広間以外はほとんど明かりを灯さないのが常なのか、廊下はとにかく薄暗かった。壁には点々と蝋
燭が灯っているものの、それだけではイギリスの夜の屋敷を照らすには少なすぎる。薄暗い所為も相
まって、まるで底冷えするような寒さが床から立ち昇っていた。
廊下には、蝋燭に灯された長い二つの影が、ゆらゆらと揺れながら歩いている。暗い中、一際際立
つそれは、先を行くクレメンス伯爵とマッドのものだ。二人の影に片足ずつ乗せながら、サンダウン
は無言で彼らの後を歩く。先を行く彼らも、無言のままだった。
クレメンス伯は、目的地に辿り着くまで何も話すつもりはないのかもしれない。だが、一方で伯爵
の足取りは、目的地がないように思える。
何か企んでいるのだろうか。
此処に来る前にマッドから差し向けられた台詞を、そのままクレメンス伯の後姿に投げつける。マ
ッドがサンダウンに向けたそれは子供が拗ねたような色を湛えたものだったが、サンダウンがクレメ
ンス伯にぶつけるそれは銃弾の形をしている。これから成される会話とやらについては、マッドが言
ったように左程の興味もないが、マッドが傷つけられるならば話は別だ。
それとも。
サンダウンは、気配だけを背後に滑らせる。
先程から後をつけている何者かを、撒こうとしているのだろうか。その可能性のほうが、高い。し
かし尾行者もしつこいもので、どれだけ時間が経っても彼らの後を追うことを止めない。
やがて、諦めたのかクレメンス伯が口を開いた。
「久しぶりに親族を見て、どう思った?」
「さて………。」
マッドの手がそっと懐に伸びようとして、そのまま元の位置に戻る。葉巻を探しかけて、止めたの
だ。別に葉巻を嗜むことはなんでもないだろうが、廊下で吸うことは品がないと判断したのだろう。
ただ、考えことをする時に葉巻を燻らせるマッドにとっては、少々痛いだろうが。
「親類といっても顔も覚えていないのがほとんどだからな。辛うじてエイムズ伯くらいしか分からな
いな。親父の友人だったから。」
「従兄弟達はどうだ。」
「どうと言われてもな………。」
マッドの眼が、酷く遠いところを見る。アンジェラという若い娘は、子供の頃に共に悪戯をした仲
だと言っていたが、しかしそれもマッドにとってどうでも良いことになってしまっているのか。
すると、クレメンス伯はとんでもないことを言った。
「昔、ベイリーの奴がアンジェラとお前を婚約させようと躍起になっていたことがあったが。」
「俺は、聞いてないな。」
クレメンス伯の発言に、けれどもマッドは動揺のない声で答える。マッドの婚約については、何度
か聞いたことがあった。しかし全て子供の頃の話で、マッドの父親によって悉くが断られていたらし
い。だからアンジェラとのことも似たようなことだろう。
だが、マッドには何か思うことがあったのか、ふと気が付いたように口を開いた。
「前回といい今回といい、ベイリー叔父が娘達を連れてきたのは、そういう意味合いがあってのこと
か?」
ベイリーだけに限った話ではない。娘を連れてきたのはエイムズ伯も同じだ。
それに対してクレメンス伯は明確な返事をしなかった。
「さて、な………。だが、お前とアンジェラは、昔は仲が良かったから、そういうことも考えている
かもしれん。」
「子供の頃と、今は違うだろうと思うんだが。」
「親にとって子供など幾つになっても変わらないものだろう。伯父である私の眼から見ても、甥姪は
昔から変わらぬ小さな子供だ。」
「だが、その中に俺は入ってないだろう。」
アメリカで生まれ育ったマッドは、父親が死んでからは父方の親類縁者とは会っていない。当然、
クレメンス伯にも、だ。クレメンス伯から見れば、子供であったマッドが、唐突に大人になったよう
なものだ。
クレメンス伯は、躊躇いも負い目も感じさせず、マッドの言葉に頷いた。
「その通りだ。私にとってお前はまるで赤の他人だ。正直なところ、子供の頃というのをそのまま適
用すべきかも分からない。いや、血が繋がっていない……ロナルドが言うように替え玉を懸念してい
るのではない。お前は紛れもなくあの弟の息子だ。ああ、顔立ちは似ていないがな。むしろお前は母
親に似ている。だが、その眼は紛れもなく私の母―ー先代伯爵のものだ。私が言いたいのは、そう、
子供の頃のお前が、お前の中に残っているのか分からない、ということだ。」
子供の頃しか知らない、大人になってからはその面影も薄い存在を見れば、赤の他人と言ってしま
っても仕方がないだろう。
