「昨日と一昨日の夜は何をしていた?」

 仲間に仕事をさせておいて自分だけ茶を飲むわけにもいかないのだろう。ナチハはそれ以上は薔薇
茶に口をつけずに、イザヤに聞く。

「宿におりましたよ。私も、イナも。」

 イザヤが逗留先にしている宿屋は、リショウも横目で見た事がある格式の高い旅籠だった。そのよ
うな宿ならば、夜通し用心棒が張って抜け出す事も難しいだろう。しかし、とリショウはイザヤとそ
の足元に野良犬のように蹲るイナを見比べる。どうしてもこの二人からは得体のしれない何かが漂っ
てくる。用心棒の一人や二人くらい、適当に煙に巻いてしまうのではないか、と思わせる何かがある
のだ。

「旅籠の主人に聞いてくだされば、私共の動向は分かるかと。」
「ああ、後でそうするよ。」

 ナチハはぞんざいな声で答える。ナチハも、この二人からは何とも言えない気配を感じているのだ
ろう。しかしそれが何かわからず歯噛みしているのだ。
 こんな二人について――いやイザヤについてだけか――リツセは何かを察知しているようだったが、
だからと言ってそれを鵜呑みにして警戒を解くわけにもいくまい。

「ところでさっきの刀だが、何故そんなものを持っているんだ?」
「悪ぃか。」

 ナチハの問いかけに、イナが唸るように答えた。三白眼が相手を威嚇するように睨み付ける。イナ
のその態度に、イザヤが溜め息を吐き軽く小突く。

「申し訳ありません、不調法者で。」

 イザヤに小突かれて不服そうな顔のまま、イナは顔を背けた。
 黙り込んだイナに変わって、イザヤが答えた。

「イナは孤児でしてね。私と出会った時、親の顔も自分の名前も知らないという有様でした。唯一持
っていたのがこの刀でしてね。それで、まあ、親が何者か、死んでいるか生きているかも分かりませ
んが、形見として持っていさせているのです。」

 イナはずっと顔を背けている。ちらりと見えるこめかみから頬までの線が、微かにだが苦々し気に
歪んでいる。彼にとって、過去とは決別したいものでしかないのではないか。そんな色が滲み出てい
る。
 あの刀がなんであれ、あれでは人を斬ることはできない。逆に折れてしまうだろう。
 ただ、気になるのは、使い物にならないあの刀に抜き癖がついていたことだ。そしてその抜き癖を
イナという男はしっかりと理解して抜いていた。
 何度も何度も刀を鞘から抜いたのか。錆びつかせたままのあの刀を。
 ぼんやりと薔薇茶の向こう側にイナを見るリショウの隣で、そうか、とナチハは頷き薔薇茶を一気
に煽る。そんな風に飲むものではないとは思ったが、口にはしない。そのまま立ち去りそうな雰囲気
のナチハに、リショウは声を上げた。

「そういや、あの子供には話を聞けたのか。」

 原庵の家で養生しているあの女児。随分と回復力は早いもので、もう布団から起き上がって歩ける
ほどにはなっている。それだけならば体力があるで済むのだが、奇妙なのは足の裏にできた傷も、塞
がりつつあることだ。
 見た目は女児だが、何か薄ら寒いもののあるあの子供に、ナチハは話を聞いたのだろうか。
 すると、ナチハは小さく頷いた。

「聞いた。しかし何とも言えない話だ。老人と子供しかいない集落で、縛り上げた子供に首から上以
外は土に埋まった犬を見せるとは。」

 夢でも見ていたんじゃないか。そう呟いたナチハの言葉の後に続けて、イザヤがぽつりと、

「狗神ですね。」

 と言った。何、とリショウとナチハはイザヤを見る。二人の視線にもたじろがず、干された杯を片
付けながら説明する。

「そういう……何といいますか、呪いの一つです。この辺りではなく粟の郷のほうで有名な蠱毒なん
ですが。犬の首から下を土に埋め、そのまま犬を餓えさせることで呪いとするそうですよ。」

 粟の郷は海の向こうにある島々の事だ。リツセの母もその郷出身だ。

「餓える犬を痛めつけることで更に呪いを深くすることもできるという……呪いの中でも業の深いも
のですね。」
「……良く知っているな。」
「こういう仕事をしていると、そういう話も耳に入ってきます。それに私が知っているのはその程度。
詳しい術のやり方までは分かりません。ただ、先程の話と狗神の話がよく似ている、そう思ったもの
ですから、こうして口を挟ませていただきました。」

 イザヤの態度はあくまで変わらない。この男を突き崩すのは、並大抵のことではないだろう。現状
での言及は、無意味だ。
 ナチハもそう判断したのだろう。邪魔をした、と一礼して去って行く。リショウはイザヤの屋台を
今一度見回し、袋に小分けされた色とりどりの金平糖を見つけた。

「これ、くれ。」
「ありがとうございます。」

 手渡された金平糖の袋を持って、屋台を離れる。すると今まで何処にいっていたのか、三匹の水守
がささっと現れた。リショウの身体をよじ登り、右手にある金平糖の袋ににじり寄る。甘味にそれほ
どまでに執着するのなら、何故一緒にこなかったのか。あの店主ならば金平糖くらいくれたかもしれ
ないのに。
 返事など当然しないまま、水守達は腕にぶら下がって金平糖を要求している。





 リショウとナチハを見送ったイザヤに、足元から不機嫌そうな唸り声が聞こえた。見下ろすまでも
ない。イナが不服を訴えているのだ。

「ほらみろ。いらん腹を突かれてるじゃねぇか。」
「何、大したことじゃない。」

 杯をさらりと洗い、元の位置に戻す。今日も暑い。放っておけば半時もせぬうちに乾くだろう。
 
「しかしあれだ。お前は流石だな。水守が一匹も近づかない。動物に嫌われるのは知っていたが、水
守もか。」
「うるせぇ。あんなトカゲにひっつかれても困るだろ。」
「まあな。私も、好かれはしないだろう。」

 神の名代とまれ言われる水守が何かを嫌うには理由がある。イザヤにもイナにも、水守に懐かれな
い理由に思い当たる節はあるのだ。

「それよりも狗神か。此処にもそれをしようとする輩がいたか。」
「……あいつらじゃねぇよな。」
「話を聞く限りでは違うな。粟の郷から出てきた連中が、ただ昔のやり方で自分達の欲を満たそうと
しているだけだろう。子供まで使って、業の深い事だ。」

 狗神だけではなく、子供まで蠱毒にしてしまうつもりだったのか。

「それよりも、イナ。お前は気づかなかったのか?狗神は、お前にも近いものだろう?この郷にいる
ことに、気づかなかったか?」
「……お前に近づかなけりゃ、俺はどうだっていいや。」

 ふん、と鼻を鳴らしてイナは俯く。

「それに、俺はずっと見られてる。下手には動けねぇよ。お前が襲われたら話は別だけどよ。」

 ぼそぼそと呟き、そして今度こそイナは押し黙った。