「あのヒゲ!ふざけやがって!」
怒号と一緒に、マッドは眼の前に転がっていた椅子を蹴飛ばした。
サンダウンに変なふうに絡まれたマッドは、そのまま賑やかしい街に帰る事はなく、寂れて、何
処に人がいるのかも分からない街に雪崩れ込んだ。どことなくサンダウンに似た風情のある街の、
きっと誰にも訪れられる事のなさそうな教会に飛びこんで、長い間誰にも座られる事なく、びっし
りと砂埃をこびりつかせている椅子を、あたかもサンダウン本人であるかのような勢いで、蹴飛ば
したのだ。
固定されていなかった椅子は、物凄い音を立てて、そのままつんのめるように引っ繰り返る。
教会の中に、椅子の倒れる音が反響しても、けれども誰一人としてそれを見咎めなかった。
ちらちらと小さな光だけが灯されたそこでは、もしかしたら、牧師でさえ酒場に入り浸っている
か、或いは臆病に隠れているか、それとも最初からいないのかもしれない。
サンダウンの代わりに椅子を蹴飛ばした事を誰にも見咎められなかったマッドは、肩で息をしな
がら、しかしまだ気が済まないのか食いしばった歯の間から、ぎりぎりと音を漏らしている。ただ、
それ以上は、流石に椅子を蹴飛ばそうとはしなかった。単に、蹴飛ばした脚が痛かっただけかもし
れないが。
苛立ちを隠さないまま、マッドは放置されている大量の椅子の中の一つに、音を立てて座り込ん
だ。突然、久しぶりに人間の体重を受け止めた椅子は、ぎぃっと抗議の声を上げたが、幸いにして
そのまま瓦解する事はなかった。
座り込んだマッドはと言えば、椅子の抗議の声など気にしている余裕もないのか、椅子に座った
後も、口を尖らせている。
「なんだよ、あのヒゲ……。」
口を尖らせたまま呟いた声は、まるきり拗ねた子供のそれだった。そのまま放っておいたら、泣
きだしそうだ。
「俺が、何も考えてないだって?」
サンダウンが言い募った言葉を繰り返す。
まるで、マッドがサンダウンの事など何も考えていないと言わんばかりの台詞のオンパレードだ
った。
そんな事、あるわけないのに。
マッドはいつだってサンダウンの事を考えている。考えざるを得ない状況にある。
ずっと追いかけている賞金首。
確かに仲間と一緒に酒を飲んでいたり、娼婦の身体の柔らかさに身を任せている時は、サンダウ
ンの事なんか忘れているんじゃないかと思う。けれども、そんな状態であっても、気配一つすれば
すぐに身を起こすし、名前一つが転がっただけでもそちらに意識が向かう。どんなに忘れているよ
うに見えても、マッドの肌にはサンダウンが擦り込まれてしまっている。
大体、クリスマスプレゼントだって、娼婦のプレゼントを買っている最中に、サンダウンにもと
考えた事は確かだが、娼婦に渡す物よりもずっと考えた。ありきたりに酒を選んでも良かったけれ
ど、そんなものじゃ駄目だと思いなおして、わざわざ自分で作ったのに。
マッドは、サンダウンの顔面にぶつけたプレゼントの事を思い出し、くすん、と鼻を啜った。
サンダウンが前々から欲しいと言って憚らなかった物。
基本的に物欲の少ない、というかこだわりのないサンダウンにしては珍しく、マッドに対して欲
しいと強請っていた物。そしてマッドが呆れて、聞き入れもしなかったもの。
マッドの手作りケーキが欲しいと言って、サンダウンは憚らなかった。
ホットケーキなどではなく、きちんとしたケーキが食べたいと言って、しつこかった。
それを思い出し、なかなか手に入らない果物を探して、生クリームを買って、オーブンを借りて、
作ったのに。
べったりとサンダウンの顔にはりついたそれを思い出し、きっと食べれないだろうな、と思う。
四角い箱に入れたけれども、きっと中はぐちゃぐちゃになっている。苺も砂糖菓子も、全部剥が
れ落ちて、生クリームも崩れ落ちてしまっている。食べられるような代物じゃなくなっているだろ
う。
それを見て、サンダウンがどう思うか。
マッドが、ちゃんとサンダウンの事を考えていたと思うだろうか。マッドがわざわざサンダウン
の為に作ったのだと、ちゃんと分かるだろうか。女に渡す物よりも手間も暇も掛けたのだと、理解
するだろうか。
それとも自分がそれを欲しがった事など忘れているだろうか。そして何も思わないだろうか。何
も思わず、やはりマッドを責めるだけだろうか。
だとしたら。
「なにも考えてねぇのは、そっちじゃねぇか。」
小さな蝋燭の炎だけが揺らめく教会の中で、マッドはもう一度鼻を啜った。
誰もおらず、火も蝋燭だけという教会の中は、とても寒い。マッドは厚手のコートを着ているが、
それでも白い頬は外気に触れるし、触れられた頬はいよいよ白い。
それでも、マッドはそこから動く気にはなれなかった。
そこから動いて、明るい街へと移動ずれば娼婦や仲間達がマッドを慰めてくれる事は分かってい
た。そうすればきっと楽しいだろうという事は、マッドにも分かっている。
けれども、それをする気には到底なれなかった。
どうせ、どれだけ楽しい思いをしても、心臓の片隅で、まるで思い出したようにサンダウンが顔
を覗かせて、マッドの脚を引き摺るのだ。
晴れない心を元の形に戻すには、時間か、或いはサンダウン自身がマッドを抱き締めるなりが必
要だ。だが、どうせ後者は願っても来ない事は分かっている。
だから、マッドは一人教会に籠って、時間が立つのを待つ事にした。
くすん、とマッドは鼻を啜りながら、干からびた椅子の上で身を丸くした。