キルバーンは一人、森を歩く。
 手には太刀と、レイガルドから与えられた薬の入った小箱がある。黒煙症の症状はほとんど納まっている
が、レイガルドに言われた通り、この薬がなくなるまではエルフのいる場所には行くべきではないだろう。
尤も、キルバーンの中にエルフに対する言いようのない怒りが燻っていれば、この身体のままエルフの里に
でも行って、感染させてやればいいのだが。
 もしかしたらキルバーンの中には、そういった悪意のようなものがあるのかもしれなかった。実際に、病
に斃れたキルバーンを見ても、薬も与えず疫病神のように追い払ったエルフ達を許すことはできないだろう。
 しかし、そんなエルフ達のことを心の片隅に追いやるくらいに、キルバーンの中の大半を占めているのは
レイガルドのことだった。
 さようなら、と頭に直接叩きこまれてそのまま、キルバーンはレイガルドの小屋を後にした。それ以降、
あの場所には近づいていない。他種族な上に、いざとなったらキルバーンの意思などあっさりと捻じ曲げて、
意のままに操ることができるだろうレイガルドから離れることは、キルバーンも願っていたことだった。
 だが、実際にレイガルドのほうから手を離されてしまうと、何とも言えない居た堪れなさが付きまとう。
 おそらく、こちらが我が儘を言っているようなかたちになったせいだ。
 己の中にある居た堪れなさについて、キルバーンはそう分析する。実際にキルバーンの我が儘もあるのだ
が、しかしそれにしたって、あんなふうに急に手放されては、何の弁解の暇もない。そもそもキルバーンは
何らかのかたちでレイガルドに恩を返し、それから出て行くつもりだったのだ。それが、結局、恩も何も返
せぬまま、薬だけを渡されて別れてしまった。これが、キルバーンにとっては無性に気持ちが悪い。
 この心持は、レイガルドに意思を捻じ曲げられてしまったからか。
 否。
 キルバーンは溜め息を吐く。これは、ダークエルフという生き物の、悪癖と言っても良い特性だ。
 そもそもダークエルフは情深い生き物だ。かつて迫害されたという事実が、彼らを他種族と交じり合うこ
とから躊躇させている。しかし一度でも懐に入れて大切なものだと判じてしまうと、もはや種族なんてもの
は遥か遠くに置き去りにして、文字通り命を懸けて守ろうとする。そんな生き物だ。そんな生き物が、受け
た恩を忘れるなんてことがあるだろうか。あるわけがない。ダークエルフは受けた恩は、決して忘れない。
何としてでも、それに見合うだけのものを返そうとする。
 今回、キルバーンは命を救われた。それに見合うものは、レイガルドの命を救うことだ。しかしレイガル
ドはキルバーンの手など必要としてないだろう。
 恩を返すことができない。これが、どれほど口惜しいかはダークエルフにしか分からない。
 甘い香りを放つ小瓶を傾け、中を飲み干す。レイガルドの薬はあと数回分しかない。これを飲んでしまえ
ば、どこへなりと行くことができるが。
 薬の甘い味とは裏腹に、キルバーンは苦虫を噛み潰したかのように顔を顰めた。そして、その表情のまま
木陰の茂みから聞こえた人の声に視線を向ける。こそこそと身を隠すように蠢く人影に、誰かに見つかるの は面倒だと思いつつ聞き耳を立てる。
「だから、あの薬師のところにはダークエルフがいたんだって!」
 聞こえた言葉に、顰めていた表情がますます渋いものになる。誰の、何のことを言っているのかは明白だ
ったからだ。そしてその声にも聞き覚えがあった。レイガルドを襲おうとした男どもの声だ。
「本当だろうな?」
 男達に答える声は、初めて聞く声だ。歌うように美しい、女の声だった。
「ダークエルフとつるむ人間か……。」
「そう、そうなんだよ!あの薬師の野郎、声が出せない弱者の振りをして、実際はダークエルフなんぞ囲っ
てやがった!」
「ふむ……。」
 女は静かに、許せんな、と呟いた。
 その会話のきな臭さに、キルバーンが太刀を握り、茂み目がけて舞い降りるよりも先に。茂みの中から風
のように人影が走り出た。木の葉をその場に撒き散らし、長い金の髪を靡かせて駆けていく後姿。その尖っ
た耳。
