「そんなものいらない。」

 マッドは、クレメンス伯爵からの申し出を、すっぱりと断った。
 しかしそれに対するクレメンス伯の物言いは、とにかく湾曲的で、しかしマッドがすぐには逃れら
れないような言葉を並べ立てた。

「まあ、待て。そうすぐに結論を出すな。」

 皺だらけの、しかし威厳のある手を上げて伯爵は甥の言葉を留める。

「お前はアメリカで育ち、アメリカからイギリスにやってきたばかりだ。待て待て、お前を貶すつも
りはない。言っただろう、お前は貴族として恥ずかしくない立ち振る舞いをしている、と。私が言い
たいのは、お前はアメリカからやってきたばかりで、少々事態を把握し切れていないのはないかとい
うことだ。勿論、此処に来るまでに考える時間はあっただろうが、しかしそれは外側から見た者の意
見だ。今回、内側を見て、何か感づくことはあったのではないか。それを踏まえた上で、もう一度、
じっくりと考えてみてくれ。」

 随分な言い様である。しかし、一方で正しい言い様でもあった。そして、マッドに反駁の余地を許
さぬように、伯爵は近くに立て掛けていた杖を持つと、すっと立ち上がった。背筋をぴんと伸ばした
クレメンス伯は上背があり、出で立ちは堂々としていた。そして、やはり何処となくマッドに似てい
た。
 ゆっくりと広間を横切り、マッドの横を通り過ぎていく伯爵を、マッドは引き止めはしなかった。
 引き止めるなど、明らかにこちらが形勢不利なことを示しているようだし、それに何よりも、クレ
メンス伯の様子は決して良いと言えるものではなかった。皺の刻まれたその顔には、伯爵として一族
を纏め上げてきた者の、苦労が刻み込まれていた。
 マッドは、伯爵を引き止めはしなかったが、伯爵が自分の傍を通り過ぎる直前に立ち上がり、伯爵
の姿を見送る。
 甥のそんな立ち姿に、ふと、伯爵は足を止めた。正確には、その眼光はサンダウンを見据えている。
 正に、射抜く、という言葉が相応しい眼差しに、サンダウンは己の何かを嗅ぎ取ったのだろうか、
と思う。サンダウンが賞金首であることか、それともマッドの従者などではなくもっと薄暗い何かで
あることか、それともサンダウンこそが彼の弟を殺したことか、それらの何れかを、嗅ぎ取ったのか。

「これは、アメリカで見つけた従者か?」

 サンダウンから眼を離さず、伯爵は甥に問いかける。
 マッドは静かに頷いた。

「俺が雇った従者だ。親父の代からいる従者じゃない。」
「本当に、従者か?」

 短い疑念に、サンダウンは腹の底で舌打ちと嘆息を覚えた。流石は、マッドの伯父というところだ
ろうか。マッドも存外、鼻が利くが、この伯父もそのようであるらしい。
 伯爵の言葉を捕えた小太りの男が、騒ぐ。

「なんです?もしや身の上の怪しいものなのですか?」
「まあ、そのような輩を屋敷に入れたということ?それは大問題ですわよ。」
「もしもそうなら、危機管理が甘いということだ。己の従者についても調べられない者に、伯爵とし
ての素質があるか、怪しいものだな。」

 小太りの男の言葉を皮切りに、一斉に騒ぎ出す叔父達。マッドの従兄妹達も同様である。その騒ぎ
に参加していないのは、小太りの男の娘――アンジェラと、つまらなさそうにティーカップを傾けて
いる金髪の青年だけである。その隣にいる、同じく金髪の男とは顔立ちが似ているから兄弟なのだろ
うが、こちらは対照的に唾を散らすようにして参戦している。
 波のようにうねる親族の争いに、痺れを切らしたのはマッドではなく、伯爵であった。伯爵は手に
していた杖で、床を打ちぬかんばかりにそれを叩いたのだ。絨毯を敷き詰めているにも拘わらず、残
響が耳に残るほどの甲高い音に、ぴたりと親類縁者は口を閉ざす。

「黙れ。私が話しているのだ。」

 伯爵の声は、決して大きいものではない。しかし、無視することを許さぬ響きが隅々にまで迸って
いた。

「私が言いたいのは、」

 ひたり、と黒い双眸がサンダウンを見据える。まるで、マッドのように。歳はサンダウンと同じか、
それよりも年上か。ただ、その眼差しだけが、年下のマッドに似通っている。

