扉を叩いたマッドに、薄く開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは三十代になるかならないかとい
 う男だった。恐らくマリーの息子だろう。怪訝な顔をする男に、マッドは即座にマリーを出せと命
 じた。
  端正な、しかし決して堅気ではないマッドの出で立ちに、男は少し顔色を変え、母に何の用か、
 と問う。

 「メアリーの事だと言えば分かるだろう。」

  すると、マリーの息子はますます顔色を失くし、今にも扉を閉ざして逃げ出しそうな雰囲気を醸
 し出した。
  それを止めたのは、メアリーという言葉を聞き咎めたのだろう、彼の母親――マリーその人だっ
 た。
  この一家には、メアリーという名前は既に呪いの言葉と同等となっているのか、激しいほどに反
 応した。一方で、全てを知っているであろうマリーは、過敏に反応すると同時に、何かを諦めたよ
 うな深い溜め息を零したのだった。
  腰の曲がった、実年齢よりも遥かに老いて見えるマリーは、サンダウンが見た時よりも更に老け
 込んでいるようだった。声も、かなりしわがれている。

 「……あの子が、何をしたっていうの?」

  既にメアリーが何かを起こしたのだと確定するかのような台詞に、マッドは微かに眼を細める。

 「あいつの本当の母親についてだ。概略は保安官から聞いたが、それ以外の事は聞いてねぇ。だか
  ら、あんたの口から説明して貰おうと思ってな。」

  言ってから、マッドの目線は未だ背後にいる彼女の息子に向けられる。蒼褪めながらも、マッド
 の言動を逐一見逃さないようにしている彼は、相当の親孝行者だろう。
  マリーも息子の視線に気づいたのか、再び溜め息を吐くと、呟いた。

 「外に出ましょう。此処では、あの子の事は離せないわ。」





  ひどく疲れ切ったような老婆――というほどの年齢でもないらしいのだが――を、マッドが連れ
 て行ったのは、メアリーを連れて行ったような酒場ではなく、こじんまりとした、しかし小奇麗な
 レストランだった。
  緑色の扉に、赤いリボンのついたクリスマスリースが飾られたその店は、ほんのりとランプから
 放たれる杏子色の光で満たされていた。
  厨房からは今にも湯気が流れ込んできそうなほど、柔らかな料理の匂いがする。数える限り三人
 ほどしかいない従業員――もしかしたら家族だろうか――で切り回している空気は、何処か家庭的
 だった。
  サンダウンにしてみれば、マッドがこんな店を選んだ事が驚きだ。マッドなりに、気苦労の絶え
 なかったであろう老婆の人生を思いやったのだろうか。
  だが、その一方でマッドの追及は容赦がなかった。
  サンダウンから奪い取った鍋を片手にしたマッドは、老婆にそれを突きつける。昨日己が売った
 鍋を見つめた老婆の目の前で、鍋の蓋を取ってみせたのだ。
  悲鳴が上がらなかったのは、幸いだった。
  けれども、マリーの落ち窪んだ眼は、驚愕のあまり零れ落ちそうになっていた。唇は震えていた
 が、言葉は一滴も零れない。
  その様子を見て、マッドは静かに言った。

 「どうやら、あんたはこの中にこれが隠されている事を知らなかったみてぇだな。」

  己が売りに出した鍋の中に、よもや人間の手首が入っているなんて事は、想像だにしていなかっ
 たのだろう。

 「でも、この手首自体には、見覚えがあるんじゃねぇのか。」

  釘が打ち付けられた、手首。
  浅い呼気を零すマリーが、干からびた人間の手首を見ても悲鳴を上げず、ただただ驚愕で終わら
 せたのは、この手首が誰のものなのか、知っているからではないのか。
  サンダウンは自分の両側で見つめ合う青年と老婆を見比べ、鍋の影が落ちているティーカップを
 見下ろす。その中に溜まるのは上品な色合いをした紅茶で、決して血溜まりなどではない。
  呼吸困難にでも陥っていたかのようなマリーは、何かに救いを求めるように胸の前で両手を組ん
 でいる。まるで、我が子の磔刑を最後まで看取れなかった聖母のようだ。
  だが、磔刑に救いがなかったように、マリーにも救いは訪れなかった。故に、マリーは重い口を
 割った。

