「そういうわけで、申し訳ありませんが。」

 リツセは、商人宿に泊まっている、行商人のイザヤに頭を下げる。リツセは少し前に、イザヤから久寿玉作りを頼まれて
いた。久寿玉作りには、一か月以上かかる。あちこちを旅して物を売る行商人に合わせて、納品できるものではないと言っ
たのだが、久寿玉を作り終えるまでは瀬津郷にいるから、ということで、頼まれてしまった。
 既に紙の選定は終わり、久寿玉の形も考え終わって、今から組み立てる、というところだったのだが、この騒ぎだ。悪い
とは思うが、正直、手が回らない。
 客を蔑ろにするのか、と思われそうだが、ここは瀬津郷だ。ヒルコ大神の加護によって成り立つ土地だ。そのヒルコ大神
との契約が危うい今、客の相手など、していられない。
 リツセの言葉に、イザヤは、ふむ、と頷いた。

「そういうことならば、致し方ありませんね。ええ、かまいませんよ。事が終わってから、改めて依頼いたしましょう。」

 ヒルコ大神を宥めるための久寿玉を、優先させて作らねばならない。客よりも、何よりも。
 そんなリツセの言い分は、瀬津郷の者ならばともかく、他の郷から来た者にしてみれば、到底受け入れがたいもののはず
だ。詰め寄るか、怒るか、そういう反応が普通ではないだろうか。しかし、目の前にいる行商人は、その整った眉一つ動か
さず、あっさりと了承したのだ。まるで、何もかも仔細承知していると言わんばかりに。
 リツセの疑問は、顔に出ていたのだろうか。ふと、イザヤは苦笑した。

「こういう、いわゆる土着の言い伝えを大切にしている土地というのは、何処にでもあるものです。私は行商人ですからね。
傍目に見れば、理不尽に思えることは、いくらでも知っています。そして、それがその土地で生きる者にとっては、大切な
ことであることも。人々の生きる土台となっているものを、無下に扱うような真似はいたしませんよ。」

 そんな、良くできた教本のような返しをされては、リツセも追及する手立てがない。いや、どんな状態であれ、別に追及
するつもりなど、欠片もないのだが。

「しかし、随分と物騒な話だ。人死にがない分、まだ、良いのかもしれませんが。しかし、あなた方の感覚で言うと、今回
のほうが、危険なのでは。何せ、神との契約が失われてしまったのだから。」
「ええ、それはそう、なのですが。」

 リツセは少し首を傾げ、呟く。

「ただ、まだ、それほどではないと思います。」
「ほう……?」
「ええ、おそらくですが。」
「それは、ヒルコ大神の加護があるという?」
「それもありますが、」

 ぽん、とリツセの足に、何かがぶつかる。見下ろさなくても、分かる。そこには水守がいる。だが、その水守よりも遠い
何かが、

「この事態を、どうにかしようとしている何かが、いるような気がして。」

 何かが、この瀬津郷を、練り歩いている。





 リツセが自分の店に戻った時、店の手前で、向かいの家のチョウノが走り出てきた。

「リツセ!」

 ころころと鞠のように雨の中を駆けてくるチョウノは、どこか蒼褪めている。どうした、と声をかければ、黒髪を雨で濡
らしながら、何処か怯えたような表情を見せる。

「あのね、あのね……!」

 何か押し殺しているものを、必死に声に出そうとしている様に、リツセは眉を顰めた。社に納めている久寿玉が、すべて
潰されていたことは、まだ町の者全員に話していない。とりあえず、社から店に帰るまでの間にいる依頼主には、話をして
いるが、向かいのチョウノには、まだ話せてはいない。それとも、誰かから、聞いたのか。だから、不安に思っているのか。
 そう思っていると、チョウノの口からは、まったく違う言葉が零れ落ちた。