「従者になるべくしてなったわけではないだろう、ということだ。」

 あまりにも、我らを見返し過ぎる。
 伯爵は、そう呟いた。
 ちょうど、飼い馴らされた、しかし元は野生であった獣が静かに人を見つめるかのように。

「猫ではなく、獅子を飼ったか。」
「飼っているつもりはない。」

 貶しているのか褒めているのか分からぬ伯爵の言葉に、マッドは短く返す。マッドの言葉に、伯爵
は、そうか、と頷いた。

「私はこれで退席するが、お前は好きにすると良い。此処に集まった者達の意見を聞くも良いだろう。
それと、私は今年のクリスマスは、こちらで過ごすつもりだ。簡単ではあるがパーティも開こう。お
前も、是非来なさい。」

 言うだけ言うと、今度こそ伯爵は、重厚な扉から出ていった。 





 伯爵の姿が消えると、伯爵の眼光の元で少しばかりしおらしくしていた親類縁者は、再び大口を開
けて何かを言おうとしたが、それが言葉を成す前に、マッドはさっさと背を向けている。サンダウン
もそれに従って、てくてくと絨毯の敷き詰められた廊下を行く。
 とりあえず、その辺にいた執事に辞する旨を伝えたマッドは、親類縁者の呪詛のような言葉など知
らんぷりで、馬車に乗り込んだ。
 その馬車にマッドが向かわせたのは、やたらとだだっ広い公園であった。ちらほらと薔薇の咲いた
公園はリージェンツ・パークといい、運河を挟んだ北側にはロンドン動物園があり、湖が広がる自然
公園である。
 冬場の、木々は既に葉を落とした寂しい空間であるにも拘わらず、湖ではスケートを楽しむ人々が 
何人もいる。それに一見侘しく見える木々の合間合間では、木の葉の上をリスが駆け巡っており、存
外賑やかだ。 

「夏場なら、もっと薔薇も咲いてて賑やかなんだぜ。」

 ドングリを一つ拾って、マッドは呟いた。その声は、幾分か沈んでいる。
 先程の、親類縁者とのやり取りが堪えているのだろうか。マッドが堪えるほどの何かがあったよう
には思わなかったが。 

「ろくに覚えちゃいなかったけど、あんまり気持ちのいい連中じゃあなかったみたいだな。」 

 だから覚えてなかったのかもしれねぇ。
 先程までの、大人しめの口調をかなぐり捨てて、荒野の賞金稼ぎの口調に戻ったマッドは、自分の
親類縁者に付いてそう評した。

「伯爵本人は、それほどでもなかったように思うが。」

 もっと、頭ごなしにアメリカで生きたマッドの軌跡を否定するかと思っていたのだが、そんな事は 
全くなかった。むしろ、あの中では一番まともであったように思う。あとは、あの小太りの男の娘と。
 そう言えば、マッドは肩を竦めた。

「伯爵のおっさんは、堅苦しいだけで言葉が通じないわけじゃねぇ。俺の親父が言うには、アメリカ
行きを唯一馬鹿にしなかったおっさんらしいからな。あとアンジェラは……ああ、思い出した。俺が
ガキの頃、一緒『Bの悲劇』をやった奴だ。」

 なんだ、『Bの悲劇』。
 それと、お前の父親が『真夏の夜の夢』でやらかしたことって、なんだ。
 サンダウンが疑問に思っていると、マッドは薔薇園のベンチに座り込み、足を組んであっさりと言
った。

「大したことはしてねぇよ。髭を手入れする時に使う、髭を固めるワックスがあるだろ?ムスタッシュ・
 ワックスっていうんだったか、あれ?屋敷中のあれを、全部バターにすり替えてやっただけだぜ。」

 バターでも、まあ、そこそこきちんと固まってた、髭。
 真顔で言うマッドに、サンダウンは、まさか、と思って聞いてみた。 

「まさかとは思うが、私のものをバターにすり替えたことはないだろうな。」
「あんた、ワックスなんか持ってないだろ。その髭はワックスが必要な形状をしてねぇぞ。」
「使ってないだけであるにはある。」
「使わねぇなら捨てろ。邪魔になるだけだろうが。」

