既に冷め切った紅茶の水面には、マリーの驚愕に満ちた表情が映っている。その背後に、先程厨
 房から出てきたばかりの男女の姿が。
  サンダウンは銃を突きつける手を緩めぬまま、マッドはこの店の店主達も、この事に関わり合い
 があると知っていたのだろうか。いや、流石のマッドでもそこまでは嗅ぎ取れなかっただろう。だ
 が、もしやという思いはあったかもしれない。この町の何処かに、マリーと同じ境遇の人間が、大
 勢いるのだと。

 「………この鍋で、人を殴り殺しただなんて、良くも言えたものだ。」

  人を殺す時の力というものを知らないのか、それとも誰も人を殺した事がないと思っているのか。
 目の前にいる人間が、何度も死体を見て、凶器を探して、犯人を逮捕してきた人間だとは、流石に
 予想していないだろうが。
  しかし、つるりとした鉄の底を見せる鍋が、どうして人を殴ったものであろうか。まして、マリ
 ーが言うように何度も何度も殴ったと言うのなら、傷や凹みがなくてはおかしい。
  大体、それだけでは、干からびた手首に、釘が打ち付けられた事の説明にはなっていない。あの
 手首に釘が打ち付けられていた経緯を、マリーは一言も話していないのだ。
  知らないだけ。そんなはずがない。
  メアリーが母親を殺した事を知っているのに、その死体の経緯と顛末を知らないなんて事があ
 るだろうか。
  そして、きっと、メアリーの母親が血みどろになって死んだ事は、マリー達家族だけではなく、
 メアリーの母親に絡まれた者達も知っている。
  メアリーの母親が騒ぎを起こすたびに保安官が出ていったのなら、メアリーの母親の男を奪うと
 いう性癖は誰もが知っているはずだ。或いは性格を鑑みれば彼女自身が自ら自慢げに語ったのかも
 しれない。
  だから、マリー一家とメアリーの事は、皆が知っていたはずだ。メアリーが母親に攫われた事も、
 瞬く間に町中に広まった事だろう。その時、女に生活を引っ掻き回された夫婦は――特に妻は――
 なんと感じただろう。
  何かの天啓を、見出さなかっただろうか。