 エルフだ。
 悟った瞬間に、キルバーンはそのエルフが何をしようとしているのかも理解した。レイガルドに対し、何
らかの危害を加えようというのだ。ダークエルフを一時的とはいえ匿ったレイガルドを。
 女のエルフが何者であるのか、だとか。女のエルフと人間の強盗めいた男達との関係だとか。女のエルフ
であろうとレイガルドに傷を付けることなどできないだろうだとか、そんなことはどうでもいい。
 肝要なのは、キルバーンの所為で、レイガルドが一人のエルフに目を付けられたということだ。
 恩を返せないどころか、更なる厄介事を押し付けるなど、そんなことはダークエルフは許容できない。
 エルフの散らした茂みの木の葉が地面に落ちる前に、キルバーンは樹の上から飛び降りる。そしてエルフ
のしなやかな背中を追いかける――その前に。茂みの中に未だにいる男達を振り返る。殺しは嫌だ、と言っ
たレイガルドの声を思い出す。けれどもそれはキルバーンの殺意を阻害しなかった。
 突然目の前に現れたダークエルフに男達が眼を丸くするよりも先に、キルバーンは手にしていた太刀を一
閃させた。
「お。」
 彼らの口が何かを言おうと歪に開く。けれども意味ある言葉を吐くこともなく、彼らの首はキルバーンの
たったの一振りによって全てが刎ねられていた。





z-a0001_017789.jpg(77736 byte)

 キルバーンは木立の合間を縫って風のように駆けるエルフを追う。エルフの身体能力とダークエルフのそ
れは対して違わない。ほぼ五分五分の競争で、キルバーンがエルフを見失うことはないが、一方でエルフに
追いつくことも叶わない。
 苛立つキルバーンの、更に神経を逆撫でするかのように、エルフは確実にレイガルドの小屋へと向かって
いる。レイガルドのことは、もしかしたらエルフも知っているのかもしれない。一度はレイガルドの薬を買
ったこともあるのかもしれない。それほどまでに正確に、小屋への道を辿っている。
 弓矢があったなら、その背中を射抜いてやるのに。
 キルバーンがそう思った時、不意に走るエルフが立ち止まった。何かあったのか、と思う必要なはない。
キルバーンに気が付いた――いや、鋭敏なエルフの聴覚は、ずっと前にキルバーンに気が付いていたはずだ。
では、キルバーンに何か物申すつもりなのか。
「見苦しい、愚かしい、ダークエルフだ。」
 エルフは追いついたキルバーンを見るなり、そう言った。
「自分を匿う人間を守るために、すぐにその尾を見せるか。そういう浅はかなところは、どのダークエルフ
も同じだな。まるで何一つとして変わらない。単純そのものだ。」
「そちらこそ、」
 キルバーンがエルフの美しい顔立ちを眺めながら告げる。
「あのような強盗まがいの連中とつるむとは。エルフの誇りも地に堕ちたものだ。」
 冷ややかなダークエルフの言葉に、エルフは、ふん、と鼻で嗤う。
「お前達のような闇に堕ちた生き物を滅ぼす為ならば、あのような人間達も利用するさ。大義の前に、小事
になどかまってはいられない。」
「教皇国や神族の言い分に、かぶれたかのような言い分ですね。しかし、そのわりにはやっている事が、こ
んな辺境地のダークエルフ一人を炙り出すこととは。随分とみみっちい。」
 それとも、と顔を顰める。
「レイガルドが目的ですか?」
 精霊石を持つ、あの人間。そのことをこのエルフが知っていたなら、精霊石欲しさにレイガルドを殺す大
義として、ダークエルフを匿っていたことを引き合いに出してもおかしくはない。
 だが、予想に反してエルフは首を傾げただけだった。
「あの人間が?あれは少しばかり薬作りに秀でた、魔力が高いだけの人間だ。あれの作る薬は役に立ったが
……お前のような輩を匿うようではな。腕は惜しいが、罪は償ってもらわねばならない。」
「………彼が精霊に愛されているとしても?」
「ああ、あの髪の色か。蒼い髪は精霊に愛された証だとかいう……あんな迷信を未だに信じているのか。」
「迷信?」
「ああ、迷信だ。あれは単に魔力が高いだけの印。精霊に愛されたなど、おこがましい。」
「………そうですか。」
