次の日、キルバーンは何とも気だるい気分で身を起こした。黒煙症の所為ではない。昨夜、あの後結局寝
付けなかったのだ。ダークエルフという眠りをさほど必要としない身体を持っているため、睡眠不足でどう
こうなるようなこともないが、しかしどうも気分は優れない。
 あの眼の所為だ。
 キルバーンは腹の中でそう結論付けた。昨夜のレイガルドのあの眼差し。言葉を声に出しただけで他者の
動きを縛るのも圧倒的だが、それ以上に、あの悲嘆に満ちた金色の眼。目は口ほどに物を言うとは良く言っ
たものだ。確かに眼差しでは行動を縛ることは出来ないようだが、それ以上にこちらの精神を苛む。それと
も、声が身体を縛るのならば、眼は心を縛るものなのだろうか。有り得るかもしれない。
 しかし、とレイガルドがいるであろう部屋への扉を開きながら思う。精霊に愛されている以上、その身に
宿した魔力は相当のものだろう。しかし、それでも、眼差し一つ、声一つであそこまで他者を縛り付けるこ
とができるものだろうか。キルバーンは百年ほど生きてきて、これまでに何人か蒼い髪の者を見たこともあ
ったが、レイガルドのような声だけで何もかもを言いなりにする者は初めて見た。
 もしかしたら、精霊に愛されている以外にも何かあるのかもしれない。聞けば、きっとレイガルドは答え
るだろう。そういう気がした。
 だが、今後のことも含めてレイガルドと話をしなくてはならない、そう思っていたのだが、予想に反して
レイガルドはいつも薬草を広げている机の前にはいなかった。というか、部屋の中にいない。屋根裏部屋も
物置も見てみたがおらず、少し気は引けたがレイガルドの寝室も覗いてみたが、そこにもいなかった。
 はて、と首を傾げながら、あと考えられる場所はと思いながら玄関を開ける。そういえば、レイガルドに
助けられてからまだ一度も外に出ていなかった。
 窓から何度も外を眺めていたから、この小屋が森の中にあるのだということだけは分かっていたし、キル
バーンの寝室となっている部屋の、ちょうど窓の外に薬草が植わってある畑もあったから、レイガルドは此
処で薬草を育てているのだとも知っていたが、実際に外に出てそれを見るのは初めてだった。
 玄関から出ると、そこは藤の木が絡まり合いながら何本も立っており、絡まった枝が自然とアーチを作っ
ていた。アーチを潜った先には下りの階段があり、小屋のある場所が周囲よりも数段高い場所にあることを
教えてくれる。
 藤のアーチの左側を見れば、薬草園があった。キルバーンの寝室から見える薬草園だ。そこにレイガルド
がいないことは、起きた時に窓の外を見ているから知っている。では、レイガルドがいるのは薬草園を通り
抜けたその先、小屋の裏側か。
 そう見当を付けてそちらへと足をむければ、果たしてそこにはレイガルドがいた。小屋の裏はみっしりと
薔薇が植えられており、今まさにその花が鈴なりに咲き誇っている。レイガルドが大輪の花に指先で触れる
と、まるで従順な犬のように薔薇の花はレイガルドが準備した籠の中に、ころりころりと落ちていくのだ。
「何を、しているんです?」
 キルバーンが突然話しかけても、レイガルドは驚かなかった。おそらく、気が付いていたのだろう。レイ
ガルドは金の眼でキルバーンを見つめる。するとキルバーンの頭の中で言葉が一気に開いた。
 薔薇の花びらで香水を作るのだ、と。あとはお茶にする、と。
 言葉の意味よりも、言葉が唐突に頭の中に流れ込んできたことのほうがキルバーンには衝撃だった。今ま
で筆談のような形で言葉を送り込んできたのに。目線だけで。何が言いたいのだ、とキルバーンがレイガル
ドを見れば、レイガルドはキルバーンから目を逸らし、
