちした。
「マッド。」
後を追うサンダウンの声は、いつも通りの深く低い声だったが、しかしマッドをあやす響きはなく、
ただただ有無を言わせぬ色があった。そしてその声通りにサンダウンは、前を行くマッドの腕を掴み
無理やりにマッドの歩みを止める。
強く腕を惹かれたマッドは、そのまま後ろに倒れ込みそうになりながら立ち止まった。ぐらついた
身体は、サンダウンが抱き留める。ただし、抱き留められたまま拘束されてしまいそうだった。
「なんだよ。」
サンダウンのほうは見ずにマッドは殊更ぶっきらぼうな口調で問うた。問わなくともサンダウンの
言いたいことは分かっているが。
「何処に行くつもりだ。」
けれどもサンダウンこそ、いちいち聞かなくとも分かっているだろう。マッドがこれから何をしよ
うとしているのか、ついさっきまでの弁護士の言葉を一緒に聞いていたなら、分かるはずだ。
「まさか今からホワイトチャペルに行くつもりじゃないだろうな。」
いつになく厳しい声。誰かを追い詰める時――それは主にマッドに迫りくる脅威に対してなのだが
――に発っせられるサンダウンの声は、今はマッドに向けられている。
マッドが、そうだと頷けば、青い眼が鋭く光った。
「駄目だ。」
その一語は、落ちかかる断頭台の刃よりも、全てを途絶えさせる勢いを備えていた。
「お前は、あのロナルドとかいう男の言葉を聞いていただろう。」
「あんただって、聞いていたんなら、分かるだろうが。」
「お前の命が狙われているということは、嫌でも分かった。」
サンダウンの気配は、マッドを拘束しながらも周囲を警戒している。マッドがイギリスに行くとな
ってから――いや、マッドが爵位を継承せねばならないと分かった時から――サンダウンはマッドの
命に対して、以前以上に気を配るようになった。
そして、マッドの命が明白に狙われていると分かった以上、サンダウンの警戒は、厳戒態勢に入っ
ている。
だが、
「俺に、まだ実害は出てねぇ。」
毒を盛られたわけでも、誰かに襲われたわけでもない。
しかしサンダウンは、何を言っているんだという表情をする。
「実害が出てからでは遅い。」
ぎりぎりと歯ぎしりしそうなサンダウンの声に、マッドは尤もだと思いつつも、しかしだからこそ、
と思うのだ。
「だから、実害だ出る前に、先手を打っておきたいんじゃねぇか。」
霧の都ロンドンで、闇の中を徘徊している連続殺人鬼に対して。
マッドは、もしかしたらその毒牙の対象に自分もなっているかもしれないという現状に対して、先
に何らかの手立てを講じておきたいのだ。
本来ならば継承権第一位にいたはずの、しかし殺人鬼の手によって切り刻まれてしまったスラム街
の女のように、何も出来ずに殺されたくはない。
――クレメンス伯には、貴方の父上の前に、もう一人弟がいたのですよ。
ロナルドは、遠い昔に家出した、もう一人の伯父について語った。家出したといっても、まるきり
行方知れずになったわけではない。身分違いの女と恋に落ち、駆け落ちしたのだが、その女の家に身
を寄せていただけなのである。
誰が何と言っても頑として帰ろうとしない伯父に、周囲はスラムでの生活にすぐに根を上げて帰っ
てくるだろうと高を括っていた。しかし、他の兄弟にはない豪胆さで、その伯父はスラムの生活に適
応し、そのまま貴族の元には戻らなかった。
結局、伯爵家は伯父の存在を抹消した。この時代、貴族の子息が娼婦などの現を抜かすことはよく
あることだったし、その所為で借金や金の無心をすることもあった。それに比べて、金の無心に来る
ことなく、あっさりと家族との関係を断ち切った伯父の存在は、貴族の眼から見れば奇異ではあった
が、しかし粗にはならないし、人の噂も七十五日、話題はすぐに別のことへと移り変わってしまう。
だが、継承権だけは、消えずに残っていたらしい。
だから、クレメンス伯は、この消えた伯父を真っ先に捜した。スラム街の女に現を抜かす、しかし
その現をやり通した弟。今まで一度も金を無心することもなかった。クレメンス伯の眼には、少なく
とも、この弟は継承権を剥奪してしまうほど愚かな存在には映らなかったのだろう。
