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 それからしばらくもすれば、ダークエルフことキルバーンはすぐに動き回れるようになった。人間よりも
遥かに体力のあるダークエルフなのだから当然である。しかし、黒煙症そのものは完全には抜けきっていな
いらしく、身体のあちこちには痛みこそないが痣が幾つも残っている。この痣が消えない限りは完治したこ
とにはならない。黒煙症は感染力の高い病で完治しないままうろつけば、別のエルフにうつしてしまう可能
性がある。そんなわけで、キルバーンは蒼い髪の男――レイガルドの元に未だにいる。
 レイガルドの住処は森の中にある丸太小屋だった。寝ている間は分からなかったが意外と広く、キルバー
ンが寝かされていた部屋以外に、もう三部屋あり、屋根裏部屋もあるらしかった。しかしレイガルドが使っ
ているのは、玄関から入ってすぐの一番広い部屋で、そこで薬作りから食事までしており、後はレイガルド
の寝室と物置になっている。
「他に住人はいないのですか?」  レイガルドは今のところこちらに危害を加える様子を見せてはいない。しかし、まだ気は抜けない。他に
誰かがいるのなら、その誰かが何かを仕掛けてくる可能性だってあるのだ。レイガルド以外の誰かが住んで
いる気配は見当たらないが。
 キルバーンの警戒心剥き出しの問いかけに、レイガルドは首を横に振る。此処には自分しか住んでいない
のだ、と。くるくると薬草を乾燥させながら、指先でそう伝える。時折、近くの村の村人や冒険者が薬を買
いに来るくらいだ、と。
 つまり、人は住んでいなくとも人が此処を訪れる事はあるのだ。そのことを、心の深くに刻み付ける。や
ってくる者がエルフである可能性だってある。
 薬草を乾燥させて粉末状にしていたレイガルドが、金色の眼でこちらを見る。何か物言いたげな眼差しに
キルバーンは目を逸らす。魔眼というものがあるが、この男の眼もそれに近い。こちらの本心を何もかも吐
き出したくなるような光が滴っている。
 魔力が滴っているのは眼だけではない。キルバーンは、レイガルドがその指先で触れるだけで植物の枯れ
を治しているのを何度も見ている。小屋のすぐ横にある薬草園には、枯れや病で萎れている草木は一つとし
てない。それはレイガルドの魔力が植物を常に活性化させているからだろう。
 ダークエルフもエルフと同じく魔法に長けているが、レイガルドの足元には到底及ばないだろう。眼差し
一つで人を操ることだって、レイガルドにはきっと容易い。それをしないのは、レイガルド自身の善性から
か、それとも他に何か含むところがあるのか。
 疑心の中にいるキルバーンに、レイガルドは金色の眼を瞬かせる。途端に伝わる『言葉』
 此処には危害を加えるような者はいないのに。
 眼差しではっきりとそう告げられても、キルバーンにはその腕の中から剣を放すことができない。例えレ
イガルドの言葉が本当のことであっても、レイガルドにはキルバーンの剣など無力に等しいのだとしても。
 レイガルドの眼がキルバーンから外され、彼の意識が薬草のほうに向いたのを感じ取り、キルバーンは溜
め息を押し殺す。
 はやく、此処を出て行かなくては。レイガルドの傍は危険だ。いつ、彼を信じるように刷り込まれている
か、分からない。忌々しく残る痣を睨み付けて、そう思った。




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 その夜、異変は起きた。
 薬の成分抽出のため、夜遅くまで起きているのだと言うレイガルドを残し、キルバーンは自分に宛がわれ
た部屋に戻っていた。口の中には、夕飯後に飲んだ薬の甘ったるい味がまだ染みついている。痣を消し、黒
煙症を完全に治すには必要なことなのだが、その甘さが妙に気に障った。
 顔を顰めて何度も唾を呑み込み、口の中の甘さを掻き消そうとする。薬を飲んだ後にレイガルドにお茶を
入れてもらったが、それに少ししか口をつけなかったことを今更ながら後悔した。
 今更。
 そう、本当に、今更だ。お茶の中に毒が入っているはずもないだろうに。しかし、レイガルドの厚意を受
け取れば、それが一体どこまで刷り込みであるのか分からない。キルバーンにとって、レイガルドに対して
疑いを持つということは、自分がレイガルドに刷り込まれていないという重要な証明だった。
 黒煙症が治るだけの薬を分けてもらって、さっさと出て行こうか。
 それが、一番な気がした。
 キルバーンはベッドに座り込んで、頷く。そうしよう、と。レイガルドが他意なくキルバーンを助けたの
だとして、それに対して何の報いもしないことに些かの気が引けたが、しかしそれ以上に他種族への不信感
が勝った。明日、この小屋を出て行く。そう心に刻み込むほどには。
 けれども、その思いを打ち砕くように、粗野な響きが唐突に打ち下された。それは無粋なほどに荒々しい