だが、そんな赤の他人に爵位の継承など何故考えたのか。
サンダウンの疑問は、マッドが代わりに口にした。
「確かに俺は爵位継承権第一位かもしれないが、別に無理に俺に継がせる必要はないだろう?弁護士
まで呼んでいるということは、それについては柔軟に対応する用意があるということだ。それなら、
何故俺を呼んだ?」
「お前の父親が生きていたら、間違いなくお前の父親に家督を譲っていたからだ。」
クレメンス伯の台詞は、微動だにしなかった。
「そもそも、先代が亡くなった時点で、私はあの弟に爵位を譲るべきだったのかもしれない。あの頃
は私にも意地があった。あの自由気ままで奔放な弟に、家督を継がせるべきではないと思っていた。
だが、今になって思えば、奴に爵位を譲っておくべきだった。」
「親父はそんなもの欲しがらないと思うが。」
サンダウンが殺した男について、息子であるマッドはそう評した。そしてその評価は、正しいだろ
う。悲劇よりも喜劇を好んだという男は、暗い争いが続く血の渦の中から、出来る限り遠ざかってお
きたかったのではないだろうか。勿論、自分の息子にも。
「クレメンス伯爵。本当に、いないのか?俺以外に爵位を継げる者は?」
「だから、最初にお前に聞いたのだよ。久しぶりに会った親類縁者を見て、どう思う、とな。ならば
私の答えなど分かるだろう。」
卑屈な態度を崩さないアルバート。他人を蔑むエイムズ伯爵夫人。欲を満たす為のものを抜け目な
く探し求めるベイリー。興味があるもの以外には食指を動かさぬマイケル。クレメンス伯の、弟妹へ
向ける目線は、厳しい。
そしてその眼差しは、マッドの従兄弟達に対しても同様であった。
「お前の従兄弟達は、そうだな。ジェラルドについては語る余地もない。アンジェラは、あの子は良
く育ったが、しかしベイリーがいる以上、家督を譲ってもベイリーの傀儡になるだけだろう。妹のキ
ャサリンも同じだ。チャールズとウィリアムは、あれらの父親が死んでから気にはかけてきたが、チ
ャールズはジェラルドと同じで、野心家だが如才というものがない。ウィリアムは家督そのものに興
味がないようだ。」
覚えているか、とクレメンス伯はマッドに問う。
「お前達従兄弟が、先代が健在の頃、先代の誕生日にピアノをそれぞれ弾いた時のことを。」
あの時、一番上手く弾けた者に、先代の女伯爵はプレゼントをあげると言ったのだ。本当は、ちゃ
んと全員分のお菓子を準備していたのだけれども。ただ、確かに一番上手く弾けた者には、別途何か
与えるつもりでもあった。金に青の縁飾りのついた、懐中時計。
「お前が、一番上手かったな。音楽などまるで分からない私でも判断できた。」
母親が音楽家であったマッドにとって、それは別段の賛辞ではなかった。そしてそれについては触
れないように、マッドは目を伏せている。
「だが、チャールズが文句を言った。その懐中時計はお前よりも自分達のほうが似合う、とな。」
チャールズとウィリアムは、青の眼に金の巻き毛という、美しい容姿を持っている。大人達は皆、
それを褒め称えていた。だから、懐中時計はあっさりと、兄弟に手渡されてしまったのだ。
「お前は、それに対してまるで抗議をしなかったな。ただ、あの二人を、興味なさそうに見ていた。
あの光景が、私には忘れられん。」
「たかが懐中時計で、争いたくなかったからだ。」
「子供の頃にそう判断できるのなら、大したものだ。だが、今回は懐中時計ではない。爵位だ。言っ
ておくが、これは、たかが、では済まされん。お前が興味がなくても、だ。」
もしも、と伯爵はひたりとマッドを見据える。
「もしもお前が爵位を辞退したいと言うのならば、その代わりとなる者を連れてこなくてはならない。」
「それは、」
マッドが、ちらりと背後に視線を走らせた。一瞬その眼はサンダウンを捕えたが、すぐに通り過ぎ、
サンダウンの背後へと向かう。マッドも、尾行している者に気づいているのだ。
「それは、後ろにいる奴にも聞かれて良いことなのか?」
「構わん。お前が一度爵位を辞退しようとしたことは、前回の集まりで皆が知っている。別の誰かが
台頭せねばならんこともな。」
背後で息を呑んだ気配をサンダウンは探る。その気配は、そそくさと何処かに消えていった。尾行
が気づかれていたことに、怖気づいたのだ。
「それに、こう言っておけば、お前の身も安全だろう。」
伯爵の言葉に、マッドが微かに眼を見開いた。サンダウンも表情にこそ出さなかったが、ぎくりと
した。
「お前の身に何かしようという輩は、必ず出てくるだろう。だが、お前が後継者を名指し出来るとな
