意識は激しく浮き沈みしている。激流に放り込まれて、そのまま沈みたいと願うのに、凄まじい激痛がそ
れを許さない。
 ただ、激痛に飛び起きるたびに柔らかなハーブの香りが鼻孔に流れ込み、肺だけではなく全身に仄かな甘
みが広がるのが不思議だった。その甘味は当初は微かにしか感じなかったが、回を重ねるごとにはっきりと
深みを増し、それに伴い死を願うほどの激痛が次第に和らいでいく。
 うつらうつらとした現実と夢と虚ろの狭間で、何が起きたのかと考える。考えるだけの余裕ができるほど
痛みは抑え込まれていた。
 そして次第に分かったのは、苦痛で目覚めるたびに誰かがひっそりと傍に立ち、自分の口に何か冷たい物
を押し当てていることだった。その冷たさの中から流し込まれている、甘さ。とろりと広がるそれは眠気を
誘い、痛みを掻き消してそのまま闇に引き摺り込む。
 薬か、毒か。
 まともに考えれば薬だろう。けれども、まっとうな薬かどうかは信用できない。差し出されたものを容易
く信用するには、これまでの他者からの眼差しが醜く過ぎた。
 或いは、この傍らに立っている者が同胞であったなら、まだ信じる事ができたかもしれない。けれども、
何者であるかを判じるには視界は虚ろに揺れて、睡魔の中へと転がり落ちる。それでも眠りに落ちる間際に、
その誰かが何者なのかを確かめようと眼玉を動かすのだが、未だにその姿を完全に捉えたことはない。
 ただ、ちらりと空色の何かが頬や鼻先を掠めては、するりと去って行くのを見るばかりだった。




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 痛みと眠りの狭間でうつらうつらとしてばかりだった意識が、唐突に眠りを拒んで浮上する。まだどこか
ふわふわとしているが、闇に転がり落ちて途切れてしまうことはない。相変わらず全身は痛いが、しかし呻
いて転がり回るほどではない。
 助かったのか。
 思うと同時に、辺りに視界を巡らせる。これまでならそれだけでも叫ぶほどの痛みがあったはずなのだが、
今はただ近くにあるランプの灯りが眩しいだけだった。そのランプを始点に、ぐるりと辺りを見回す。
 小さな部屋の中だ。木の壁と床に囲まれた、ベッドとすぐ傍にあるテーブルと、椅子だけしかない簡素な
部屋。けれども自分が横たわっているシーツは白く清潔で、かけられた毛布は柔らかい。テーブルの上には
陶器の水差しとコップが置いてある。そこから、あの甘い香りが揺蕩うように流れ出していた。
 そして、部屋全体に広がる微かなハーブの香り。
 それを大きく吸い込んで、はっと気が付いた。剣は、何処に置いただろう。この場所は酷く静かで落ち着
いているが、しかし自分を助けた存在がダークエルフに対して含むところがないとは言い切れない。仮に、
あの傍らにいた存在の献身が本物であったとしても、他に悪意を持った誰かが潜んでいるとも分からないの
だ。その悪意の存在を認めた時に、身を守る術が必要だった。
 全身を痛みに侵されていた時は、あれほどまでに死を望んだくせに、その時には剣も握れなかったくせに。
心の中で自分自身が嗤う。命が助かったと分かった瞬間に惜しむのか、と。
 勿論だ、命は惜しい。
 ダークエルフであっても、それがどれだけ他種族から蔑視され、傷つけられようとも、命は惜しい。誰も
惜しんでくれないのなら、せめて自分だけでも。
 ずるずるとベッドから這い出し、剣を探す。万全の状態ならば、剣などなくともエルフ共に引けは取らな
い。だが、今の状態では人間一人、縊り殺す事も難しい。だから、剣が必要だ。
 這い回り、探す。けれども、狭い部屋の何処にもない。奪われたのか。腹の底を焦がすような焦りが湧き
出す。同時に疑心暗鬼が。自分から剣を奪い、何か企んでいるのではないか、と。焦るがままに立ち上がろ
うとして、何度か転んだ。
 その音に、気が付いたのだろうか。ぱたり、と閉じていた扉が不意に開いた。