足音と人の声だった。やはりレイガルドが何者かと通じていて、ダークエルフを売り渡そうとしていたのか、
と舌打ちしたい心裡だった。しかし、粗野な誰かの声はキルバーンの想像をすぐに打ち消した。
「命が惜しけりゃあ、金目のモンだしなぁ!」
 笑い含みの怒鳴り声は、ただの物取りだ。やんややんやと騒ぎ立てる声を聞くに、五人はいるだろう。
「けけけけけっ!声の出せねぇ薬師か、町で評判になってっから、そうとう溜め込んでるだろうなぁ!」
「声も出ねぇから助けも呼べねぇ。まさに俺達が好きにしていいってやつだろ!」
 下品な笑い声に、キルバーンは顔を顰める。人間の中でも底辺にいるような輩だ。そして、ふっと思う。
奴らを追い払い、レイガルドに恩を返したことにしてしまえばいい。そうすれば、薬を分けてもらうことへ
の些かの後ろめたさも薄らぐだろう。
 思った瞬間にキルバーンは太刀を手に取り、部屋から出る。
 扉の先では、思った通り五人の男が手に刃物を持って、レイガルドを取り囲んでいる。レイガルドは普段
通りの表情で、静かに器具の中に液体が落ちる様を見ていた。まるで、男達など眼中にないような素振りで。
ただ、キルバーンが現れたことに一瞬だけ目を見開いた。驚いたのだ。
 驚いたのはレイガルドだけではない。小屋の中にはレイガルドしかいないと思って強盗にやって来た男達
も、まさか他に人がいるとは思っていなかったのだろう。キルバーンを見て、ぎょっとしたようだ。
「だ、誰だ……!」
 笑い声が鳴りを潜め、代わりに狼狽を色濃くした声が男達の間から上がる。彼らの何人が、キルバーンが
ダークエルフだと気が付いただろうか。キルバーンは男達が誰何の声を上げた時には、その眼前に迫ってい
た。ダークエルフの身体能力は、人間を凌ぐ。男達は自分達が太刀で薙ぎ払われたと気づかぬままに倒れ伏
すだろう。
「殺すな!」
「……………っ!」
 今まさに太刀を走らせようとしたその瞬間、低いが、良く通る声がした。その声に引き摺られて、否応な
しに太刀を握る手が止まる。
 殺すな、と命じたのは誰か。考えなくとも分かる。その一言だけで人の動きを封じるなど。
「なんだ、なんだぁ?!」
「もういい、こいつごと、やっちまえ!」
 何が起きたかも理解していない男達が、動きを封じられたキルバーンに刃を振り翳す。けれども、その刃
もまた動きを止める。
「お前達も、動くな。」
 低い声が、強盗達に向けても放たれたのだ。レイガルドが立ち上がっている。初めて聞く、彼の声だった。
「刃を、下せ。」
 深いため息とともに、頼むから、と呟かれる。誰が、逆らえようか。キルバーンはだらりと太刀を下げる。
男達も次々と、言われるがままに刃物を収める。レイガルドは金色の眼を男達に向けたまま、きっぱりと、
けれども優しい声音で告げた。
「このまま、帰れ。」
 抵抗一つせずに、反論の言葉一つ零さずに、男達は回れ右をしてそのまま彼らが蹴破った玄関から出て行
く。きっと、レイガルドに言われるがままに、寝床に戻っていくだろう。その姿が消え去り、足音もなくな
った頃、レイガルドが、はっと一息零した。そして崩れるように椅子に座る。同時にキルバーンの身体も自
由を取り戻した。しかし、まだ動けない。いや、何をすればいいのか分からない。ただ、椅子に座って項垂
れたレイガルドを見下ろす。
「何故、」  精霊に愛された証である蒼い髪が、その表情を隠している。それに向かってキルバーンは苦々し気に問う。
「何故、彼らを逃がしたのですか?」
 レイガルドなら彼らを如何様にも出来ただろう。それこそ、小屋に入り込まれた時点でその息の根を止め
る事だってできたはずだ。むしろ、そうすべきだった。でなければ、あの手の連中はまた同じことを繰り返
す。
 キルバーンの言葉に、レイガルドは視線を上げて、
「殺しは嫌いだ。」
 今まで言葉一つ吐き出さなかったのが嘘であるかのように、吐息一つ零すことも躊躇っていたのが嘘であ
るかのように、屹度言い放った。
 その言葉はキルバーンの自由を奪いはしなかった。それはただただ、レイガルド自身の規律のようなもの
であったからだろう。
 しかし言い放った本人は口を手で押さえると、そのまま金色の眼を伏せて、再び黙り込んでしまった。何
か酷く後悔しているような姿に、キルバーンは狼狽えた。強盗達を解き放ったことを後悔しているというわ
けではなさそうだ。
「……レイガルド?」
 疑問を含ませて名を呼ぶと、レイガルドは無言で頭を振った。そして、空いているほうの手で、素早く空
に字を描く。曰く、すまなかった、と。頭の中にするりと入ってきた謝罪に、キルバーンは今度こそ本気で
狼狽えた。
「何を謝っているのですか?」
 謝るようなことを、レイガルドはしたのだろうか。キルバーンを誰かに売り渡すようなことを?キルバー
ンの疑問に対し、レイガルドはちらりと目線を上げると、再び空に字を描く。
 行動の自由を奪ったことを。
 そうして、押さえた口の中で深く息を吐き出した。