「あのね、リツセが出かけてから、ついさっきまで、店の前を何かが、うろうろしていたの!」
「何か……?」

 人ならば、そう言うだろう。男なら男、女なら女、子供なら子供、と。しかしチョウノは、何か、と言った。言っている
チョウノ自身も、もどかしげにしている。

「何か、なの!よく、分からないけど………。でも、確かに何かが、店の前を、何度も何度も、うろついていたの!」

 雨で見えなかったとか、そういうのではない、とチョウノは訴える。ただ、確かに何かがいたのだと。けれども、それは、
チョウノ以外には見えなかった。
 チョウノの家は、小物屋だ。チョウノの家で、チョウノの父親が小物を作り、それをチョウノの母親とチョウノが売って
いる。
 チョウノは、リツセの家の前に異変を感じた時、父親と母親、そして職人達に訴えた。誰かがいる、確かにいる、と。け
れども、チョウノが感じ取った何かは、チョウノ以外には見えなかった。父親と母親、そして職人達が見たのは、雨ばかり。
 誰にも信じてもらえなかった少女は、リツセにも信じてもらえないかもしれないと、微かな不安を帯びながらも、必死で
訴えている。
 きぃ。
 たまが、足元で、鳴いた。
 その声に惹かれて、リツセは自分の店に目をやり、そして、硬直した。店の扉は、来た時と同じく、固く扉を閉ざしてい
る。
 ただ。
 そう、ただ、店の前の地面に、ぺたりと何かが張り付くように、落ちている。それを、たまが突ついて、地面からひっぺ
がす。
 チョウノが、ひゅっと息を飲んだ。
 雨に打たれ、泥で汚れてはいるが、それは、元は白い紙だ。そして、平べったくはなってしまっているが、リツセはそれ
が元はどんな形をしていたのか、知っている。
 それは、リツセが屋号の代わりに店先に吊るしている、六つの久寿玉を糸で連ねたものだ。膠を塗って、雨にも耐えられ
るようにしたそれは、確かに今朝、家を出る前に店先に吊るした。
 それが、今は無残にも、平らになっている。
 その姿は、社の中にあった、久寿玉と同じだ。

「チョウノ。」

 リツセは、チョウノを、彼女の家のほうへと押しやる。

「家に、戻っているんだ。」

 チョウノの言葉は、正しい。確かに、リツセの店の前を、何かが通った。それは、屋号代わりの久寿玉を叩き潰していっ
た。社の中の久寿玉と同じように。きっと、同じ存在が、そうしたのだ。そしてそれは、チョウノは感じ取ることができた
が、他の者には分からない。チョウノでも、何か、としか感じ取れなかった。
 リツセはチョウノから身体を話すと、店の扉に手をかける。鍵は、かかったままだ。  リツセの姿を見て、チョウノはしばらく呆然としていたが、すぐに自分の店のほうへと声を張り上げた。

「お父ちゃん……、お父ちゃん!」

 娘の切羽詰まった声に、チョウノの父親が怪訝な顔を作って、出てくる。

「なんだ、また誰かが来たとか言ってんのか?」

 胡乱な声を上げる父親に、違う!と、チョウノは叫び、地面で濡れ落ちている久寿玉を指差す。父親は、少しばかりの間、
やはり怪訝な顔をしていたが、すぐにそれが何であるのか、気づいたようだ。地面に落とされ、潰された久寿玉に、異様な
ものを感じ取ったのか、鍵を確かめているリツセに向けて、声を張り上げた。

「待て!若衆を呼んでくるから、まだ戸を開けるんじゃねぇ!」
「いえ、大丈夫でしょう。」

 チョウノの父親の慌てふためく声に、リツセは静かに告げる。

「鍵はかかっています。おそらく、あれは、鍵は開けられない」

 社の扉も、吹き飛ばされていた。扉や壁をすり抜けるなんてことは、しないはずだ。
 それでも、とチョウノの父親は、職人達を呼びつける。どうしたなんだと駆けつける男連中の声を尻目に、リツセは静か
に、店の鍵を開け、扉を開く。
 ふわり、と漂う、慣れ親しんだ紙の香り。
 扉の先には、いつもと同じ、店の中が広がっていた。店の中に置いてある久寿玉も、なんら変わりなく、店の床にも、一
つの足跡もなく、静かな空気だけが、そこにあった。
 きぃ。
 後ろで身構える男衆などまるで無視して、たまが再び鳴く。たまは、ふんふんと床の匂いを嗅いでいる。いや、床の匂い
ではない。床に落ちている何かの匂いを、嗅いでいるのだ。リツセは屈んで、たまが匂いを嗅いでいるものを、つまみ上げ
る。
 それは。 
 鈍く光る、金属の欠片だった。