「大丈夫か?キッド?」

 隣にいる若い賞金稼ぎが、酷く心配そうな眼差しを震わせて、問いかける。いつも勝気に光る黒い
眼が、ここまで不安げに揺れることもまずないだろう。あるとすれば、彼が長年追いかけている賞金
首であり、且つ、彼が子供の頃に会って心を通わせた元保安官でもあるサンダウン・キッドの身に、
不明の事態が迫っている時くらいである。
 そして、今、サンダウンの身には確かに危機が迫っていた。
 サンダウンは目の前でくらくらと揺れ動く、水平線を見つめ、しかしその視線の先に全くの救いが
ないことを思い知り、視界と同じくらいの勢いで頭がくらくらし始めていた。
 喉の奥からは酸っぱいような何かがせり上がりつつも、気道を塞いでいるような感覚がある。首回
りは硬直して、このまま眼を閉じればそのまま倒れ込みそうだ。何度も唾を飲み込んでみるものの、
何ら改善は見られない。
 そして何よりも、一度固く眼を瞑り、再び開いた先に広がるのは、やはり青々とした水平線と、突
き抜けるような青空。その二つの青の間で点々と散らばる白は、カモメだろう。呑気な鳴き声が聞こ
えてくる。
 ここはとある客船の甲板。
 アメリカ西部の荒野を駆け巡る賞金首であるサンダウン・キッドは、どういうわけだか生まれて初
めて、客船と呼ばれる船に乗り込み、大海原を駆け抜けているのである。
 はっきりと言っておく。
 先に述べたように、サンダウンの人生は海からは程遠いものだった。
 生まれはアメリカ北部の深い森の中であり、そこでは湖こそあれど、海など何処にもない。長じて
保安官になってからは、初めて海というものを見はしたものの、そこに浮かべられた船に乗って何処
かに行くなど決してなかった。精々、停泊している商船に乗り込んで、密航者や密輸入されている物
がないか確認する程度でしか、船と付き合った事はなかった。
 だから、これまでの人生で、こんな巨大な客船に乗って、ましてや何処かに出かけるなんてことは
一度たりともなかった。
 サンダウンの移動経路といえば、専ら陸路に限定されており、それはこの先の残りの人生もそうで
あるはずだった。
 それが何を間違えたのか、イギリス行きの巨大客船に乗っているのである。 
 生まれて初めて船に乗った人間がどうなるのかなど、想像に容易い。勿論、船はおろか如何なる移
動手段も平気だという者もいるだろうが、生憎とサンダウンは、自分で思っていたほど鈍感な感覚を
持っていたわけではなかったようだ。
 つまり、大いに乗り物酔いを起こした。
 船が動いていない間はまったく問題なかったのだが、船が動き始めて三十分と経たぬうちに、サン
ダウンの三半規管は反乱を起こしたのだ。喉の奥から絶えず湧き起る吐き気は、サンダウンにとって
は経験したことがないもので、どうやって噛み殺せば良いのか分からない。
 そんなサンダウンを心配げに眺めやる賞金稼ぎはと言えば、普段とまるで変わらない様相をしてい
た。甲板で十二月の風に当たっている所為か、流石に寒そうではあったが、寒さで頬が赤くなって逆
に血色が良さそうに見える。
 お前は平気なのか、と不安の所為か幼く見える賞金稼ぎに問いかけて、サンダウンは止めた。平気
だからサンダウンの心配なんぞしていられるのだ。でなければ、船に乗ってぴんぴんとしていられま
い。
 それに、とサンダウンはまだまだ全然見えないイギリス本国の島影を睨み付ける。
 隣にいる賞金稼ぎマッド・ドッグの血には、イギリス貴族の血が混ざっているらしい。らしい、と
いうのは、サンダウンがマッドの家系を、そこまで詳しくは知らないからだ。
 いや、マッドの両親が何者であるのかは知っている。両方とも名家の出で、母親は音楽家、父親は
弁護士であったという。そして、アメリカ南部で広大な綿花プランテーションを作り上げていた南部
貴族でもあった。マッドの声には、今でも微かに柔らかな南部訛りが混ざることがある。
 そんな経歴のマッドだから、もしかしたら幼い頃に客船に乗って海を渡ることなど良くあったのか
もしれない。だから、船にも慣れて、酔うこともないのだろう。
 マッドからそういう答えが返ってくる可能性はあった。だが、そう答える時のマッドの様子に、少
しでも困ったような色があったなら、サンダウンは自分を絞殺したくなるだろうから、サンダウンは
口を閉ざしたのだ。
 マッドの家は、先の南北戦争で、ほとんどの南部貴族がそうであったように、没落した。父親は戦
死し、家族は分断された。そして、南部軍であったマッドの父親を撃ち落したのが、北部軍に従軍し
ていたサンダウンだったのだ。
 戦時中のことだ。誰が誰を殺しても、仕方がない。
 マッドも十分に納得し、むしろその事を今でも気にしているサンダウンに同情の念を覚えているほ
どだ。
 だから、マッドは昔のことを話す時、少しだけサンダウンの様子を窺うような眼差しをする。 

