別当スイトが何者かに襲われたという話は、瞬く間に瀬津郷に広がった。しかも、どうやらそれが
巨大な犬であるらしいとも。
 普段なら、別当殿の見間違いではないかと一笑に付するところだが、如何せん昨日の今日である。
凄惨な事件が起きた後であるし、何よりスイトの指し示したところには、粘度の高い液体が地面に水
溜りを作っていた。犬の涎だ、というスイトの言葉に頷いてしまうほどに、その液体からは生臭い臭
いが漂っていた。
 しかし、かくも巨大な犬が存在するものだろうか。スイトの言葉通りに受け止めるなら、その犬は
牛よりも大きかったことになる。スイトもそのあたりの大きさは曖昧だったと認めているが、しかし
流された涎の量を見れば、スイトが見間違ったとも言い難い。

「眼には、はっきりとは見えなかった。」

 スイトは、こうも言った。実際スイトが見たのは道に広がる闇である。犬だ、と見当をつけたのは、
その姿の影が塀に落ちていたからである。

「私の見間違いならば良いが、何せ水守も唸っていたからな。」

 のっそりとスイトの足元で這いつくばっているうねは、犬を威嚇した時の気勢は何処へやら、ふあ、
と大欠伸をしていた。
 別当殿だけならまだしも、神の化身たる水守までもが何かに警戒していたとなれば話は別。その巨
大な犬とやらはやはりホロ爺や野良犬を噛み千切ったものと同じかもしれないし、そしてそれは物の
怪の類であるかもしれない。
 不安がって、物の怪相手ならばやはりヒルコ様に頼らねばと久寿玉を求める人々を尻目に、検非違
使達は今日も今日とて凶器を探し回る。郷を守る検非違使が、そうそう簡単に犯人は物の怪という結
論に至れるわけもないのだ。
 ぞろぞろと凶器となりえるものがないかを、一軒一軒回って調べる検非違使を横目に、リショウは
三匹の水守を、それぞれ頭と両肩に一匹ずつ乗せ、大通りを歩く。目的は、リツセに久寿玉を頼んだ
という行商人だ。リツセは特段不信感は抱いていないようだったが――その割には妙に険しい顔で仕
事に臨んでいたが――たまのほうはやたらと不機嫌だった。だからと言うわけではないが、その行商
人とやらがどういう面構えなのかは見ておこうかと思うのだ。行商人が、作るのに一か月以上かかる
久寿玉を作ってくれというのも気にかかる。
 そうこうしていると、通りの隅のほうですらりと上背のある検非違使の姿を見つけた。ナチハだ。
ナチハが、漆塗りという屋台にしては豪勢な屋台の前で、屋台の店主と何事かはなしているのだ。屋
台の屋根からはガラス細工が幾つもぶら下がり、側面には色とりどりの風車が回っている。
 ナチハの対応をしているのは、若い男だ黒々とした髪に、端正な顔立ち。検非違使達に囲まれても
柔和に笑っている。男の足元には、随分と眼付きの悪いやせ細った男が蹲っていた。その男を見るや、
三匹の水守がさっと身を翻して何処かに行ってしまった。

「あ、おい!」

 止める間もなく頭やら肩から飛び降りた三匹は、もう何処にもいない。なんなんだ、と思っている
リショウに、先程のリショウの声が聞こえたのだろう、ナチハが手を上げて呼ぶ。

「何をしているんだ。」

 呆れたナチハの声に、いや別にと頭を掻きながら視線をあちこちに向けるが、やはり水守は何処に
もいない。何処にもいないのならば仕方ない、とリショウはナチハに向き直る。

「そっちこそ何を?」
「凶器を探している。別当殿は犬を見たと言っていたが、それだけでホロ爺を殺したのが犬だという
事にはならない。」

 こうやって行商人にも得物を見せるように言っているのだ、と言う。行商人、という言葉にリショ
ウは改めて男の端正な顔を見る。リショウは見た事がない顔だ。

「……あんた、もしかして久寿玉師に久寿玉を頼まなかったか?」
「おや、どうしてご存知で?」
「あんたが久寿玉を頼んだ久寿玉師と知り合いなだけだ。」
「そうでしたか。あの方は腕が良いと評判でしたので、それで頼んだのですが。」
「久寿玉づくりには時間がかかるのに?」
「良いものを作るには時間がかかるものです。この郷にはしばらく滞在するつもりですし。」