 艶々とした髭の剃り跡など微塵もないマッドに、自分に髭が生えないことを見越して、そういうこ
とをして遊んでいたんじゃないだろうな、と思う。

「劇に見立てていたな。」

 肉親の、罵り合いを。
 マッドは、くい、と器用に片眉だけを上げる。

「つまらねぇ駄作だったがな。遺産の取り合いを描いた戯曲はシェークスピアも書いてるが、まあ現
実はあんなもんだ。まあ俺は、伯爵のおっさんがリア王みたいに盲目でも、別に構いやしねえんだが
な。遺産には興味ねぇし、かといってコーデリアみたいに裏切られたおっさんを助けに行きもしねぇ。」

 けれども伯爵自身はそれで満足しないだろう。
 リア王のように耄碌してはいなさそうだし、マッドに助けて貰えるとも思ってはいないだろうが、
最終的にはマッドの手に爵位を、と考えているような気がする。
 あの親類縁者を見れば、誰だってそう思うが。アメリカから、ほとんど会ったこともない甥を呼び
寄せたのは、ただ継承権に従ったというだけではないだろう。他に譲れる者がいないから、最後の賭
けとしてマッドを呼んだのではないか。
 そして、今のところ伯爵は賭けに勝っている。
 荒削りの――しかしだからこそ抜きんでて見えるマッドの貴族としての素振りは、伯爵にとっては
安堵できるものであったに違いない。遺産に対して食指を動かさぬところも、伯爵としては良かった
のだろう。

「あのおっさんはそれで良くても、他のおっさん共は俺がマクベスみたいになることを願っているだ
ろうよ。」

 運よく身に余る地位に着いたが、重責に押し潰されて最後は死に至った将軍。それをマッドが演じ
ることを、連中は願っている。
 サンダウンにはマッドを守ることはできる。だがマッドがマクベスを演じるか否かは、マッドが貴
族になった後の話だ。マッドがマクベス将軍のようにならぬ最大の回避案は、マッドが貴族にならぬ
ことに他ならない。
 だが、マッドが嫌だと言っただけでは、伯爵は諦めないだろう。 

「つまり、だ。お前以外の誰かを後継者として申し分ない者に仕立て上げれば良いわけだ。」
「簡単に言うな、あんた。」
「お前だって、何人か、押し付ける相手を見繕ってたんじゃないのか?」

 首を傾げて問えば、マッドは笑う。

「ああ。でもその為には、何度かあの屋敷に足を運ばねぇとな。」

 差し当たっては、クリスマスのパーティだ。

「親父みたいに、見事にパック役を演じてみせるぜ。ああ、伯爵の瞼に、妖精の花の汁を塗ってやる。」

 しれ、と再び出てきた真夏の夜の夢の話に、サンダウンは自分が殺した相手のことではあるが気に
なったので、聞いてみた。

「……お前の父親は一体何をしたんだ。」

「ああ、あの話、駆け落ちする二人の男女を、女の許嫁が追いかけて、その許嫁に惚れてる女も一緒
に追いかけるんだが、パックが許嫁とそれに惚れてる女をくっつけようと、魔法の花の汁を男の瞼に
塗るのさ。でも実際に塗った相手は駆け落ちの男で、挙句許嫁の男にもそれを塗っちまって混乱が起
きるんだ。で、その惚れ薬っていうのが目を覚まして最初に見たもんに惚れるっていう類の奴なんだ
が。」

 悪戯妖精パックの役を演じた父親は、パックも真っ青なことを仕出かした。 

「惚れ薬は人間が寝てる時に塗るんだがな、親父は寝てる人間を劇やってる最中に、ずりずり
引き摺って、配置を変えたらしい。」

 許嫁の男と、駆け落ち男が向かい合わせになるように。
 つまり、男が眼が覚めた時に最初に見るのは、男である。

「しかも親父は有無を言わせず、『さあ眼が覚めたライサンダーはディミトリアスを真っ先に見つめ
た!』とまで叫んだ。」
「………どうなった。」
「大混乱だ。」

 それはそうだ。

「まあ、あれだ。つまり惚れ薬を塗られた伯爵のおっさんの目の前に、俺じゃあなくて別の誰かを持
っていけばいい。」
「………大混乱に、ならなければいいな。」
「なっても俺はかまわねぇ。」

 くけけけけ、と現代のパックは笑った。