れば話は別だ。お前を傷つけるのではなく、お前を懐柔しようとする方向に走るだろう。」
疲れ切ったような伯爵の声に、マッドが妙に硬い表情を浮かべる。
「……必ず、と断言したが、何か、覚えでもあるのか?」
「……さて、な。」
伯爵自身に、何か好からぬことを仕出かそうとした輩がいたのだろうか。伯爵は言葉を濁す。マッ
ドもそれ以上追及せずに、別のことを問う。
「爵位に相応しい者を見つけろ、とのことだが。伯爵には、他にそれらしい血縁者はいないのか?失
礼ながら、若い頃に誰かと通じ合って、子供を作っていたとかは?」
「私には、ないな。私の子供は、死んだ子供達だけだ。」
マッドはそれに小さく頷いた。
広間に戻ったマッドは、ロナルドを捕まえた。そして、物陰に引き摺っていく。まるで人攫いか何
かのようだ、とサンダウンは思いながらも、ロナルドを尋問中に邪魔が入らぬよう、辺りを警戒する。
「いやいや強引だなあ。アメリカではこういう強引なのが流行ってるんですか?」
「ああ、女を口説く時は、紳士的すぎると女が焦れて平手打ちされる。」
マッドの応えに、君はモテそうだねぇ、と頓珍漢なへらへら声を弁護士は上げる。こんな弁護士で
良いのか、とサンダウンは思う。
マッドはロナルドのへらへらには何も思わないのか、さっさと本題に入る。
「無駄口は嫌いじゃないが、誰が来るとも分からないんで手短に済まそう、ロナルド弁護士。俺の親
類の中で――俺の親父よりも年上の兄弟で、実は現在まで子供がいるという者はいないか?」
サンダウンはマッドの問いかけに、何故そんな持って回った言い方をするのだ、と思った。それは
実質、クレメンス伯以外にいないではないか。
だが、マッドは即座に続けた。
「クレメンス伯以外で、だ。」
ますます妙だ。マッドの父親より年上の兄弟は、伯爵しかいない。ロナルドも同じことを言ってい
る。声をへらへらさせながら。
「ああ、持って回った言い方は嫌いか?簡単に言えば、他に兄弟はいなかったのか、って聞いてんだ。」
語尾が、荒野の賞金稼ぎのそれに戻っていた。情報を引き出す為の、賞金稼ぎの尋問だ。ぎらりと
マッドの眼が光ったのでも見たのか、ロナルドの息を呑む音が聞こえる。
「伯爵はこう言っていた。俺に何かしようとする奴は必ず出てくる、と。ここまで断言するのは、過
去何かがあったからだ。爵位を持つ者か、爵位の後継者に。俺には今のところ何も起きていない。な
ら、後はクレメンス伯だけだ。けれど伯爵本人の身に何かあれば、もっと大騒ぎになっているはずだ
し、伯爵自身ももっと警戒するだろう。だが、実際は伯爵の身の回りには必要最低限の警護しかない
し、襲われたという噂もない。それなら、」
マッドの細長い人差し指がす、と伸び、それはそのままロナルドの額に突き付けられる。
「あとは、俺以外の――俺よりも継承権の高い誰かに、何かがあったと思うのが筋だ。」
マッドの言葉に、サンダウンは腹の底が冷えたような気がした。マッドよりも継承権が高い何者か
がいるという事実にではない。その存在がいながらも、マッドが呼び出された理由について、一つの
考えしか思い至らなかったからだ。
マッドに何かを仕出かす輩が必ずいるとクレメンス伯は断言した。それは本来の継承権第一位の身
に何か起きたからだ。そして、それでもその者に継承権を譲るとせず、マッドを呼び出したのは、そ
の人物が既に事切れているからではないのか。マッドの首にも、同じ危機が突きつけられているので
はないのか。
「………答えろ、ロナルド・ブライトン。」
サンダウンはマッドとロナルドに背を向けたまま、低く唸った。突然のサンダウンの声に、ロナル
ドが身動ぎする。
「何が起きたのかを、洗いざらい話せ。でなければ、その眉間に風穴が開くぞ。」
地を這う蛇のような声に、ロナルドは笑おうとして失敗した。彼は困ったように何度か首を振ると
やがて観念したかのように言った。
「わかった、わかりましたよ。全く何て人だ。伯爵と似ていると思ったけれども、えらい違いだ。」
「生憎俺は伯爵じゃねぇんでな。」
マッドは懐から葉巻を取り出すと、口に咥えた。完全に賞金稼ぎの顔に戻っている。
「言っておくが俺は、そこで唸ってるキッドよりも短気だぜ。ちゃっちゃと話して楽になっちまいな。
まあ、話さずに、頭に風穴開けて、この世から楽におさらばするってのも有かもしれねぇが。」
ロナルドに突き付けられたままだった人差し指が、より強く、ロナルドの額にめり込んだ。