「キッド、船室に行って休んだ方が良いぜ。」

 マッドが、サンダウンの様子を窺いながら言う。過去を話す時に似て、けれどもまるで違う表情だ。
心底からサンダウンのことを心配しているのだ。
 マッドは自分の父親を殺した、しかし幼い自分の遊び相手をしてくれたサンダウンに、とにかく懐
いている。マッドは賞金稼ぎで、サンダウンは賞金首なのだから、それはどうかとも思うのだが、サ
ンダウンは彼の父親のこともあるし、いや、父親を殺した事がなかったとしても悪い気はしないので、
マッドと再開して以降は、こうして共にいるようにしている。
 まるで、保護者のように。
 マッドももう良い大人なのだから、保護者というのもどうかと思うのだが。ちらりと見たマッドの
顔は、既に精悍な若者のそれなのだが、如何せん不安の色が強くて子供っぽく見える。そもそもマッ
ドは感情の起伏が激しいほうなので、拗ねたり怒ったりする時は――サンダウン相手に限定してだが
――とにかく子供っぽく見えるのだ。そして、そんな表情をしている時は、大抵子供じみたことを考
えている時なので、彼が子供だった時のように、ぎゅっと抱きしめてやれば、大抵の場合は機嫌が良
くなるものなのだ。
 しかし、今、不安げにしているマッドを、ぎゅっと抱きしめてやりたいと思っても、サンダウンが 
本調子ではない。ぎゅっと抱きしめた瞬間にサンダウンが吐いてマッドを汚してしまったら、元も子
もない。
 なので、何度か唾を飲み込んで、大丈夫だ、と掠れた声で返事をした。
 しかし、マッドの表情は浮かない。それもそのはず、サンダウンの顔色は誰がどう見ても悪いから
だ。普段から顔色が変わらない分、その変化が余計に顕著だ。

「キッド、船室に行って来い。」

 マッドが繰り返し、言う。
 
「外に出たほうが楽になるんじゃないかと思って誘ってみたけど、どう見たって空気が淀んでるから
とかそういうのが原因じゃねぇ。船室で横になってたほうが絶対に楽だ。」

 ベッドで横になって眼を閉じて馬に揺られてるんだと思えばましになるだろ。
 マッドの言い分に、そんな簡単に馬に揺られていると思えるものか、と思う。

「だったら今から馬に乗りに行くか?無理だろ?」

 サンダウンとマッドの愛馬も、船に乗せられて一緒にイギリスに行くのだ。イギリスに行くと一言
で言っても、船の上にいるだけでも結構な期間になる。その上、イギリスに着いた後もしばらくはそ
こに滞在するのだ。そんな長期間、愛馬と離れていられるわけがない。
 だから、船の一階にはきちんと馬が乗るためのスペースが用意されている。サンダウンやマッドの
ように馬を連れて行く者は結構いるようで、船の厩にもかなりの馬達がいた。
 サンダウンとしてはイギリスに行く馬の数よりも、自分の愛馬が一向に船酔いをしてないないこと
のほうが気になる。自分と同じように荒野で暮らしていたはずなのに、何故か。
 だか、そんな考え事をすればするほど、気分は下降していく。胸がむかむかして、胃もたれも起こ
しているようだ。

「だから、早く船室に戻れって。」

 マッドがサンダウンの背中を軽く押す。ぎゅうぎゅうと押さないのは、ちょっとした圧迫でもサン
ダウンの吐き気を促進させる可能性があるからだ。
 しかしサンダウンは、冷たい甲板にマッド一人を置いていくわけにはいかない。マッドがまだ甲板
にいるというのなら、サンダウンも甲板にいるべきだ。

「………お前、は?」

 首だけを捻ると具合が悪くなりそうなので、身体ごとマッドのほうを向いて問えば、俺も戻るぜ、
と安心できる答えが返ってきた。

「でも、その前に俺は厨房に寄っていく。あんたは先に戻ってろ。」
「何故だ。」

 厨房になど何の用があるのか。
 荒野でなら食事は自分達で作らねばならないが、此処は客船。食事は船に乗っているコックに作っ
て貰えば良い。
 サンダウンの疑問に、マッドは軽く眼を伏せて応える。

「なんか、船酔いにでも聞きそうな飲み物を取ってきてやるよ。あと、薬もないか聞いてくる。」
「すまん。」

 自分の為であると言われ、サンダウンはそうとしか答えることができない。しかしマッドは首を横
に振ると、

「だったら早く部屋に戻って大人しく寝てやがれ。」

 そう言って、コートの裾を翻して、ぱたぱたと食堂のほうに走っていった。