 「………そもそも、子供だったメアリーに、母親を殴り殺せると思うか。」

  サンダウンは味気なくなった店の中で、呟くように言った。もはや、入ったばかりの小奇麗な食
 堂のイメージは何処にもなく、一瞬で無味乾燥な世界に成り果てている。皿の上に転がったスコー
 ンは、砂の味がする事だろう。
  それほどまでに、空気は一変している。
  マリーが、マリーと周りの人間達が吐き続けた嘘の所為で。
  メアリーが、母親を殺しただなんて嘘を、白々しく、如何にも沈痛な面持ちで騙った所為だ。
  子供が母親を殺さない事がないとは言わない。子供が鍋で母親を殴らないとは言わない。だが、
 咄嗟に鍋を掴んで、何度も何度も母親が死ぬまで打ち続ける事ができるだろうか。
  何処かで母親が抵抗しないか。母親を殴れるほどの身長が当時のメアリーにあったのか。仮にそ
 れら全てをメアリーがやったとして、その上に母親の手首に釘を打ち付けるまでするだろうか。身
 を守る為に咄嗟にそこまでするとは、考えられない。
  有り得なくはないのかもしれない。
  だが、可能性は低い。
  大体、マリーはメアリーを探し回ったと言ったが、もしもメアリーが母親を鍋で殴っているのな
 ら、その音が路地裏に響き渡るはずだ。あんな薄い壁の家々しかないのに、中で人を殴る音や悲鳴
 が聞こえないなど、おかしい。異変にはすぐに気付くはずだ。
  そしてそれがマリーの旧家から響き渡っていたというのなら、真っ先にメアリーと母親の事を考
 えるはず。マリーの旧家には、メアリーの母親が何度も押しかけていたのだから、近隣住民も分か
 るだろう。
  マリーの騙りは、悉く、状況がおかしいのだ。
  メアリーが、自分を折檻しようとした母親に抵抗して、鍋で何度も殴って殴り殺したと考えるよ
 りも。
  サンダウンは、女達を見据える。
  マッドも、思い至ったに違いない。証拠はないが、そちらのほうが筋は通る。マッドの勘はそれ
 を確かに思いついていたのだ。
  メアリーの母親を殺したのは、目の前にいる女達だ。伴侶を嘲笑うかのようにいきなり奪い去り、
 かと思えば伴侶はそこから逃げ出してきて、それを口汚く罵り倒す。男達は美しい女に引きずり回
 され、その顛末は皆が知っているのに、けれども引っかかる男達は止まない。
  一時とはいえ、夫を奪われ、生活圏を脅かされた女達が、しかし繰り返される蛮行に腸が煮えく
 り返らないはずがない。
  いつ、手痛いしっぺ返しを喰らわせてやろうかと、虎視眈々と狙っていたのではないか。
  折檻を受けてきたメアリーが手に入った時、彼女達は何かを閃かなかったか。面憎い女に、良く
 似た子供。全身が痣だらけの、しかし女に良く似た娘。それが女に誘拐された時、女達は牙を剥い
 たのだ。
  あの、黒ずんだ木札のかかる家で。
  手に凶器を持って。
  メアリーの母親を殺したのは、彼女達だ。メアリーではない。彼女達は、メアリーの前で、母親
 を殺したのだ。
  それだけではない事も。
  あの手首の釘が殺す前か殺す後に打ち込まれたのかは分からないが、女達が鬱憤を晴らす為だけ
 に、打ち込んだのだ。メアリーの母親が、メアリーを折檻して憂さ晴らしをしていたように。
  その凄惨な現場は、誰も止められなかった。何せ近隣住民達の中にはメアリーの母親に対して鬱
 屈した思いを持っていた女が多かっただろうし――もしかしたら殺しにも加わっていたかもしれな
 い――女の夫達は自分の不徳に首を絞められ手を出せなかっただろう。
  保安官も、目こぼしをしたのではなく、自分もまたメアリーの母親と不徳を成していたので、強
 くは言い出せなかっただけかもしれない。
  そして、それら全てを、幼いメアリーは、見ていたのだ。
  だから、マッドは言ったのだ――メアリーを一人ふらふらさせてるのが良いとは思えねぇな。
  あの言葉は、メアリーがマリーや誰かを復讐の為に襲うという意味ではない。母親殺しの現場を
 見ているメアリーを、いつ何時、誰が、マリー達が殺すか分からないという意味だ。マリー達はメ
 アリーが狂っていると言ったが、いつ理性を取り戻すか分からない。
  当時は良かっただろう。まだ町はさほど多くなく、新市街が出来始めた頃で、狂ったメアリーを
 仮に正気に戻っても、この子は狂っていると言い放てばいいだけだった。
  しかし、町は多くなり、駅馬車で旅人も増えた今現在、正気に戻ったメアリーを見て、確かにこ
 の子は正気だと言い切る医者が現れるかもしれない。それに口を閉ざす保安官も、そろそろ赴任地
 を変えられる可能性がある。新たに来た保安官が過去の事件を洗い直しでもしたら。
  月日が流れるにつれ、傷は癒えていくものなのだが、罪は逆に重くなるものだ。この十年間、彼
 らは気が気ではなかっただろう。メアリーをさっさと殺してしまえば良かったのかもしれないが、
 それをするには町は大きくなりすぎ、メアリー一人を殺しても皆で黙り込んでしまえば終わりとい
 う局面を過ぎてしまっている。
  それでもこの状況下で、もはや自分達以外の人間が、マッドが、サンダウンが事態を飲み込んで
 しまった以上、証拠がないから唯一の証人であるメアリーを口封じしようと考えてもおかしくなか
 った。
  だから、マッドはメアリーを探しに行ったのだし、この状況に陥ったマリー達に手出しをさせな
 いように――誰かに連絡をとってメアリーに危害を加えさせないように――サンダウンを此処にお
 いたのだ。
  きっと、もうすぐ、マッドはメアリーを見つけ出すだろう。
  マッドが、どのような裁決を下すのか、サンダウンには分からない。保安官であった自分ならば、
 この場にいる連中を全部ひっ捕らえるところだが、けれどもマッドはどうするだろうか。
  サンダウンは、嘘を吐いたマリーの、年老いた顔を見る。確かにそれは、苦労ばかりをした顔だ
 った。しかも罪まで犯してしまって。
  ふと思う。
  マリーが、昔の物を――ダッチオーブンを含め――バザーで売り払おうとしたのは、何とかして
 過去から逃れようとしたからではないか。昔を思い出させる物を遠ざけ、自分の罪をないものにし
 ようとした。
  鍋を恐れたのは、メアリーではなく、マリーのほうだったのだ。
  マッドも、そう思っただろうか。
  サンダウンは真鍮色の銃口をマリーから下ろし、獣のように立ち上がる。乾いた風の色をしたポ
 ンチョを翻し、既に立ち去って久しいマッドの足跡を追う事にした。
  マッドの事だから、きっともう、全部を片付けている。