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 それは、六月だというのに随分と冷え冷えとした雨の日の事だった。
 森の中は雨粒が生い茂った葉を叩く音で塗り潰され、生命の気配は酷く遠くに押し隠されていた。
 或いは、生きとし生ける物が今は息を潜めるべき時だと、身を縮めていたのかもしれない。
 そんな生命が薄い水滴の膜に覆われて沈んでいる最中に、それらを踏み躙るような足音と呻き声が声高に
森の中を蛇行しながら線を引いていた。
 ばしゃりばしゃりと泥濘に足を取られ、縺れるような足音は乱暴というよりも何かに構う余裕がないのだ
と主張し、それを本来主張するはずの口からは、喉の奥に痰が絡まったような息と、苦痛に歪んだ喘ぎばか
りを吐き出している。
 苦しんでいるのだ。
 もしも此処に誰かがいて、その物音を聞いていたなら、そう判じただろう。けれども雨に押し込められた
生命達は息を潜めるばかりで、何の反応も示さない。
 そして苦しみ抜いている本人も、今此処で誰の助けもないであろう事は、現在感じている苦痛と同じくら
いに痛いほどに分かっていた。
 とうとう、その場に崩れ落ち、泥濘に顔を突っ込んでしまう。その泥の色と、肌の色は良く似ていた。そ
してその肌の色こそが、彼の苦痛を逃れ得ぬものにしている何よりの理由なのだ。
 ダークエルフ。
 黒き肌の、その肌は闇に堕ちた証拠に他ならないのだと、根拠なき主張により弾圧されてきたエルフ。
 未だに根強く残るこの種族への蔑視が、彼への救いの手を断ち切っている。



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 黒煙症と呼ばれる、エルフにしか感染しない病がある。その名の通り、全身に黒い煙のような痣が浮き出
る病だ。
 最初は軽い眩暈が頻発する程度だが、痣が浮き出るとその痣の部分から激しい痛みに襲われるようになる。
そして痣は広がる煙の如く全身に広がり、全身に絶え間なく激痛が走る状態となるのだ。
 これによって、エルフが死ぬことはない。
 エルフとは、武器か、倦み疲れるか、悲しみによってでしか死ぬ事はないのだ。如何に辛い病であっても、
エルフが死を迎える事はない。
 いっそ、死ぬ事ができたなら、どれほど楽だろうか。
 泥の中で激痛に喘ぎ、もがきながら彼は思う。
 いや、ただのエルフであるならば、今頃この病は治っているはずなのだ。黒煙症は、癒せぬ病ではない。
薬によって治すことができるのだ。
 しかし、エルフ特有の病であるということで、人間や獣人達の暮らす村や町ではあまり取り扱ってはいな
い。エルフの村ならば備えとして置いてあるだろう。しかしエルヴンラインに住むエルフ達は未だに閉鎖的
で、ダークエルフに渡す薬などないと嘯いている。アルミナ帝国の亜人狩りは遥か昔、ダークエルフを悪と
称した神族達の城も地に堕ちた。ダークエルフ声高に差別する国など、今や少ない。にも拘わらず、エルフ
達は未だにダークエルフに手を伸ばすことを厭う。
 こうした風潮を嫌い、世界を渡り歩くダークエルフの数は多くない。闇の森の中で、月の精霊の庇護を受
けてひっそりと生きる者がほとんどだ。
 自分も、そうして生きれば良かったのか。後悔に限りなく近い疑念が、彼の中に渦巻く。
 様々な要因が折り重なって、彼の背中に重く圧し掛かり、身体中という身体中から痛みが噴き出している。
 この痛みは、ダークエルフという種族に課せられた、苦痛そのものであるような気がしてきた。
 この苦痛から逃れる方法は、もはや自害しかない。けれども、剣を握ろうと指を動かすだけで、針が爪の
間に突き刺さるかのような痛みが走り抜ける。



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 視界は、既に濁り切っている。延々続く痛みは、思考を切り刻んでいる。それで意識を失っても、死ねな
いエルフの身体が、すぐに目覚めを齎しては再びの絶望を突きつける。
 何処かで誰かが嗤っている気がした。
 神族か、エルフか、それともかつての人間至上主義者か。これこそがダークエルフ、闇の邪な奴らに相応
しい姿だと。もしかしたら、そうやって無理やり黒煙症に罹患させられた者も、いたのかもしれない。
 虚ろな思考は、憎悪と怨嗟に染まる。自分達一族を迫害し続ける連中への憎しみと、こんな定めを背負わ
せた世界に。けれども、もはやどうする事もできない。
 剣は、何処にやってしまっただろうか。
 赤と黒に支配された頭の中で、不意に、水が強く跳ねる音を聞いた。いや、聴覚はほとんど機能していな
い。ただ救いを求めて感じ取っただけだろうか。それとも、ただの幻聴か。
 いや。
 ばしゃばしゃ、と。痛みにのたうつ身体に、より一層の苦痛を与えんばかりに水音は激しく鳴り響く。
 止めろ、止めてくれ。そう言いたかったけれども、零れるのは苦鳴ばかりで。そして声にならない願いを
無視して水音は近づき、そうして遂にはすぐ傍で立ち止まった。
 さっと、泥だらけの顔に影が落ちる。同時に、水の冷たい匂いを掻き消すような、柔らかなハーブの匂い
が。
 誰だ、と思う。この姿を笑いに来たエルフか、それともそれ以外の種族か。いずれにせよ、助かる、とい
う選択肢は彼の中には思い浮かばない。ただ、己を苦しめるだけの選択肢ばかりが増えるだけだ。絶望の数
ばかりが増えるほどに、それほどまでに彼を取り巻く環境は醜かった。
 けれども、どれだけ待っても、身体を痛めつける哄笑も侮蔑の眼差しも、降り注ぎはしなかった。代わり
に、ふわりと影とハーブの香りが強さを増す。
 ひたりと繊細な指先が額に当たった、と思った瞬間、ふつりと意識が途切れた。