梅雨が明けた、と思ったら、再び雨が続く日々が続いている。瀬津郷の、というか葦原中国の夏は、異様にじっとりとし
ていて、なんとも嫌になる。雨が降ると、じっとり感は更に増し、もう何もする気が起きない。リショウは自分にカビが生
えて、最終的には茸か何かになってしまうんじゃないのかと思いながらも、町医者の原庵に言われたとおりに、薬を小分け
にしていた。
 原庵が言うには、この時期は体調を崩す者が多くなるのだという。確かに多くなりそうな季節ではあるが。しかし、袋に
小分けにしている薬も、なんだか湿気ているような気がするのは、果たして本当に気のせいなのだろうか。
 リショウが薬包紙と匙と睨めっこしながら、そんなことを思っていると、視界の隅で小さい影が跳ねるように転がり込ん
できた。

「先生、竈のお掃除、終わりました。」

 ころころとした声で原庵に告げたのは、サキという名の少女だ。少し前に、リショウの部下のガクリョウが、瀬津郷にや
ってくる途中、畦道で拾ってきたのだ。
 その身には、狗神とかいう呪いが住み着いていて、なんとも悍ましい事件を引き起こしたのだが、狗神は既にサキの身体
からは追い払われ、サキはただの少女になった。その少女を雑用として雇ったのが、原庵だ。
 町医者である原庵は、とにかく忙しい。貧乏人も大商人も、分け隔てなく診る原庵は誰からも信頼され、それこそ医者の
不養生という言葉が似あうほどなのだ。リショウがやってくるまでは、薬を皆に配るのも原庵がやっていたというのだから、
恐れ入る。
 サキを小間使いとして雇ったのも、サキの身の上に同情したというのが一つ、もう一つは人手が欲しかったからに他なら
ない。原庵の診療所では、他に女中が二人いるが、彼女達は患者の世話で手がいっぱいだ。だから、雑多なことを引き受け
る雑用が、もう一人欲しかったのだろう。

「ああ、ご苦労さん。」

 竈を掃除し終えたサキに、原庵が労わりの言葉をかける。まだ十にもなっていないらしいサキは、しかしなかなか呑み込
みが早く、今では診療所の掃除やら食事の後片付けやらを、一手に引き受けている。二、三年もすれば、診療所の雑務すべ
てを、サキが切り盛りするようになるかもしれない。
 
「朝の分のお洗濯も、終わりました。ただ、この雨なんで、明日までは乾かないかもしれません。」
「そりゃあ仕方がない。」

 原庵は首を横に振りながら答えた。

「何せこの雨だからね。こればっかりは、わたしらにはどうしようもない。ヒルコ様におすがりするしかないだろう。」

 瀬津郷に鎮座する神の名前を、原庵は持ち出す。確かに、この雨が本当に続くのなら、この郷の人々はヒルコ大神に頼み
込むのだろう。 
 ただ、リショウとしては、北のほうでは既に長雨が続いているという話を思い出し、なんとも胸騒ぎがしているのだ。
 今、瀬津郷は表面上は何もないが、実は水面下では役所からの給付金が減っているという事態が起きている。瀬津郷は税
を重く取り立てる代わりに、医者や学舎を無料で開いている。医者や学者への給金は、取り立てた税で賄っているという仕
組みだ。
 また、薬などの値段が高騰しないように、これも税金を使って薬の原料の仕入れ価格を、ある程度操作しているのだ。
 が。
 今、原庵への給金も減り続けている。大事にはなっていないが、長期的に見れば危険だ。そして、北部で続いているとい
う長雨。この長雨で薬の原料がやられてしまったら、果たしてこれまで通りに、薬の価格は一定を保てるだろうか。
 瀬津郷にも降りかかっている長雨は、決して安穏として良いものではないのではないだろうか。
 ふつふつと考え始めたリショウの耳に、原庵の声が届く。

