温んだ紅茶の水面の漣が消えるまでの間、張りつめた沈黙が落ちた。それが揺れ動いたのは、マ
ッドが静かにカップを持ち上げ、湯気のない紅茶に口を付けた時だった。
ゆるゆると、長い長い溜め息をマリーが吐き終える間、マッドは紅茶を飲んで待っていた。
厨房から漂っていた料理の匂いは、いつの間にか消えている。
「………ええ、そうよ。」
マリーが遂に口を割る。
「あの子は、自分の母親を殺してしまったの。」
それ以来、心のほうも壊れてしまったのだ、と。
マリー達一家が襲撃に耐え兼ね、旧市街にある家を出て新市街にある新しい家に引っ越してから
間もなくの頃、家族が眼を離した隙にメアリーがいなくなってしまったのだ。ちょうど家族が皆出
払っている時にいなくなったのだ。彼女がいなくなった事に最初に気が付いたのは、夫だった。
皆で手分けして探しているうちに、メアリーの母親らしき人物が家の近くにいたという話を聞い
た。一体何処で、マリー達が引っ越した事を聞いたのか。女の執念深さに腹の底がぞっとすると同
時に、メアリーが母親に連れ去られたのではないかという予感が脳裏を過ぎった。
とにかく、這う這うの態で探し回り、遂にメアリーと、その母親を見つけた。
「二人は、あの家にいました。」
マリー一家が立ち去った家に、二人はいた。ただし、その時既にメアリーの母親は、物言わぬ物
体と化していたのだが。
「私達が家の中に踏み込んだ時、家の中は血濡れではないものの、それでも血が飛び散っていまし
た。あの子の母親のものです。」
おそらく、メアリーを連れ去った母親は、メアリーを今まで以上に折檻しようとしたに違いない。
家の中には、まだマリー達が使っていたものが残っていた。
「この鍋も、その一つなんです。」
マッドの眼が、片方だけぴくりと微かに大きく見開かれる。サンダウンは、温んだ紅茶のお茶請
けに出されたスコーンに伸ばそうとしていた手を止めた。
「メアリーは相当抵抗したようでした。」
夫がマリーに送ったダッチオーブンを掴み取り、自分を激しく折檻する母親に向けてそれを何度
も打ち下ろした。何度も、何度も。
だから、辺りには血が飛び散っていたのだ。
そして、幼いメアリーには加減というものが分からなかった。母親を打ち殺すまで、オーブンを
振り下ろし続けた。
二人を見つけたマリーが止めるまで。
母親から引き剥がされて、その身がまるきり安全になっても、けれどもメアリーはもう元には戻
れなかった。幼くとも、母親に何をしたのか、薄らと理解し、そして長じるにつれて理解したくな
くなったのだろう。正当防衛という言葉で己を保護できるほど、メアリーは器用ではなかった。
「自分が何をしたのか理解できるようになるほど年齢が上がっていくにつれて、どんどんメアリー
はおかしくなっていきました。母親殺しが余りにも重い罪だと理解できて、それを自分が犯して
しまった事を認めたくないんでしょう。」
だから、自分と同じ名前の意味を持つマリーが、母親を殺したのだと思っているのだ。そう、思
いたいのだ。
メアリーは、未だにあの黒ずんだ木札の掛かった家の中で、立ち止まっている。
あまりの哀れさに、保安官も目こぼししたほどだった。逮捕するにはあまりにも哀れすぎると言
って。
「この鍋は、メアリーに見せないようにずっと隠してたんです。見たらメアリーが怯えるから。母
親を殺した事を思い出すんでしょうね。」
だからバザーに出したのだとしたら、恐れ入る。
サンダウンが薄らとそう思いながら、厨房から音が聞こえない事を気にしていると、マッドが唐
突に立ち上がった。
「メアリーは何処に行った?」
いきなりの問いかけに、マリーは眼を瞬かせた。老婆の怪訝な顔を、冷徹な顔で見下ろし、ゆっ
くりと言った。
「あんたの言葉を聞いてる限り、メアリーを一人ふらふらさせてるのが良いとは思えねぇな。この
鍋に手首を入れたのは、メアリーである可能性が高いんだぜ。なんの為にそうしてるんだと思う?
母親を殺した相手に、自分は覚えてるぞって意思表示してるのかもしれねぇぜ。」
「まさか……。」
そもそも母親を殺したのはメアリーだ。
いや、メアリーはマリーが母親を殺したと思っているのだから、マリーに復讐を考えているのか。
それとも自傷の可能性をマッドは言っているのか。それとも。
マッドはひらりと身を翻すとコートを引っ掴んで、大股で店の扉まで足早に進む。
「キッド、てめぇは此処で見張ってろ。」
コートを着る瞬間に、マッドの腰に帯びたバントラインが光を反射して、鋭く黒光りした。
見張っていろ、の真意を確かめる前に、マッドは木の扉を押し開く。開いた扉の奥に賑やかな色
を灯した闇と、冷たい空気が流れ込んできて、サンダウンはひやりとした。
その向こう側にマッドは溶け込んで、完全に消え去る前に扉が閉まる。
同時に、サンダウンの掌には真鍮色に煌めくピースメーカーが滑り込んで、マリーの眉間に銃口
が突きつけられている。
「………動くな。」
声は、マリーだけではなく、厨房で蠢いている気配にも放たれている。
「手を上げて、ゆっくりとこちらに出て来い………。」
重低音で放たれたサンダウンの声に、のろのろと、手を上げた男女が厨房から出てくる。妙にお
どおどした老けた男と、こちらを睨み付けるやはり老いた女。
「随分と、お粗末な嘘を吐いたものだ………。」
マリーと、厨房から出てきた男女を見比べ、サンダウンは彼らは知り合いなのだろうな、と思う。
そして、男のおどおどした雰囲気から、マリーと同じ境遇に陥った夫婦の一人なのだろう、と。メ
アリーの母親に、一度その仲を引き裂かれた二人なのだ、と。
そういった夫婦は、マリーが言ったように、メアリーの母親が夫を奪う事を楽しむ女である以上、
この町には大勢いるのだろう。
そして、彼らのほとんどが、この事件について嘘ばかり吐いている。
故に、未だ真実は近づかない。
切れ切れの明らかな嘘を取り払って、その裏側に落ちている事実を拾い上げる以外に、虚偽の森
を抜ける方法はないのだ。