 「そう、それが何故その鍋の中にあるのか、私には分からない。けれども確かに、その手首の持ち
  主を私は知っているわ。」
 「メアリーの母親か。」
 「ええ、そうよ。」

  認めてしまうと、何もかもを覚悟したのか、マリーは胸の前で組んでいた手を解き、マッドの眼
 を見据える。むろん、マッドもそれを受け止める。

 「この手首の持ち主は、メアリーの母親で、間違いがないわ。」

  悋気の強い、しかし美しく若い女だった。
  マリーは西部に来てから働きづめで、女らしい楽しみはほとんど持っていない。そんな中で、夫
 と結婚したのだが、しかしその時からマリーは老けて見えたのだ。
  夫は悪い男ではなかった。事実夫婦仲は良かったのだ。この鍋を、夫がマリーの為に買ったと言
 うのも本当だ。
  けれどもマリーと同じく働きづめで、世事に疎い夫は、己に迫り来た若く美しい女にころりと参
 ってしまった。それがメアリーの母親だ。メアリーの母親は一時女優のような事もしていたから、
 木偶の坊のような男を手玉に取るなど、容易な事であっただろう。
  女に唆されるままに、夫はマリーと子供達を捨てて、女の元に走ったのだ。
  ただし、この時女の元にも子供がいた。

 「メアリーは、母親によく似た顔立ちをしているわ。性格も、もう少し似ていれば良かったのかも
  しれない。」

  呟いた老婆は、また、溜め息を吐いた。  
  メアリーの母親は、非常に厚かましく、図太い性格だった。他人の夫を奪う事を喜びとしている
 のだから、それはそうだろう。更には悋気が激しく、奪った男が彼女の性格に愛想をつかして逃げ
 ようとすれば、それはそれは騒いだようだ。
  マリーの夫が逃げた時も、大層暴れたらしい。毎日のようにマリーの家に押しかけ、玄関前で騒
 ぎ立てるのだ。その度に保安官は駆けつけなくてはならなかったようだから、相当凄まじかったの
 だろう。
  ただ、それだけならば悲劇は大人の間でどうにか処理できたのだが、彼女には別の性癖があった。

 「彼女の元から逃げ出した夫が、私の元に帰って来た時、メアリーも一緒に連れてきたの。最初は
  何故かと思ったわ。私の元から逃げ出した時は、着の身着のまま出て行って、子供達なんか歯牙
  にもかけなかったのに、そう考えると腹も立った。」

  冷ややかに見るマリーに、しかし夫は、黙ってこの子の身体を見てやってくれ、とだけ言ったの
 だ。

 「身体中、痣だらけでね。」

  痣だけではない。火傷の跡や、内出血、そうしたものが至る所にあったのだ。明らかに、行き過
 ぎた折檻が示されていた。
  マリーの夫は、確かに木偶の坊で、女にかまけて妻と子供を捨ててしまった男だったが、決して
 心の冷たい人間ではなかった。子供には優しい男だった。だから、他の男達のように殴られ続ける
 メアリーを放置して一人で逃げ出せなかったのだ。
  だが、子供まで奪われた女は、金切り声を上げた。己が甚振るだけの為に存在する子供がいない
 事が、よりにもよって自分よりも遥か下方にいると思い込んでいた女にそれらを奪われた事が、心
 底許せなかったのだろう。夫がマリーの元に戻った事よりも、むしろメアリーを奪われた事のほう
 が許せなかったのかもしれない。
  毎日のようにマリーの家にやってきては騒ぎ、金切り声を上げる。近所の人々や保安官は、メア
 リーの身体の折檻の跡を知っていたから、女にメアリーを返せとは言わなかった。マリーは確かに
 溜め息を吐くような人生を歩んだかもしれないが、周りの人々は冷たい者ではなかったのが救いだ。

 「あまりにも酷いんでね、私達は昔住んでた家を捨てて、こっちに移り住んだんだ。」
 「それで、メアリーの母親は、どうした?」

  マッドの眼は、先程から微動だにせずにマリーを見つめている。
  これから迫りくる悲劇の顛末を、見届けようと言うかのように。

 「私達がこちらに移り住んで、間もなく死んだのよ。」
 「殺されたのか。」

  紅茶の赤い水面に、薄く波紋が広がる。その広がりを、マッドが更にさざめかす。
  メアリーに、と。