「しかしこの雨は、七夕までには止みそうにないねぇ。」
「七夕?この国にも、七夕があるのか?」

 リショウは、思わず薬から顔を上げて、原庵に問いかけた。原庵は笑いながら頷く。

「ああ、あるよ。牽牛と織女が、年に一回だけ出会う祝い事がね。わたしも、この国に初めて来た時は、びっくりしたもの
だが、昔からこの国は大陸と交流があるから、この国にも伝わっていてもおかしくはないね。」

 牽牛と織女が年に一回だけの逢瀬を迎えるというのは、大陸の伝説だ。大陸から渡ってきたリショウと原庵は、もちろん
その伝説を知っている。ただ、この国にもそれが伝わっているとは思いもしなかったのだが。

「たなばたって、なんですか?」

 サキが首を傾げている。
 サキの言葉からしか知らないが、サキはこれまでずっと、山の奥にある、老人三人と子供四人という小さな集落で暮らし
ていた。サキはその集落のことしか知らず、そしてその集落では、サキには外界のことを教えるようなことはなかったのだ
ろう。この国で当然のように行われている祭りのことなど、知るはずもない。
 不思議そうな顔をするサキを原庵は手招きして、ゆっくりと牽牛と織女の伝説を話し始めた。それはリショウも良く知る
内容だったので、リショウは適当に聞き流していたのだが、

「でも、まあ、あれだねぇ。この郷は、七夕よりも、その後にある、あらえびすのほうが大切だから。」
「あらえびす?」

 サキは当然ながら、リショウも知らない。

「ああ。ヒルコ様の荒魂をお鎮めするお祭りだね。」

 また祭りである。常々思っているのだが、この郷は何らかの祭りをずっとしている気がする。そして、その祭りには、当
然ながらヒルコ大神が関係している。
 しかし、荒魂とは。

「ヒルコ大神は、紛れもなく福の神だけれども、同時に荒神でもあるからね。」

 その荒ぶる魂を鎮めるための祭りなのだ。

「そのために、久寿玉も準備するのか?」
「もちろんだよ。というか、この祭りの久寿玉が一番大切なんじゃないかな。」

 親神に捨てられ、流された、不遇の神を慰める。その心が荒れたなら、偉大なる加護は瞬く間に厄災に変わるだろう。故
に瀬津郷の人々は、ヒルコ大神を畏れ、敬い、信じるのだ。

「うちも、久寿玉を頼んでいるよ。そろそろ届く頃だろうね。」

 原庵が久寿玉を頼んだというのなら、頼まれた久寿玉師は間違いなくリツセだろう。遠い過去で、リショウと血脈を同じ
くした存在だ。一年中、ヒルコ大神の心を慰めるための久寿玉を作っている。
 サキは既に、ヒルコ大神と久寿玉のことを教えられている。なので、神妙な顔をして原庵の言葉を聞いていた。
 その時、診療所の扉が、がらりと音を立てて開いた。急に具合が悪くなる者が、最近は多い。今回もそれかと思ったのだ
が、板戸を開けて現れたのは、たった今までリショウが思っていたリツセだった。

「なんだ?具合でも悪くなったのか?」

 いつもよりも随分と暗い顔をしたリツセに問いかけると、リツセは首を横に振る。その足元には、リツセの家に住み着い
ている水守が、むっつりとした表情でこちらを見ていた。
 リツセはリショウへの相手もそこそこに、原庵に向き直る。

「原庵先生。非常に申し訳ないことをしてしまいました。」

 頭を下げたリツセに、原庵は目を丸くした。どうしたんだい、と問う老医者に、リツセは顔を曇らせたまま答えた。

「依頼されていた久寿玉なんですが、駄目になってしまいました。」
「駄目になった?」

 リショウはこの郷に来てまだ日も浅いが、そんな話は聞いたことがない。久寿玉は依頼主に渡される前に、一度、ヒルコ
大神の社に奉納されるが、その際に手形が付いたり、へこんだりすることがある。しかしこれはヒルコ大神が触れた、とい
うことで縁起が良いとされていたはず。つまり、駄目になるということは、それ以外の場合なのだが。

「壊されていました。」

 リツセが、理由を言った。

「私の作った久寿玉だけではありません。社に納められていた久寿玉が、すべて。」

 ヒルコ様を慰める久寿玉が、今年は一つもありません。