「面倒くさくなっただけだ。」
 と呟いた。乱雑に呟かれたその言葉は、昨夜の「殺しは嫌いだ」という言葉と同様、キルバーンを縛り付
けはしなかった。
「昨夜のあれで、俺がどういう存在か十分に分かっただろうから、いちいち回りくどく文字を使って『語る』
必要もない。」
 わざわざ文字を使うのは出来る限り相手を怯えさせないため。口が利けない魔法使いが、文字で『語る』
魔法で意思疎通をしている、というふうにすれば、大抵の人々はそれで納得してそれ以上は詮索しない。
 実際はそんなことをせずとも、意思を通すだけなら視線一つで十分。
 レイガルドは、最後は文字通り眼で語った。
「……あなたは、何者なんです?」  薔薇の花が籠にころりと落ちていく様を見つめるレイガルドの横顔に、キルバーンは問いかける。レイガ
ルドの金色の眼が、ゆっくりとダークエルフを睥睨した。その眼差しからは何も読み取れない。
 レイガルドは籠を抱えなおすと、すたすたと薬草園を横切り、小屋の中に入ってしまった。後を追うと、
レイガルドは籠を机の上に置いているところだった。そして彼はキルバーンが小屋の中に入ってきたのを見
ると、椅子に座るように指先で指示し、自分は薬品棚の一番小さな引き出しを開けてその中から小袋を取り
出した。
 黒いその小袋には金糸で細かい刺繍がしてある。その刺繍が何なのかキルバーンが判じるより前に、レイ
ガルドはキルバーンの前で小袋の口を開く。
「う………!」
 レイガルドが小袋を開いた瞬間、そこから世界を圧殺するような重々しい魔力の塊が吐き出されはじめ、
キルバーンは椅子から立ち上がり逃げ出したくなった。いや、逃げ出したくても、広がる魔力が重すぎて、
動けない。辺りにある家具が潰されていないことが不思議に思えるほどだ。
 そんな中、レイガルドは平気な顔で小袋の中身を掌に事がり落としている。そして、それがレイガルドの
手の中に納まった瞬間に、小屋の中の空気を押し潰していた魔力の塊はふっと消えた。
 明らかに軽くなった背中を伸ばし、キルバーンはレイガルドの手の中で転がっているものを見る。レイガ
ルドもキルバーンに見せるために、腕を伸ばして掌を開く。
 白い手の中にあったのは、緑と茶色の、二つの宝石だった。
 一見すると、ただの宝石にしか見えない。けれども、ダークエルフという生まれながらに魔力に秀でた種
族であるキルバーンは、それが何であるかを一瞬にして理解した。しかし同時に、理解を脳が拒んだ。
「嘘だ………。」
 偉大なる十精霊は、時にその力を一つの宝石として残すことがあるという。その精霊石を手にすれば、海
を割ることも大地を天に還すことも、世界全てを凍り付かせることさえ可能だというが、それを実際に手に
した者はいないし、見たという者も伝承の中にあるのみだ。
 けれども、目の前の人間の手の中にある、これは。
 しかも、二つ。
「俺が何者なのか、と訊いたな。」
 レイガルドはキルバーンを見つめる。
「俺も、知らない。」
 掌が、ゆっくりと握られる。精霊石は何の躊躇いもなく、その掌の中に納まる。そこがあるべき場所であ
る、と言うように。
「ただ、生まれた時に、両手の中に、この二つの石を握りしめていた。それだけだ。」
 本当に、それだけだ。
 酷く疲れたように、精霊石を手にした魔術師は、そう言った。





 どうして自分が精霊石を持って生まれたのか、まるで分からない、とレイガルドは言う。
 促されるまま椅子に座り、キルバーンは低いレイガルドの声を聞く。レイガルドの語りは、目の前にその
光景を映し出す。赤ん坊のレイガルドを見て恐れおののく、恐らく彼の両親。レイガルドでさえ記憶してい