 はっとして、ベッドに手を突いて身体を支えようとした状態のまま顔を上げる。広がるハーブの香り。そ
の向こうで、黒のローブを身に纏った細い身体が金色の眼でこちらを見つめていた。静かな眼差しにたじろ
ぐと同時に、その人間――おそらく――の髪色に、ぎょっとした。
 蒼。
 空の色をそのまま落とし込んだかのような、その色。夢現の中で見たのは、それだったのか。しかし、そ
の、髪の色が意味するのは。 
 硬直したこちらのことなどお構いなしに、蒼い髪の男はするりとこちらに近づくと、そっと肩を押してベ
ッドに連れ戻そうとする。まだ寝ていろ、という事なのだろうが、そういうわけにもいかない。この人間の
意図するところが分からない以上、従うわけにはいかなかった。
 抵抗の素振りを見せるダークエルフに、男は小首を傾げて髪がぱさりと揺れる。
「私の、剣、は………。」
 敵意も悪意もない金色の眼に向けて、ようやく絞り出した声は、滑稽なほど掠れていた。けれども確かに
相手には届いており、男は眼を瞬かせた後、一つ頷いて来た時と同じようにするりと身を翻して部屋を出て
行く。そして戻ってきた時には、両手で重そうに一振りの太刀を抱えていた。
 何の躊躇いもなく自分の手元に戻ってきた剣に、拍子抜けしそうになって、考え直した。目の前の蒼い髪
の男にとって、病に臥したダークエルフが剣を持っていたところで、何の驚異にもならないのだ。
 蒼い髪、とはそれだけの意味を――精霊に愛された者のことを示すのだ。




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 剣を抱え込み大人しくなったダークエルフに何を思ったのだろう。蒼い髪の男は、テーブルに置いてあっ
た水差しを手に取り、傍のコップに中の液体を注ぐ。途端に強まる甘い香り。大切そうにコップを両手で持
ち、床に屈みこんで下からそっとそれを差し出す男に、ダークエルフは顔を顰める。けれども邪険に振り払
う必要がないことは、明白だった。意識が現実世界に留まるようになった今なら分かる。そのコップの中に
入っているのは、黒煙症の薬だ。
 エルフからは渡されるのを拒まれ、人間や獣人は使う事がないため持っていなかった薬。それを、何故こ
の男が持っているのかは分からない。そしてそれを自分に差し出す意図も。だが、この薬に別の何かを混ぜ
てこちらを害する必要など、この男にはないのだ。精霊に愛された者ならば、そんな手間をかけずともダー
クエルフ一人などどうとでもできるだろう。
 ならば、今はこれはただの厚意であると思い、飲み干すべきだろう。せめて、この身体がもう少し思うよ
うに動くまでは。
 無言でコップを受け取ったダークエルフに、男は安堵の溜め息を吐いた。
 その、瞬間。
 ダークエルフの心の中に、はっきりと罪悪感が生み出された。同時に、すぐにこの厚意に答えて薬を飲み
干すべきだ、と全身が命じる。
 突き抜けたその思いは一切の間髪なく身体を動かした。コップに口をつけ、飲み干す。しかしその瞬間に、
またしても身体を何かが縛り付けた。屈んでこちらの様子を見ていた男が、息を詰めたのだ。その音に動き
が止まる。いや、正確にはたった今生み出された感情に突き動かされた身体が、感情から切り離されたのだ。
厚意を無碍にしてはならないという感情も霧散する。
 何が起きたのだ、と狼狽え、息を詰めた男を見やれば、男の金色の眼は可哀そうなほどに揺れ動き視線を
逸らされてしまった。そして音もなく立ち上がるとローブの裾を翻して部屋を出て行ってしまう。ハーブの
香りと、コップの中の薬、そして愛用の剣だけが手元に残され、ダークエルフは戸惑い、そしてもう一度自
問する。何が起きたのだ、と。
 唐突に沸き上がった感情とそれを躊躇いなく遂行しようとした自分と。けれどもやはり唐突に立ち止まっ
て霧散した感情は。それらは明らかにあの男の呼吸が原因だ。だが、何故。息一つで、何が。
 そしてそういえば、と思い出す。
 あの男は、たった一言も声を出していない。