けれども、スラム街の劣悪な環境の所為か、弟は既に亡く、妻であった女も死んでいた。
残っていたのは彼らの子供なのだが。
「お前よりも継承順位の高い従姉が殺されていた。実害はもう出ている。」
クレメンス伯に命じられたロナルドが、その従姉を見つけた時、彼女は数日前に殺されていたとこ
ろだった。
今、ロンドンを震撼させている、連続殺人鬼に。
「まさか、偶々、お前の従姉が狙われたとでも言うつもりか?」
険を帯びたサンダウンの声に、まさか、とマッドは首を横に振る。
偶々、クレメンス伯が彼女を探し当てる直前に、連続殺人鬼に眼を付けられて、殺された。なくは
ないかもしれないが、あまりにも確立としては低い。ホワイトチャペルの犯罪率の高さを考慮すれば、
もっと高くなるのかもしれないが。
「誰かが、今話題の連続殺人に乗じて殺したと思うのが、普通だろうよ。」
実際、犯行の幾つかは模倣犯、或いは全く関係のない犯罪に巻き込まれたのだろうと言われている。
まさか、従姉を殺す為に――その殺人を攪乱するために――その他の殺人も起こしたのだとは、考え
たくもない。もしも、従姉の殺人を攪乱するためだけに他の殺人も起こしたというのなら、今度マッ
ドを殺すために、更に犠牲者が増える可能性がある。
「なんせ、俺は男だからな。」
これまでの殺人は、犠牲者は全て女だった。次にマッドを狙う時、突然男を殺したとなれば、奇妙
に映る。ならば、もしも最悪、この一連の連続殺人事件が、伯爵家の継承権問題のために引き起こさ
れたというのなら、マッドを殺すために男を対象とした連続殺人が起こる。
「それを止めるために犯人捜しをするとでも言うつもりか?だとしたら、その使命感は見当違いだ。」
「当たり前だ。俺は俺のためにしか動かねぇよ。」
サンダウンの酷く硬い声に、マッドも硬い声で言い返す。
「俺は、自分にかかる火の粉を振り払いたいだけだ。連続殺人事件なんか、俺の知ったこっちゃねぇ。
あんたが深入りするなって言ったように、そっちには首を突っ込まねぇよ。」
「お前はさっき、連続殺人が、このために行われた可能性もあると言ったばかりだろう。もしも本当
にそうなら、嫌でもそちらにも首を突っ込むことになるだろう。」
「いや、……どうだかな。」
サンダウンの追及に、マッドは少し考える素振りを見せた。サンダウンが、怪訝な顔でマッドを見
下ろす。どういうことだ、という問いかけに、マッドはようやく少しだけ苦笑を見せることができた。
「また別の目的の、連続殺人と重なってる可能性もあるってことさ。」
「何?」
「これは、ただの噂話だぜ。ちょっとだけ小耳に挟んだだけで、信憑性も全くないんだが。」
現イギリス女王陛下の息子――即ちイギリス王子が、なんらかの形で、今回の連続殺人に関わって
いる可能性がある。
そんな噂が、密やかに流れている。
おそらく一向に解決の糸口が見えない事件に対して、何処かから何らかの圧力がかかっているので
はないのかという、市民が良く陥る陰謀論の一つである。
「噂だ。でももしも本当なら、俺達が深入り出来ることじゃねぇだろうよ。」
ただ、もしも噂が本当で、そちら側の犯人とこちら側の犯人が万に一つでも重なっていたのなら。
「マッド。」
サンダウンのかさついた手が、ひたりと頬に当たった。青い瞳からは鋭さは消えていないが、先程
の唸るような気配は鳴りを潜めている。未だ、警戒を怠らぬ獣の気配は残っているが。
「良いか。お前を狙う輩は誰であっても、私が撃ち落とす。それが、例え王子であろうと、女王陛下
その人であっても、だ。お前が何かを不安に思う必要は、何処にもない。だが、だからといって、自
ら危地に向かうのは止せ。」
尤も、と手が離れる。マッドの頬を、ひやりとした霧の空気が代わりに撫でていく。
「お前がホワイトチャペルにどうしても行くと言うのなら、私も共に行くまでだ。だが、夜に行くの
は止せ。」
夜が明けるのを待て、と荒野の賞金首が告げる。
ここは荒野ではなく、霧の都だ。アメリカ西部の乾いた地を蹂躙してきた、賞金稼ぎの威光はここ
では効果はない。この地の王は、女王陛下ただ一人。
「私には、誰が王であっても意味はないが。」
誰が相手であっても、護ってみせると、賞金首は囁いた。