ないであろう光景を、彼の魔力は当然のように再現してみせる。
「精霊石のせいかどうかは知らないが、俺の身体は、生まれた時から延々と魔力を放出し続けている。それ
が途絶えたことは、今まで一度としてない。」
 枯れない泉、とは誰が言ったのだったか。
 レイガルドのぽそりと呟いた言葉に、魔力は一人の老人を描く。その姿を見て、ああ魔法学校の教師の一
人か、と頷いた。
「垂れ流される魔力に惹かれて色々なものが集まってくる。良いものも悪いものも。そしてその両方が、俺
の一挙、一動、一瞥、一言で狂っていく。だから、魔法学校に行って力の使い方を覚えようとしたこともあ
った。その時に、魔法使いの一人に『枯れない泉』と言われたんだった。」
 周囲の景色が、石造りの蝋燭の灯りが漂う廊下に変わる。壁に垂らされた幕に描かれた紋章は、魔法学校
の校章だ。
「……それで、力の使い方は覚える事ができたのですか?」
「少なくとも、魔力を垂れ流すことはなくなった。あとは、こうして事実を述べているだけなら、誰かを縛
ることもなくなった。」
 尤も語る内容の幻影を作り上げてしまうことがあるが、と自嘲気味に言う。それでもましになったのだ、
と。
「精霊に実際に会ったことはないのですか?」
 精霊ならば、その有り余る力をどうにかできるかもしれない。そうは考えなかったのか。キルバーンがそ
う問えば、レイガルドは淡く笑った。
「考えたこともあったが、結局無理だった。」
 ころりとレイガルドの手の中で二つの精霊石が転がされ、カチカチと音を立てる。深い緑と茶色の石は、
それ以外にはなんの音も立てない。
「この二つの精霊石は、どの精霊のものだと思う?」
「………ダリュアとノルフザ。樹と、土の精霊のものですね。ああ、だからですか。両方とも、人間が立ち
入りにくい場所にいる。」
 樹の精霊ダリュアはエルフの居住区に、土の精霊ノルフザはドワーフの鉱山の奥に。後者はハトリウス帝
国の許可が取れればいけるかもしれないが、此処からは遠い。前者のエルフの居住区はこの近くだが排他的
なことで有名だ。だから、レイガルドは精霊に会う事ができなかった。
 レイガルドは眼を閉じ、精霊石を握りしめる。途端に、周囲に広がっていた様々な幻影が消え失せる。こ
れで話は終わりだ、と言わんばかりに。
 幻影が消え去るとレイガルドは立ち上がり、小箱をキルバーンに差し出した。何、と眼で問えば、薬だ、
と返ってきた。小箱の中を開ければ小瓶が幾つも並んでおり、そこからは甘い香りが立ち上っている。黒煙
症の薬の香りと同じだ。
 出て行くんだろう、と声ではなく文字が頭の中に入ってきた。どういうことだ、とキルバーンがレイガル
ドを見れば、レイガルドの金色の眼はキルバーンから僅かに逸れて、キルバーンの背後にある戸棚を映して
いた。
 此処から出て行きたがっていたことは知っている、と逸らされた眼から言葉が流れ込んでくる。レイガル
ドを疑い続けていたことも、レイガルドの言葉によっていつ縛られるのではないかと恐々としていたことも、
全部わかっている、と。
 頭に流れ込んでくる言葉の羅列に被せるように、レイガルドが口を開いた。
「この薬は、一日二回、朝と夜に飲むように。痣が消えた後も七日間は飲み続けないと、完治せずに再発す
る。だからそれまでは、エルフやダークエルフとは接触しないように。うつしてしまうからな。」
 それだけ言うと、彼は再び口を閉ざし、金色の眼にようやくキルバーンを映した。
 此処にはいたくないんだろう、さあ、行け、と言葉が流れ込む。
 立ち上がったキルバーンを見上げ、最後に一言、さようなら、と頭の中に流し込んで、それっきり何もか
もを閉ざした。