町はまだ明るい。
  薄暗い路地裏を抜けてしまえば、再びクリスマスの色に染まった町の光が、頬を染める。さざめ
 く人の声も、普段よりも温かみを帯びている。それだけで、世界の温度が数度上がったような気さ
 えする。
  実際は頬に当たる風は冷たく、遠くで聞こえる虎落のような風の音は甲高く引き裂くようであっ
 たが。
  粗末なコートに身を包んだメアリーは、顔を染める街灯と店の電飾の光に、少し眩しそうに眼を
 細めた。もしかしたら、母親が生きていたら、この光は当然のものとして受け止めていた。そんな
 事を思っているのかもしれない。
  マッドは仕立てのいいコートの裾を払い、横目で少女の様子を窺うとその手を取って待ちゆく人
 々の間をすり抜ける。
  ごった返す人の波を器用に掻き分けながら、マッドは彼にしては長い沈黙を保ったまま大通りに
 沿って歩いた。その後を、メアリーの小さな足音が追いかける。
  行く波と返す波の両方が交わる中、ようやくマッドが歩を止めたのは、ずっしりと重い重しい木
 造の建物の前だった。周りの店と同じように、煌々と明かりをつけたその前には、何台もの馬車が
 止まっている。
  駅馬車だ。
  夜なので、もうそろそろ終電の時間だ。なので、建物の中に入ろうとする人はほとんどいない。
 出てくる人も、まばらだ。
  しかしマッドは、メアリーにそこで待っているように告げると、一人建物の中に入っていった。
  しばらくの間、メアリーが零れる光の渦と、その中を右往左往する影絵を眺めていると、やがて
 一際背の高い影が、光の中から出てくる。マッドが帰って来たのだ。
  長い影が光を割って、メアリーに近づいてくる。手には一枚の紙切れを持っている。

 「さあ。」

  マッドの形の良い唇が、やっと開いた。男にしては繊細で白く長い手がメアリーの手を取り、も
 う片方の手の中に握っている紙切れを、音もなくメアリーの掌の上に乗せた。そして風で飛ばない
 ように、メアリーの手で握らせる。

 「これで、何処へでも行けばいい。好きな所に行って、好きに暮らせばいい。お前の母親みたいに
  な。」

  メアリーの手の中に押し込められたのは駅馬車の切符だ。最終便である馬車に乗りさえすれば、
 メアリーはこの町から離れられる。少なくとも、マリー達の毒牙にかかる事もないだろう。
  ただ、とマッドは滑らかに言った。

 「この先、お前がどうなるかは俺の知った事じゃねぇ。別の町に着いた瞬間に、女に飢えた男に襲
  われたとしても、俺は知らねぇ。お前が過去に、本当は何をしたのか、俺が知らねぇようにな。」

  声は、夜をそのまま固めて硝子にしたかのような、澄み切った、同時に凍えた音を立てている。
 黒い眼差しも、冬の夜空のように鋭い切っ先を見せている。
  マッドは、メアリーの言っている事が真か偽かは、完全に判じる事が出来なかった。
  マッドに出来る事と言えば、マリーの言った真っ赤な嘘を反転させて、事実を取り出す事だけだ
 った。
  そこから分かったのは、結局はメアリーの母親を殺したのはマリー達だったという事だけで、メ
 アリーがその時に何を考えていたのかまでは完全には分からない。
  この町を捨てて、何処かに行きたかったのは本当だろうとは思っている。
  けれども、メアリーが何度も繰り返し口にした、母さんが好きだった、という言葉に対して、真
 偽を定める事は出来なかった。

 「お前が、母親が死ぬ事を望んでなかった、なんて、本当かどうか、俺には分からねぇからな。」

  子供による親殺しが成されなかったとしても、子供が親に死んで欲しいと望む事は、あったのか
 もしれない。
  すると、メアリーの眼が大きく見開かれた。
  が、それだけだった。
  いや、メアリーの口元に、艶やかな笑みが零れ落ちるという変化が見受けられた。それは、まる
 で男に媚び諂うかのような。彼女の母親は、こんな顔で男達を手玉に取っていたのかもしれない。

 「そうまで思ってて、どうしてこんなに良くしてくれるの?」
 「自惚れんなよ、ガキが。」

  婀娜っぽい吐息交じりのメアリーの声に対して、マッドの声は銃のように硬質だった。一歩間違
 えれば撃ち抜かれてしまうような。

 「お前がこの先どうなろうが知った事じゃねぇって言っただろ。お前が母親みたいに、男を誑かし
  て喜ぼうがどうなろうが。ただ、一つだけ言っておくとすれば、全部の男が、ふらふらと女に寄
  っていくわけがねぇんだよ。」

  事実、メアリーの母親も、結局は男を最後まで繋ぎ止める事が出来なかった。そして全ての男を
 一時とはいえ自分の物にする事も出来なかったはずだ。女の婀娜っぽい仕草に引っかかる男など、
 女が思うほど多くはない。

 「だからな、Mary?俺がお前に良くしてやってるように見えるのは、ただの俺の気紛れだ。俺の気
  が変わらないうちに、お前をまだ聖母マリアの名前で呼んでやってるうちに、さっさと遠くまで
  行っちまいな。」

  でなけりゃ、そのうちサロメって呼ぶぞ。
  マッドの白い顔に、ヨナカーンと同質の頑なさを見つけたのだろうか、今にもマッドに触れよう
 としていたメアリーの手が止まる。

 「まさか、あなたは聖ヨハネの名前を持ってるだなんて事は言わないわよね?」

  光のないメアリーの眼差しに、マッドは口角を持ち上げる。

 「俺は賞金稼ぎマッド・ドッグ様だ。それ以外の名前は、持たねぇな。」 

  聖なる夜に連なる名前などではない。マッドが持つのは、狂気と泥に塗れた名前だけだ。それだ
 けを冠している。そう、自分で決めた。

 「だから、俺は洗礼してやる事はできねぇが、お前達のした事について何らかの酌量ならしてやれ
  る。母親殺しの女達は、今回の件で着もが冷えた事だろうよ。それで十分だろ?」

  どうせ十年も前の事だ。しかも過失は至る所に落ちていた。  
  そして、お前には、これだ。
  マッドは短く言った。
  同時に、パカパカと蹄が石畳を叩く音と、車輪の回る音がして、馬車が静かに二人の横に停車し
 た。
  横目でそれを見たマッドは、手早くメアリーの身体を反転させて、その細い背中を押した。あっ
 けなく、メアリーの身体は開いていた馬車の扉の向こうに吸い込まれていく。ぽってりと椅子に倒
 れ込んだ間抜けな姿をマッドは鼻先で笑った。

 「それに、女の嘘には、精々騙されてやるのが男ってもんだろ。だからお前は、俺を騙して運命を
  打破したと思ってりゃ良いのさ。それか、少し早いクリスマスプレゼントでも受け取ったと思え
  ば。」

  マッドがひらりと手を翻すと、馬車の扉はすぐに閉じて、メアリーの姿を隠してしまう。そして、
 何の前触れもないままに馬車は動き出す。マッドも馬車の行く方向とは反対方向に歩き出す。むろ
 ん、振り返って見送ったりはしない。
  硬質なブーツの足音は、真っ直ぐに大通りを目指していた。