 このエルフは、本当に何も知らないのだ。今から自分が殺そうとしている人間が、精霊石を持っているも、
それ故にエルフ如きにどうこうできる相手ではないということも、何もかも。このエルフが何処から来たの
か、キルバーンは知らないし興味もない。ただおそらく、何処かで教皇国の差別主義や選民思想に毒されて
しまったのだろう。
「ああ、そうだ。」
 キルバーンは、さもたった今思い出したと言わんばかりに、エルフに言った。これ見よがしに、だいぶん
薄れてきた痣のある腕を掲げながら、
「私は黒煙症に罹っているんです。もう治りかけてはいますが。」
 あなたに移してしまったかもしれませんね。
 見る間に、エルフの顔が強張った。白い肌が土気色に変わっていく。
「嘘だ。」
「ならば、試してみてはいかがです?放っておけば、その肌に痣が浮かぶでしょう。」
 そして痛みに狂いながら死ぬ。いや、この森を更に進んでいけば、エルフの住む土地『エルヴンライン』
がある。そこへ行けば薬は得られるだろう。そうでなくともレイガルドを頼れば薬くらいはくれるだろう。
 尤も。
 凍り付いたエルフに、キルバーンは一瞬で肉薄した。黒煙症の恐怖に少しでも動揺したエルフのその隙を
逃す手はない。もとよりそのつもりで、黒煙症のことを持ち出したのだ。
 太刀による一撃。首から脇腹まで、肋骨を断ち切るほどの深い斬撃は、半不死であるエルフの命を確かに
抉り取った。
 名前も知らないエルフは、その口から最後に赤い血だけを吐いて地面に倒れる。転がった死体を見下ろし
て、ここに転がしておくとレイガルドに見つかるかもしれないな、と思う。そうなれば、きっとあの魔術師
は何があったかを悟るだろう。何を思うのかまでは分からないが、しかし心は痛めるかもしれない。それは、
キルバーンの望むところではない。
 エルフの死体を持ち上げて、何処かで燃やしてしまおう、と考える。黒煙症に罹患したかもしれないとい
うことを考慮すれば、それが一番の解決策だった。





z-i71m_1720.jpg(54115 byte)

 薬草を仕分けしていたレイガルドは、大きく伸びをした。慣れている作業ではあるが、長時間同じ姿勢と
いうのは身体にも良くない。伸びをするついでに立ち上がり、お茶でも淹れようかと部屋の奥にあるティー
ポットを取りにいこうとして、ふと立ち止まった。玄関の向こうで、何かがことりと落ちる音がしたのだ。
 薬を買いに来た行商人や村人ならば、いつも通りにドアの向こうで声を上げるだろう。しかし、あったの
は小さな物音だけで、それ以降は沈黙を保っている。
 レイガルドは少し眼を細めてドアを見つめ、やがてそちらに向かって歩き出す。そして、つい先日物取り
があったばかりだというのに、何の警戒もなくドアを開いた。
 ドアの向こうには、誰もいなかった。その事実を見ても、レイガルドは表情一つ変えない。既にそれを予
想していたかのように。ただ、視線を足元へと向けると、ドアに引っかかるように黒い木の実をつけたみず
みずしい植物が落とされていた。
 拾い上げて見ると、それは黒スグリで、枝葉の部分はぐるりと輪になるように編み込まれている。レイガ
ルドが知る限りでは、こんなものはここにはなかったし、風で飛ばされてきたにしても不自然だ。そうなれ
ば、誰かが此処に置いた、と考えるのが妥当なのだが。
「…………。」
 レイガルドは視線を手の中にある黒スグリのリースから、森へと続く道へと移す。
 こうした植物でリースを作り、それを何かの目印にする種族を、レイガルドは知っている。森と共に生き
るエルフ達がよく作るのだが、しかし彼らは黒い木の実を使うことは忌避している。エルフは色鮮やかな木
の実や花でリースを作り、大切なものの目印とするのだ。
 では、エルフの忌避する黒い木の実――黒スグリでリースを作ったのは何者か。ダークエルフだ。
 森へと続く道には、誰の人影もない。足跡一つ残っていない。それでも、このリースを誰が置いたのかは、
レイガルドには分かっていた。リースから微かに血と煙の匂いが立ち昇った気がしたが――。
 おそらく気の所為だ。
 レイガルドは、そう思うことにした。