それに気が付いたのは、久寿玉を納める社を、宮家から任されている老夫婦だった。朝一番で、雨の中、社の様子を見に
行って、引き剥がされて、水溜りの中に沈んだ社の戸を見つけたのだ。明らかに、尋常ではない状況に、老夫婦が恐る恐る
社に近づけば、戸を失って中が野ざらしになり、雨が流れ込んだ様子を、目の当たりにしたのだ。
 そこで慌てて、宮家に事態を報告し、宮家から検非違使に社の状態を確認するよう依頼があり、この時に久寿玉師達にも
話が行き、宮家と検非違使、久寿玉師達が、おっとりがたなで社に駆けつけた。
 三者が覗き込んだ社の中は、無残、というよりも、あまりもあっさりとしていた。常に久寿玉が敷き詰められて、足の踏
み場もない社の中だが、今は空っぽだった。
 いや、空っぽだったのではない。床全体に、ぺったり、と色とりどりの何かが張り付いていた。それがなんなのかは、誰
の目から見ても、明白だ。圧し潰されて、真っ平になった久寿玉が、床に張り付いているのだ。
 残されている久寿玉は、一つもない。

「……どういうこった?」

 一番最初に口を開いたのは、老齢の久寿玉師だった。久寿玉を作って五十年、という老爺の歴史を紐解いても、こんなこ
とが起きたことは初めてだったに違いない。目玉を零れ落としそうなくらいに、目を見開いた老爺の隣で、妙齢の女久寿玉
師が、鍵は、と声を上げた。

「鍵は、どうしたんだい?」

 濡れそぼった髪から、ぽたりぽたりと雫を垂らす彼女に、検非違使として現場に駆け付けたナチハが、首を横に振る。

「鍵なんて、意味はなかっただろうな。何せ、扉そのものが、吹き飛んでいる。」
「ああ、そう。そうだったね。」

 ナチハの言葉に、女は心ここにあらずといった態で頷く。彼女だけではない。この場にいる誰もかれもが、放心状態だ。
何せ、ヒルコ大神に納めていた久寿玉が、すべてなくなってしまったのだ。

「水守の悪戯、ってわけじゃあなさそうだね。」
「水守が、こんなきれいに久寿玉を押しつぶすもんか。あいつらは、せいぜい五つか六つ、へこませて終わりだろうよ。」
「ああ、喧嘩をしたとしても、こんなに全部を潰したりは、しないねぇ。」

 ぼそぼそと言い合いながら、これからのことを口にしないのは、どうすれば良いのか、誰にも分からないからだ。何せ、
久寿玉がすべて失われるなんてこと、これまで一度としてなかった。誰も、先のことを考えられない。それでも、とうとう
誰かが、ぽつりと零した。

「あらえびすは、どうすれば良いんだろう。」

 七夕の翌日からは、ヒルコ大神の荒ぶる魂を治めるための、大切な祭りが始まる。祭りというのは、瀬津郷の人々にとっ
ては大切な行事なのだが、その中でもあらえびすは特別だ。
 ヒルコ大神は、偉大なる神だ。親に流し捨てられ、瀬津郷に流れ着いたその時から、慶事を司る神として、あらゆる厄災
から瀬津郷を守ってきた。神が瀬津郷を守ってきたのは、それはひとえに、ヒルコ大神が、己を育てた瀬津郷の人々に恩義
を感じ、瀬津郷の人々もヒルコ大神を手厚く祀ってきたからに、他ならない。その契約の一つの形が、祭りであり、久寿玉
なのだ。契約の一つである久寿玉が失われた場合、何が起こるか分からない。だから、人々はそれを恐れている。ヒルコ大
神が偉大であるが故に、強大であるが故に、恐れているのだ。
 彼の神の荒魂は、慰めを失った時、人との契約が失われた時、どうなるのか。

「今、手持ちの久寿玉を、まずはお納めしましょう。」

 不安に見舞われて言葉を飲み込んだ人々をかき分けるように、涼しげな水のような声が上がった。足元に水守を従えたリ
ツセが、番傘を重そうに持ちながら言ったのだ。

「売り物として、あるいは急に必要になった時のために、置いてある久寿玉を、みんな持っているはずです。それを、ヒル
コ様に、お納めしましょう。」

 既に一度、ヒルコ大神に納め、その加護を受けて売り物として下げ渡されたものだ。それをもう一度納め直すなど、無礼
かもしれないが。

「こんな時です。ヒルコ様も、分かってくださるでしょう。」

 ヒルコ大神だけではない。あらえびすの為の久寿玉を頼んでいた、瀬津郷の住人全員が、理解してくれるはずだ。ヒルコ
大神の荒魂を慰めることができないなんて、そんなことは、あってはならない。

