肌を切るほどに凍えきった空気は、信じられないほどに清涼だった。埃っぽさも甘やかさも香ら
ない、全ての香りは鼻腔に届く前に氷の牙に切り落とされて、感じるのは微かな水と、後は眼に染
みるほどの痛みだった。
如何なる猟犬の鼻も利きそうにない凍える夜の下で、けれども代わりに音は何処までも突き抜け
て届くようだった。空気は透明で、何もかもが見渡せて、障害物は何処にもない。人の声も、モミ
の木に吊るされたオーナメントが揺れる微かな音さえも、全てが拾い上げる事が出来そうだった。
それは、未だ人の多い、店にも明かりの灯る賑やかな通りでは全くの役にも立たないが、しかし
一度路地裏に入り込めば、人の声は遠ざかる。
冷たい空気を切り裂くようなオレンジの街灯の明かりも店の明かりも、人の健全な営みを示す色
と音は、微かな隙間からしか感じ取る事が出来ない。
旧市街の、更に奥まった人気のない路地裏は、もしかしたらまだそこで生活している人はいるの
かもしれないが、そこには穏やかな色合いはなく、ただただ冷たい、冬の冷酷な面をそのまま固め
て氷にしたような風が強く吹き荒んでいるだけだった。
細い路地裏は、昼間よりも遥かに押し沈んでいて、ちらちらと蠢く不気味な明かりが、更に世界
を沈めこむ。そして、時折信じられない突風が全身を圧迫し、これ以上人に立ち入られる事を拒絶
するかのようだった。
影も落ちないほど暗い、舗装されていない砂地の道を、しかし闇よりもなお濃い影が翻る。突風
に煽られたマッドのコートの裾がはためいたのだ。闇を吸い上げて重々しくはためくコートが、深
い深い闇をそこかしこに影のように落とす。
代わりに、マッドの吐く息は、雪よりも真っ白だった。
誰もが立ち入る事を躊躇う路地裏を、マッドは賞金稼ぎの表情で恐れもせずに踏み躙る。腰に帯
びたバントラインは、いつでも獲物の喉笛を食い千切ろうと、咢を黒光りさせて、静まり帰ってい
た。
マッドが白い息を吐きながら見ているのは、夜の闇とは異なる闇色に堕ちた木札だ。暗いので、
そこにはもうなんと書かれているのか読めない。記憶では、確かに『Mary』と書かれていたのだが。
明かり一つ零れない、古い今にも朽ち果てそうな家。その扉はかつてマリーが家族と共に住んで
いた家。そして女によって砕かれた生活を立て直すために捨てられた家。そして、何か悍ましい出
来事が起きた。
家具のほとんどが置き去りにされていたこの家は、まだその時のまま、動き出せていないのだ。
幼かったメアリーと共に。
マッドは、葉巻の煙を吐き出すように、もう一つ真っ白な息を吐いて、古くなった木の扉を、昼
間と同じようにゆっくりとドアノブを回して開いた。昼間と同じように、扉は苦も無く、ただし小
さく軋む音を立てて開く。
暗くて圧迫感溢れる、埃の降り積もる廊下は、マッドが開いた扉から辛うじて星明りを受け止め
て白く震えた。真っ白な廊下には、昼間にはなかった足跡が一組、点々とついている。足跡の部分
だけが、闇でも通り抜けたかのように、黒い。
男のマッドのそれよりも遥かに小さい足跡を一瞥し、マッドは足跡が向かう方向へと自分も足跡
を付けていく。
廊下とも言えないほどの短い廊下を歩き、応接室として使用されていた窓のある部屋へと辿り着
く。そこは、窓がある所為か、他の場所よりも明るく思えた。星明りが埃の上に乗って、置き去り
にされたテーブルや、当時のまま打ち捨てられたクリスマスツリーと、その飾りを、微かに煌めか
せた。
そして、クリスマスツリーの足元に。
「此処にいたか。」
そこにいるのが当然であるかのような口調で、マッドはクリスマスツリーの根元に蹲る闇に話し
かけた。マッドの白い息に促されるかのように、そっと動いた髪は星の光を受けて微かに震えてい
るようだった。
「よく、分かったわね。」
「他に思い当たる場所もねぇ。それに、お前だって此処にいれば見つかると思ってたんじゃねぇの
か。」
ゆるりと立ち上がった影は、酷く質素な姿をして夜の中で見るには寒そうだった。けれども凍え
る素振りも見せずに、そうかもしれない、と呟く。息は、見えない。
半身に星の光を浴びて立ち上がったメアリーは、昼間酒場で見た時のような物怖じした雰囲気は
ない。星の光を浴びているのに、眼に光が宿っていない所為で、そう思うだけか。
何も見えないメアリーの眼を、マッドは混沌とした自分の眼を添える。
「あの鍋の中に、手首を入れたのは、お前だな。」
「どうして?そう思うの?」
「お前が、助けを乞うたからさ。」
マッドは抑揚のない平らな声で、事も無げに答えた。余りにもあっさりと感情さえ籠っていない
声は、正に無為に輝く星の声のようだった。
「私が?助けを?」
「聞こえねぇとでも思ったか?」
マリーから――人々から狂っていると指差され、そうして生きていくしかなかった人間が、悲鳴
を上げないとでも、思うのか。
「あたしは――。」
メアリーが口を歪に開いた。
助けてほしいだなんて、思っていなかったもの。
「だったら、なんで俺にあんな嘘を吐いた。俺達が此処に来る時に後を付けた?お前は何か期待し
てたんだろう?あの鍋を買った俺達が、この家をひっくり返すのを。」
何の為に。
勿論、自分に課せられた運命を打破する為に。
「ただし、それには幾つも障害があった。お前、自分が危険な状況だって事は分かってたんだろう。」
「……………。」
メアリーが口を閉ざす。だが、閉ざされた口の代わりに、闇色だったその眼に不可思議な光が灯
る。とても、はしこい、光が。
息を吐いているのかも分からないくらいに黙り込んだメアリーは、やがて再び口を開く。歪さは
何処にもない。
マッドが微かに片眉を上げている間に、メアリーの口は滑らかに声を紡ぐ。
「あたしの母さんは――。」
とっても綺麗な人だった。
唄うように言った。
「その母さんに、何度も男の人が言い寄っても仕方ない事じゃない。母さんはいつもそう言ってた
わ。お前がいなければもっと色んな男が寄って来たのにって。母さんの金髪。あたしとっても好
きだったわ。」
うっとりとするように小首を傾げ、するすると舌を動かす。
「母さんはあたしを殴ったけれど、その時の母さんの金髪は波打って、一番綺麗だったのよ。」
すっとその眼に闇が戻る。何処か遠くを見るような眼差しで、とってもとっても好きだったのよ、
とメアリーは呟いた。
気に入らない事があるとすぐに殴りつけ、男が捕まらないと煙草を押し付けて気を紛らわせるよ
うな母親だったけれども。そうでない時は、他の母親よりも優しいくらいだった。クリスマスに大
きなケーキを買ってきて、プレゼントを沢山くれる。眼にするツリーだって、こんな小さなもので
はなかった。
何かを懐かしむように、メアリーは、好きだったのだ、と。
母さんの事が、と。
そんな子供の目の前で、母親は殺されたのだ。