うぞ、うぞ、と何かが西日の逆光を浴びながら、歩いている。
 素早い動きではない。むしろ、鈍い。しかし、それが道を行くのに誰も気が付かない。街道のど真ん中を通っているのに、
誰もその姿には気づかない。
 夕暮れ時だ。皆、先を急いでいる。他の者に気を取られている暇などない。それは確かにそうなのだが、しかし、普通な
ら目を逸らせぬだけの異様さを、それは持っている。
 逆光によって黒々としたそのものの顔は、見えない。ただ、影の形からして、明らかに異形だった。まず、何よりも背丈
が大人の二倍近くある。そして、ずっしりとした体つきは、胴体は確かに人の形をしているのだが、手足の形は獣のように
捻じれており、指らしきものが見当たらない。足跡――地面に足を下すと、一瞬だけ黒々とした足跡が地面にへばりつき、
しかしすぐに消えてしまう――は、馬や牛の蹄のようであった。その広い背中には、何か細いものを――その巨躯からする
と、かなり小さく細いものを、背負っている。
 それが、背を折り曲げるような格好で、夕暮れ時の街道を歩いている。伸びる影は長く、西日がその日最後の光を届けて
いることを示している。けれど、その巨大な姿を曝せぬほどに、光がないわけではない。それともあまりにも長く伸びた、
それ自身の陰が、その姿を隠してしまったとでもいうのだろうか。誰も、それには気が付かない。まるでそこには何一つ存
在しないかのように、街道を行く人はそれを見ない。
 ぶも、ぶも、と、それは時折鼻を鳴らす。
 人が通り過ぎるたびに、ぶも、ぶもと、鳴く。悔しそうに、忌々しそうに。苛立ちが篭ったその鼻息にも、通り過ぎる旅
人達は誰も気づかない。
 やがて、人通りも途絶え、最後の旅人が異形の横を通り過ぎていった。周りには、誰もいない。
 と、西日が途切れた。完全に、山裾に隠れてしまったのだ。
 その瞬間、それは、にたりと笑った。日差しが途絶え、その顔はやはり見えない。けれども確かににたりと笑った。ぽた
り、と生臭い臭いが一滴、地面に垂れる。
 ぐるりと異形は振り返った。そして、たった今横を通り過ぎたばかりの旅人に、長い腕を伸ばすなり、旅人の脳天に蹄を
振り下ろした。
 がぼり、と。
 鈍い音がした。旅人は一言も発しないまま、地面に崩れ落ちた。ぶもっぶもっと、異形の笑い声が、夜と共に広がった。






 むくりと瀬津郷の商人宿で、野良犬のような臭いが立ち上った。三白眼がぎょろりと闇を睨みつけ、まさしく犬のように
鼻をひくひくと動かす。

「………イナ、どうした。」

 布団を敷いて、そこで眠っていたイザヤが、隣で眠っていたはずの男の気配が変わったことに気が付き、目を覚ます。イ
ザヤの声に、ぐる、とイナは喉の奥で唸った。

「何か、近づいて来る。」

 毛を逆立て、喉の奥で威嚇の唸り声を上げながら、その唸り声の隙間で、言葉を零した。イナが零した言葉に、イザヤも
とうとう身を起こした。
 イザヤには、イナが何にそれほどまでに警戒しているのか分からない。しかし、イナのこういった勘は、何よりも良く当
たるのだ。都で大勢の呪い師や占い師、陰陽師を見てきたが、正直なところその手の連中の言い分よりも、イナのほうが遥
かに頼りになる。呪い物を生業にしている輩というのは、どういうわけだか妙に回りくどいのだ。それでこっちを煙に巻こ
うとしているんだろう、と言いたくなるくらいに。それに対して、イナは分かりやすい。妙なものが近づいている、危険だ、
殺していいか。その分かりやすさが、イザヤには気楽だ。

「追手か?」
「いや………どうだか、わからねぇ。ただ、」

 人じゃあねぇな。
 イナは呟いた。

「お前と同じでもないのか?」
「違うな。全然、違う。俺とは、根っこの部分からして違う。俺は犬との混ざりもので、あっちも、たぶん臭いからして獣
と混ざっているんだろうけど。」

 イナは、そこで少し言葉を区切る。

「混ざってる土台が、全然、違う。そもそも、混ざり、と言って良いのかも分からねぇ混ざり方だ。駄目だ。俺とは、格が
違う。イザヤ、あれと関わるのは、まずい。俺にはどうしようもねぇ奴だ。」
「それほどなのか?やはり、叔父上の手の者が仕込んだんじゃないのか。」

 あの叔父がそんな呪いめいた物事に詳しいとは思えないが、詳しい連中を集めることくらいはできるだろう。その連中の
中に、イナでさえ手が出せない呪い物を扱える者がいるかもしれない。陰陽府にいる博士達の中に、叔父に手を貸す輩がい
ないとも限らないのだ。
 分からねぇ、とイナがもう一度呟く。

「ただ、奴が今いる方角は、確かに都のほうだ。」
「………そうか。」
「都から来たって決まったわけじゃねぇけどな。そいつに近づいて臭いを嗅げば、何処から来たのかくらいは分かるかもし
れねぇが。」
「止せ。」

 今にも外に向かって駆け出しそうなイナを、イザヤは手を伸ばして止める。腰を浮かしかけていたイナは、三白眼をちら
りとイザヤに向けた。その目に向かって、イザヤは首を横に振る。

「近づいて、それで向こうがお前に気づかないとも限らないだろう。下手に動くのは得策ではない。」

 ちっとイナは舌打ちをした。しかし、イザヤの言葉に歯向かうようなことはしない。

「わかったよ。でも、あれが通り過ぎるまでは、お前は俺から離れるなよ。」
「俺には、お前の言う、あれというのが見えるとは思えないんだが。」
「だから、俺がいるんだよ。俺には、多分見える。見えなくても臭いで分かる。眼で見るよりも、そっちのほうが近づいた
らすぐに分かる。」

 俺は、野良犬だからな。