よくよく手入れされた家の中を、ウィルは小さな溜め息と共に見回す。
 結婚したばかりの若い夫婦か、引退して余生を静かに過ごす老夫婦が暮らすような小さな家は、エ
リアスには似つかわしくないものであると同時に、その家がきちんと手入れされている事が、ウィル
にとっては驚きだった。
 正直なところ、エリアスはもっとがさつで、家の中のことなど全部後回しにしてしまうような人間
だと思っていた。けれども彼がセーフハウスとして持っているこの家は、使われていない事によって
少しは埃は積もってはいるものの、窓ガラスは綺麗に磨かれ、キッチン、バス・トイレなどの水回り
なども、今すぐにでも使用でき状態になってある。
 ハウスクリーニングを頼んでいるにしても、随分とまめだ。

「おい、とりあえず、どこかに落ち着けよ。」

 ぼんやりと居間のど真ん中で突っ立っているウィルに、エリアスが呆れたような、不機嫌そうな声
で言った。
 その声にはっとして、ウィルはきょろきょろと視線を彷徨わせた後、とりあえずソファに腰かけた。
適当な位置に納まったウィルを見て、エリアスはキッチンを覗き込み、

「言っておくが、この家には缶詰とかの保存食くらいしかねぇからな。だから、食事には期待すなよ。」
「あ、ああ。」

 流石にそこまでを要求するつもりはない。
 けれども、

「いつまで、此処にこうしているつもりなんだい?いや、別に此処にいて困っているというわけじゃ
ないんだが。」

 ウィルは別にこの状態に不安や不満があるわけではない。だが、それでも先の見通しは知っておき
たい。何日間も此処に籠る必要があるのか。それならば、軍のほうに何らかの連絡を入れておかなく
てはならない。
 すると、キッチンからエリアスが顔を覗かせて、

「安心しろよ、俺だってお前と此処にずっと二人きりなんて考えちゃいねぇ。子供を攫ったあの車の
行方――あれの行き先を、今頃、署の連中が必死に捜してるはずだ。それが見つかれば、子供を監禁
している場所だって分かる。後は、そこに突入すればいい。そうなれば、お前の身の上だって安全に
なるだろうよ。」
「はあ………。」

 ウィルはエリアスと二人きりでいる事に異論はないのだが、エリアスはそうではないらしい。
 しかしそれよりも、

「そんな簡単に、行き先は分かるものなのか?」
「刑事は俺一人じゃないんだ。あの周辺を張ってる刑事は大勢いるし、そいつらから逐一報告は入っ
てきてる。見つかるのも、そう遠くない。」
「だが、その、追いかけている君の同僚達は危険じゃないのか?」

 エリアスは危険だと言って、ウィルを自分の家ではなくこちらに連れてきたわけだが、他の刑事は
危険ではないのか。」
 すると、エリアスの形の良い眉が、ひくりと顰められた。それはエリアスの機嫌が加工した印だ。
そしてウィルが身構えるより先に、エリアスが怒りを孕んだ低い声で言い放つ。

「刑事が危険じゃないかって?危険に決まってるだろ。本当なら俺だってあいつらと同じ位置にいな
けりゃならねぇんだ。それを、お前が横槍を入れてきた所為で、お前の安全を確保するために、此処
に来なけりゃならなかったんだろうが。」

 ウィルさえいなければ。
 エリアルの思いは、終始、それに尽きる。ウィルがいなければ、エリアスは刑事としての本分を全
うできたのだ。
 だが、その全うに、エリアス自身から流れ落ちる血の匂いを嗅いだのは、ウィルだけだっただろう
か。
 それでも、エリアスの怒りに満ちた眼差しが正当なものであると理解しているウィルは、すまない、
と呟いて、それに耐えかねたように目を逸らす。するとエリアスもウィルに興味などなくしたかのよ
うにキッチンに引っ込んだ。
 居た堪れない気分になったウィルは、ソファの上で居心地悪そうに身じろぎし、そしてふと棚の上
に置かれたそれに気が付いた。
 埃を綺麗に取り払われたそれは、一つの写真立て。その中には幼い子供と、一人の青年が微笑んで
こちらを見ている。どちらも、見事な銀髪だ。
 思わず立ち上がって、その写真立てを覗き込む。笑みを浮かべる青年は、エリアスによく似ている
が、エリアスよりも少し目が垂れている。青年に抱えられている子供のほうは、恥ずかしいのか青年
の肩口に隠れるように頬を寄せている。

「勝手に触るな。」

 その時、低く、威圧するような声がキッチンから零れ出る。音楽的な美しい響きではあったが、し
かし同時に地鳴りのような剣呑さを孕んでいる声に、ウィルは、

「触っていないよ。」

 とだけ返した。
 だが、エリアスの触るなには、物理的な接触ではなく、エリアスの過去にあった何がしかの柔らか
なものへの接触への拒絶があることに、気が付いた。
 白紙の彼の家族構成と、目の前の写真がゆっくりと重なる。そこから導き出されるのは、エリアス
の臓腑を抉り出すような、悲嘆に満ちた答えでしかない。先程のエリアスの声音が、それを裏付けて
いる。

「……君に、よく似ているけれど、お兄さんかい?」

 これ以上は触れるべきではないのかもしれない。それでも、ウィルはそう問うてみた。まるで、虎
の尾を自ら望んで踏みつけにいくような愚かな行為だと。
 だが、次にウィルの耳朶を打ったのは、思いもかけないエリアスの声だった。

「似ている……?本当に?」

 狼狽えたような声に思わずエリアスを見れば、その声に見合った表情をしているエリアスがそこに
いた。
 普段見る事の出来ないその姿に、ウィルのほうも驚きながらも、頷く。

「ああ……とても、良く。」

 見る者が見れば、エリアス本人だと思うのではないだろうか。ただ、彼がこんなふうに、穏やかに
微笑んでいるところは、ウィルは見た事がないのだが。

「そう、か………。」

 ウィルの答えに、エリアスは何処か呆然としているようだったが、その氷河のような瞳の中には、
些かの嫌悪感もない。ただ、微かに美しい光を宿しているだけだ。
 そしてエリアスの纏う空気が、静かに和らいだ。ウィルに対してひどく攻撃的だったものが、大切
なものを目の前で掲げられでもしたかのように、その矛先が静まったのだ。
 その変貌を見て、ウィルは、これはこんな時に放つべき言葉ではなかったのかもしれない、と微か
に後悔した。
 こんな誰かに命を狙われているような時でもなければ、エリアスの家にやってきてこの写真を見る
事はなかっただろうが、それでも、もっと余裕のある時に放つべき言葉だったのではないだろうか。
そうであったならば、エリアスの中で最も奥深くにある、最も柔らかなものを撫でられたのかもしれ
ない。
 だが、そんな現実はやってこないのだとウィルを嘲笑うかのように、エリアスの持っている無線が
鳴り響いた。