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マッドは、あたりの空気が湿気を孕んで重くなっている事に身震いし、そして小さくくしゃみを
した。
どれだけ時間が経ったのだろうか。
あたりはいつの間にか暗くなって、壁に掛けられた蝋燭の炎だけが、いよいよ震えるように燃え
上がっている。壁や床や天井に映し出されている砂だらけの椅子や柱、十字架に掛けられた救世主
や聖母の影は、小さいけれども確かに燃えている蝋燭の炎の所為で、不規則に揺れ動いていた。
けれども、蝋燭の炎以外に、この神の家に人が訪れた形跡はない。
本来ならば、厳かに祈りや福音が木霊しているはずだが、うらぶれた街ではやはり誰も神になど
見向きもしないのか、誰一人として溜まった砂埃を払い落そうとしない。クリスマスの近付くこの
季節ならば、教会には何か飾りが置かれるはずなのだが、そんなものは望むべくもない。
ただ、この教会に齎されているのは、微かな炎だけだった。
小さな炎だけが灯された教会では、当然の如く温かみは望めない。
幸いにして造りだけは頑丈らしく、身を切るような木枯らしこそ入って来ないものの、けれども
外気温の低さを打ち消すには、圧倒的に熱源が足りなかった。
何処からも熱が望めない神の家で、マッドは小さくくしゃみをする。
夜がやってきた所為で、誰もいない教会は、ますます冷えてきた。こんな所にいたら、風邪をひ
いてしまう。
そう、頭では分かっているのだけれども、マッドはこの場を動く気にはなれなかった。
むっつりとした表情で、マッドは前の席の背凭れを睨みつけている。そこにもやはり、乾いた砂
がこびりついていた。その砂の色は、何処からどう見ても、賞金首サンダウン・キッドの髪と髭の
色を連想させる。そしてその色は、今はマッドにとっては腹立たしい以外の何物でもない。
あんなヒゲ、あんなヒゲ!
マッドはさっきから、ずっとその言葉だけを心の中で繰り返していた。
マッドに不満をたらたらと垂れ流してきたサンダウン。自分の事など何一つとして考えていない
と、マッドを罵った。
罵るサンダウンには、マッドが茶色い包みを持っているのが、見えなかったのだろうか。いつも
はマッドの変化には、誰よりも、娼婦よりも賞金稼ぎ仲間よりも、目ざとい癖に。どうしてこんな
時に限って、何も気付かなかったのか。
マッドからは、女に与えた香水の匂いしかしなかったのだろうか。砂糖と生クリームの匂いは、
サンダウンには嗅ぎ取れなかったのか。
酷い。
マッドはそう思う。
自分にとって一番良いものにには気付かないで、駄目な事に気付くなんて、都合の良いものしか
見ない事よりも、ずっと酷い。
それで、マッドを責めるなんて。
サンダウンこそ、マッドの事なんて考えていないのだ。
大体、マッドが女にクリスマスプレゼントを買った事を怒っていたけれど、それならばサンダウ
ンはマッドにクリスマスプレゼントを買ったりしたのか。今までマッドに何一つとして与えてこな
かった男に、そんな期待などできるわけがない。だから、マッドはサンダウンがマッドにクリスマ
スプレゼントを与えるなんて事、少しも思っていない。
そんな男に、どうしてクリスマスプレゼントを女に買った事について、罵られなければならない
のか。サンダウンがマッドにクリスマスプレゼントを買って、マッドが何も準備していないのなら
ともかく、マッドは悩んだ末にサンダウンにプレゼントを準備した。
それなのに、どうして、どう考えても何も準備していない男に、責められなくてはならないのか。
こんな事なら、プレゼントなんか準備するんじゃなかった。
いや、どうせ崩れてしまっただろうから、ないも同然か。
マッドは、サンダウンに投げつけたプレゼントを思い出す。もう、原型を留めていないであろう
クリスマスケーキ。あんなもの、作るんじゃなかった。
そう思って、マッドは鼻を啜る。自分が、本当に可哀そうに思えてきた。そんな事、普通は考え
ないのに。それもこれもサンダウンの所為だ。
ずずっと鼻を啜ると同時に、冷たい空気を吸い込んでしまった。途端に、身体の中の温度が、ぐ
っと下がった気がする。湿っぽい空気は重く、一気に身体の下まで冷たい空気が駆け抜けていった
ような気がする。
ぶるっと身震いしたマッドは、この時になってようやく、天井から小さな太鼓のような音が聞こ
えてくる事に気付いた。
どうやら、雨が降り始めたらしい。通りで寒いわけだ。
マッドはコートの襟を掻き合わせ、小さく息を吐く。その息が、闇の中で白く震え、そして消え
る。その白さが、いっそう寒さを思い出させた。
ぱたぱたと耳に響く音は、徐々に激しさを帯びて、夜空が暗い雨雲に覆われている事を告げる。
聞こえる雨音に、マッドは何だか自分の着ている服が、あっと言う間に湿り気を帯びたような気が
して、体温を奪われた気分になった。
こんな場所に、一人でいる事を、今更ながらに後悔した。
此処は、とても寒い。
けれども、出ていくには、天から落ちる細い糸のような槍は、あまりにも凍え過ぎていた。刺し
貫かれたら、きっと骨の髄まで凍りつくだろう。
途方に暮れたように、マッドはふらりと立ち上がり、一人、雨脚が渦巻く外の世界を見つめた。