 こちらの言いたいことを言わずして察し、やんわりと説明される。言いようは、理解できるが。

「そんな事よりも、こちらの仕事を優先させたいんだが。」

 ナチハの言葉に、そうでしたね、と行商人は頷く。

「私共の手持ちの武器、と言われましても。積み荷を解いて見ていただいても構わないのですが、武
器と呼べるものは、このイナの持つ刀しかないのですよ。」

 行商人の涼やかな目線が足元に蹲っていた痩せた男に落ちる。イナ、と呼ばれて男はぴくりと反応
し、顔を上げる。男の腰には、確かに刀が差してあったが、これは。
 リショウはナチハの顔を見る。ナチハも顔を顰める。
 イナの持つ刀は、あちこちが剥げた鞘を見る限り、酷く雑な扱いを受けている事が分かる。

「こんなんを、見たいのか。」

 ぼそぼそとイナが喋る。聞き取りづらいその声に行商人は首を竦め、見せて差し上げなさい、と命
じる。その言葉にイナは溜め息を吐き、塗装の剥げかけた刀をナチハに差し出す。受け取ったナチハ
はそれを手にし、

「………抜けない?」

 鞘と柄に手を添え、引き抜こうとしたが、何かに引っかかって抜けなかった。抜き癖が付いている
のか、とリショウは思う。イナという男がずっと使っていたら、そうなるだろう。
 どうにか引き抜こうとするナチハに、イナがちっと舌打ちした。

「やめろ、折れる。」

 そして刀を奪い返すや、一気に引き抜いた。何の躊躇いもなく抜き放たれた刃に検非違使達は咄嗟
に身構え、しかしその一拍後、ぎょっと眼を剥いた。
 抜き放たれたそれは、茶色く濁り錆び切って、刃こぼれまでしていたのだ。これでは、人を斬るは
おろか、少しの事で折れるだろう。研ぎに出したところでおそらく元には戻らない。

「もういいだろ。」

 イナは返事も待たずに刀をしまうと、再び行商人の足元に蹲る。手負いの獣のようなその姿を一瞥
し、行商人はナチハに向き直る。

「と言った具合に、私共が持っているものはこれくらいのものでして………あとは、どうします?積
み荷を解かれますか?」
「いや……一応一通りは見たからな。人を斬り落とせるような大きさのものがないことは、確認済み
だ。」
「そうですか。」
「だが、あと少し話を聞かせてほしい。」
「それは勿論。よろしければ、お茶でも入れましょう。」

 後は一人で大丈夫だ、と他の検非違使達を追い払い、ナチハは溜め息を吐く。そのナチハの前に、
真っ赤な液体が差し出される。ついでにリショウの前にも。
 透明だが奇妙なほど赤い液体にナチハが怪訝な顔をしている横で、リショウはひくりと鼻を蠢かせ、

「薔薇茶か……。」
「良くご存知ですね。」
「大陸では偶に見かけた。そう言えばこっちに来てからは見た事がないな。」

 毒ではない、とリショウが薔薇茶に手を付けるのを見て、ナチハも口をつける。が、少し飲んで微
妙な顔をした。

「……なんというか、妙な味だな。」
「まあ、飲み慣れてないとそうだろうな。俺だってそう何度も飲んだことがあるわけじゃないし。」

 基本的に、王族貴族の飲み物だ。庶民が口にするものではないのだが、それを平然と出すあたり、
この行商人は普通ではないと思うのだが。そしてこんな代物を取り扱っているにも関わらず、護衛は
足元に蹲っているイナ一人。そもそもイナも護衛と言って良いのか。

「あんたは、イザヤっていうんだっけ?随分と珍しいものばかり取り扱ってるな。硝子の杯なんて、
それこそ西方に行かないとなかなか手に入らない。」

 薔薇茶の入ったガラス杯を持ち上げて、リショウはイザヤの顔色を窺う。西方まで行ったとしても
それから割らずに持ち帰るのも大概難しいのだが。それをこうしてほいほうと出せるのは、大商人で
もなければ出来ないはずだ。
 イザヤは、その端正な顔にくすりと笑みを浮かべ、

「昔、少々お世話をした方から頂いたのですよ。感謝の品ですので売るのもどうかと思いまして、こ
うしておもてなしに使わせて頂いているのです。」

 さらりと当たり障りのない言葉で返される。

「それよりもそちらこそ随分と大陸についてお詳しい。」
「もともと大陸の者だからな。」
「なるほど、ガラス杯や薔薇茶をご存知とは、それなりのお家の方でしたか。」
「さあ、どうかね。お山の大将ってやつかもしれない。」

 ぐるりとこちらの事を突いてきた。探られて痛い腹ではないが、しかしナチハが隣にいる時に腹芸
などして検非違使達から妙な勘ぐりを受けるのも面倒くさい。
 ここで切り上げるべきだろう。
 仮にこれ以上続けるにしても、一対一でなくては。
 リショウはガラス杯の中にある薔薇茶を飲み干した。