「おう、そうしよう。」

 リツセの提案に、一番最初に乗っかったのは、やはりあの老久寿玉師だった。

「とにかく、ヒルコ様を寂しがらせちゃあいけねぇ。あるだけの久寿玉を、とりあえずはお納めしようや。んでもって、急
いで新しい久寿玉を作ろうや。」

 久寿玉を頼んでくれてた奴らには、悪いがよ。
 老爺の言葉に、久寿玉師達は小さく頷く。どうせ、あらえびす用に依頼されていた久寿玉は、もう間に合わない。それな
らば、とにかくヒルコ大神に納める分だけでも、作らなくてはならない。

「でも、文句を言われないだろうか。」

 不安げに呟いたのは、まだ久寿玉師になりたての、子供の色の抜けない若者だった。それを、周りの久寿玉師が一笑する。

「ヒルコ様よりも自分を優先させろって言うかもしれねぇってか?そんな奴はいねぇよ。いたとしたらそいつは瀬津郷の住
人じゃねぇし、瀬津郷の住人だったなら、ぶん殴っちまえ。」

 さあ、ぐずぐずしてられねぇ。
 老爺の言葉を合図に、久寿玉師達は散っていった。




 そして、リショウは、壊された社の前にいる。雨が篠つく中、番傘をさしてやってきた。晴れていたのなら、状況を見よ
うと野次馬達がひっきりなしに訪れていたのだろうが、この雨では誰もやってこようとはしない。検非違使達もおらず、こ
れ以上社の中に雨が入らないように、壊れた戸が入口を塞ぐように立てかけてあるだけだ。ずいぶんと、寂しい。
 ヒルコ大神に寂しい思いをさせないために、とリツセは言った。
 久寿玉は、そのためにあるのだ、と。
 ヒルコ大神の加護を受けるために、そして、そのヒルコ大神の心を慰めるために。
 なるほど、確かに、こうやって請われた社を見ると、確かに寂しい、と神でも思うのかもしれない。もっとも、ヒルコ大
神そのものを祀っているのは、宮家の住まいも隣接している、あの本殿であって、この社はあくまでも久寿玉を納めるため
のものだ。この場所に、常にヒルコ大神がいる、というわけではないだろうが。
 それでも。
 寂しい、と思うものなのか。
 きっと、そういうものなのだろう。
 ぴしゃり、と足元にいる巨大な水守が、尻尾で水を叩いた。いつもリショウについて来る、三匹の小さな水守は、今日は
留守番だ。代わりに、原庵の家に住み着いている、巨大な水守――むにが一緒についてきた。何か、思うところでもあるの
だろうか。普段はほとんど表に出てこない水守が動くと、少し勘ぐってしまう。しかし、水守はこちらのことを理解してい
る節があるが、こちらは水守のことを、とんと理解できない。なので、水守にこれ以上かまうことはせず、周囲の様子をリ
ショウはゆっくりと窺い始めた。
 ぱたぱたと、水たまりに大小の輪を作っている雫は、昨夜、この場で何があったのかを覆い隠してしまっている。足跡一
つ残っておらず、ただただ水溜りが波紋をつくるばかりだ。
 社の入り口に立てかけられた、壊れた戸に近づいてみた。
 隙間から、そっと中を覗き込めば、なんともまあ、あっさりとした空間が広がっていた。いや、あっさりと言ってしまう
のもどうか。何せ、色とりどりの紙が、床にへばりついているのだから。
 壊れた戸に、体を密着させて中を覗いていると、ぺちゃり、と音がした。足元を見下ろせば、水溜りの中に、何か妙な形
状をしたものが落ちている。どうやら、戸に引っかかっていたものが落ちたらしい。むにが、それに鼻先を押し当て、匂い
を嗅いでいる。
 なんだこれは、と訝しみながら拾い上げようとして、リショウはぎょっとした。それは、形がとんでもなく変更していて
恐らくとしか言えないが、社の戸に掛けられていた鍵の一部だった。
 扉が吹き飛んでいて、鍵の意味などなかった、と聞いているが、これは。
 鍵は、ぐんにゃりと折れ曲がるように変形し、曲がった部分が伸びて、途中で切れている。
 つまり。
 この社を襲った何者かは、扉を吹き飛ばしたと言うよりも、思い切り引き剥がしたのではないだろうか。力任せに引っ張
り、鍵は溶かした飴のように引っ張られ、そして途中で切れてしまった。
 だとしたら。
 そんなことができる奴が、この世にいるのか。
 いたとしたら、それは人間なのか。
 思いつくと同時に、ざっと雨脚が強まった。瀬津郷は、ヒルコ大神が坐す土地だ。それ故に厄災からは守られ、しかし同
時に、あの世とこの世の境が薄くもなる。呪いも、人ならざる者も、確かに存在してしまうのだ。
 むにの鼻先が、変形した鍵の一部を、ひっくり返した。ぺしゃり、と水飛沫が跳ねる。その下に、鈍く光るものが落ちて
いた。鍵に引っかかっていて、誰もその存在に気づかなかったのか。
 しかし、それを拾い上げて、リショウはますます顔を顰めた。鉄が大きく弧を描いているそれは、実際に馬につけるにし
ては小さいが、蹄鉄のように見えた。