唐突に差し出されたのは、花を形どった髪飾りだった。
貴女に、と、その男は恥ずかしそうに、けれども屈託なく告げた。
レイは道場の自分の部屋で、途方に暮れていた。
師範となってから数カ月経つ。その間に、少しずつだが弟子も増えてきた。街中にある立派な門
構えの道場ほどではないが、こんな山奥の道場にしてみれば十分だ。自分達が弟子だった頃に比べ
れば、随分なものである。
弟子が増えるに従って、ボロボロだった道場も少しずつ傷んだ部分を直すようになってきた。こ
うした仕事は弟子達が進んでしてくれるので、レイは助かっている。
そうして、少しずつ綺麗になっていく道場の中にある自分の部屋には、暖かくなるようにと火鉢
が置いてあった。これも、弟子達の好意だ。
こうして、自分の為に何かされるというのは。レイにとっては酷く慣れないものだったけれど、
師範ともなるとそういうものなのだろうし、弟子達の好意を無下にするわけにもいかない。
そもそも自分一人の部屋、というのも落ち付かないのだが、それは自分が女である以上仕方のな
い事なのかもしれなかった。
それに、嫌でも自覚せねばならないのだが、ユンやサモと一緒に修行をしていた時と違い、今の
レイは少しずつではあるが女の身体になりつつある。サモに、女の子だ、と言われた時は反発した
が、しかしそれでも嫌でも納得せねばならない部分というものは、確かにある。
そして、そういった事について、当のレイ本人よりも、周り――以前ならばユンやサモ、今は弟
子達のほうが良く分かっているようなのだ。
レイの為に、と準備された火鉢と、そして今レイが肩に掛けている羽織も、そうした理由から弟
子達に手渡されたに違いなかった。そしてそこにあるのは、皮肉でも何でもなく、純粋な好意であ
るが故に、レイは無下に出来ない。
面倒な事だ、と思いながら、レイは文机に向かう。
文机なんて、と昔の時分には到底考えられなかった代物に、苦笑いを浮かべた。昔は文字を書く
事も出来なかったのに、今では心山拳師範としていっぱしに文を書いている。それはせざるを得な
い為覚えたと言うのが正しいところなのだが、理由はどうあれ、レイにはそんな事をしている自分
を想像した事などなかった。
尤も、今、レイが文机に広げているのは紙でも筆でもない。
文机の上に転がっているのは、赤い花を形どった髪飾りだ。
これをレイに手渡したのは、弟子である男の一人だ。良く気の付く男で、レイの身の周りの世話
から、他の弟子達の面倒も見てくれている。
ユンがあのまま生きていれば、もしかしたらこんな男になったのかもしれない、とレイは何度か
思った。もしかしたら、レイ自身、知らぬ内に失った兄弟弟子の面影を男の中に求めて、無意識の
うちに男を気に掛けていたのかもしれない。
しかし、その結果がこれだというのは。
レイは、文机の上に転がした髪飾りを見て、溜め息を吐いた。
「困った事になったね………。」
そういう意味で、レイは男に接したわけではない。飾りを贈って貰うような関係を望んだ事は一
度もない。それに、レイはそういった事には疎く、そういった事をこれから成そうとは思っていな
い。
レイは心山拳師範だ。
如何に、これから身体が女に向かっていくとしても、それだけは揺るぎない事実だ。弟子に、身
の周りの世話をして貰う事はあっても、髪飾りを贈られるような事にはならない。
髪飾りに心が動かされなかったと言えば、嘘になる。しかし、それを押し込めてでも、レイには
守るべきものがあった。それは、死んでいった師と兄弟弟子に掛かる物だ。それらを覆すものは、
レイの中には何処にもない。
死による焼き鏝ではない。
これは、レイの覚悟だった。あの日生き残った自分自身に対して行った、覚悟だ。
それに。
「あたいには、似合わないねぇ。」
繊細な、玉を幾つも組み合わせた髪飾り。きっと値打ちものだろう。けれど、そんなものは自分
には似合わない。
「あたいには、そのへんに咲いてる小さい花で十分さ。」
そうだ、墓に、花を持っていかないと。
これは弟子達には任せられない。
椿が咲いているから、それを持って行こう。
それきり、レイは髪飾りの事などきっぱり忘れ去って、道場の裏手に咲いている椿を手折りに向
かった。