リショウがリツセの様子を見に伺うと、彼女は紙の束を睨み付けるようにして捲っていた。金銀色
とりどりの紙は、別に親の仇のように見られるような代物ではなく、ただ美しいものばかりだったが、
リツセの表情はとにかく硬い。その足元にいる白トカゲ――もとい、たまも、やけに不機嫌そうな顔
をしている、トカゲの不機嫌そうな顔とはどんなものなのかと言われると困るが、とにかくたまは、
その丸い顔いっぱいに不機嫌さを押し出していた。

「よお。」

 久寿玉師であるリツセが紙を捲っているという事は、新しい久寿玉を作るために紙を選んでいると
いう状況なのだろうが、いかんせんリツセもたまも、妙に雰囲気が硬い。これまでリショウは幾度と
なくリツセが仕事をしているところを見てきたが、こんなに険しい表情で仕事に取かかろうとしてい
るのは初めてである。
 正直、声を掛けるのが一瞬躊躇われた。だが、店の中に入り込んでしまった以上、リツセもたまも
リショウがそこに来ていることは気づいているだろう。なのに、リショウが黙って出て行ったら、そ
れこそ空気が悪くなるばかりだ。主にたまの。なので、おそるおそる声を掛けてみると、リツセはす
ぐに顔を上げ、その時の表情といえば、たった今までの険しさなど忘れたように、いつも通りのする
りと涼し気なものに変わっていた。見事な変わりようである。

「いらっしゃい。」

 声にも先程の硬い表情の名残はない。リショウが、おおう、と呆れるほどである。

「今日は何か?」
「いや、ただ、今朝はあんなことがあっただろう?」

 酔っ払いの爺さんが殺されて、離れたところの空き地でも犬のむごい死体が見つかった。だから様
子を見に来たのだ、と言えば、合点が言ったようにリツセは頷いた。

「ああ……かなり噂になっているね。大騒ぎになってはないけれど、みんな不安がって、朝から久寿
玉が随分と買われていったよ。」
「だから、随分と店の中がすっきりしてるのか。」

 リショウは店の棚に、あちこち隙間が出きているのを見て、そういうことかと頷く。
 
「じゃあ、お前がそうやって紙を睨み付けてるのも、新しい久寿玉を補うためか?」
「久寿玉は一か月間ヒルコ様にお預かりしていただく必要があるからね……そんな簡単には補充でき
ないよ。これは………久寿玉の依頼があったからさ。」

 絢爛な絵柄の紙を見下ろし、リツセはそこから何枚かを引き抜く。

「作るのには時間がかかると言ったんだけれどね、それでも構わない、と。」
「そういう客は多いだろう?」
「瀬津郷の人ならね。」

 何か月かかっても別にかまわない。何か月経とうとも、同じ郷に住んでいる以上、リツセが届けに
行くことができる。

「けれどね、その人は行商人なんだ。」
「行商人?」
「そう。普通なら既に出来上がっているものを買っていくんだけれども、その人は新しく依頼をした。
……イザヤ、そう名乗ったけれど、知ってる?」
「んん………聞いた事はあるな。表通りのほうで、珍しいものを取り扱ってる行商人がいるって。そ
いつかな?けど、行商人ならお前の作った久寿玉を別の場所で売り捌くなんてことも、考えられるん
じゃ?」
「………それは、ないかな。」

 リツセは妙に断定した声で言った。何故、とリショウが問うと、リツセは眉間に皺を寄せ、変な事
を聞くなと言わんばかりにたまが足にぶつかってきた。

「その人が、私の考えている人なら、久寿玉を売り捌くなんてことはしない。それがどういうことな
のか、よくわかっているだろうからね。」
「……知り合いだったのか?」

 その割には、奥歯に物が挟まったかのような言い方だ。依頼に来たというのなら、顔は見ているは
ずだろうに。

「私が考えている人――その人には会ったことがない。ただ、噂できいた限りの話に、その行商人が
よく似ている、そういうことだよ。確証がないから。これ以上のことは言えないな。」

 そう言って、リツセは再び紙の選定に入る。次にリツセが選んだのは、上品な落ち着いた色合いの
紙だった。
 選定にここまで気を遣うということは、その行商人というのは――確定ではないにしろ――そうと
うの大物ということだろうか。一度、見に言ってみるか、とリショウは腹に決め、リツセの家を後に
した。





 夜中。  今朝の事件のおかげで、郷の灯はいつもよりも早くに落ちた。行き交う人の影はなく、見回りの検
非違使達だけが静かな郷に不気味な音を鳴らしている。
 そんな検非違使達に行き合うたびに、小さく労いの声を掛けて、別当スイトは自分に宛がわれた屋
敷へと速足で向かっていた。足元を、屋敷に住み着いている水守うねが付き従っている。
 今夜、スイトは宮家を訪問していた。本当ならばもっと早く伺い、伝えるべきことがあったのだが、
ごたごたと仕事が入ったり、宮家のほうの祭事があったりで延ばし延ばしになっていたのが、ようや
く本日叶ったのだ。
 いや、今日訪問することも、本当は差し控えたほうがよかったのかもしれない。なんせ、不気味な
事件が起きたばかりだ。そちらに注力すべきなのかもしれない。だが、スイトが腹に抱えている事も、
これ以上先延ばしに黙っている事が出来るものでもない。
 都で変事あり、など。
 宮家も、薄々何事かあったと気が付いていたようだったが、しかし、内容までは知らなかったよう
だ。
 瀬津郷を管轄する一条家の当主が病死していたなど。
 しかもそれは表向きのことで、実際は賊に襲われて従者と共に川に転落、行方知れずとなっている
など。
 襲った賊は見つかっておらず、人々が動揺しないように病死と偽っているのだと死亡したとされて
いる当主の叔父――今は当主に変わって実権を握っている――の名代は嘯いていたが、どう考えても
叛逆だ。叔父が賊に当主を襲わせたのだ。そして実権を握った叔父は、取り立てた税を一条家に入れ
るよう指示しているのだ。
 ここ最近の瀬津郷の――いや、一条家の直轄地での物の値上がりも、それなら理解できる。値上が
りを押さえるために農家や商人に補填されるべき税が、一条家の懐に入っているのなら、物価が高騰
するのも無理はない。
 このままでは、破綻するのは眼に見えている。更に税を上げるか、補填を打ち切るかをしなくては。
思って、はて、とスイトは首を傾げた。速足だったのを止め、ゆっくりと歩きながら考える。足元を
歩くうねも歩調を合わせる。
 何故、あの当主の叔父は、税を上げたり農民や商人への補填を止めないのか。とにかく派手好きで
お上に近い自分達が金品に恵まれているのは当然という考えの持ち主だという噂のある男だ。下々の、
税は自分達が使うべきものと頭にこびりついているのだ、と同僚達は口を揃えて言う。そんな男が、
税を上げないのは、補填を止めないのは。
 いや、上げない止めない、ではなく。
 上げられない止められない、のか。
 と、足元で、うねが唸った。
 この時、スイトは初めて水守の唸り声というものを聞いたのだが、それに何かを思う暇もなく、目
の前に広がった気配に、はっと足を止めた。
 武家屋敷が立ち並ぶ、綺麗に掃き清められた、しかし人通りの少ない道だ。その奥には闇が広がる
ばかりだ。
 屋敷に灯っているはずの灯りも、何も見えない。
 そのことに気が付いたスイトは、咄嗟に後ろに飛び退った。同時に抜刀し、目の前を斬る。
 がちり、と硬い感触がした。その感触の中から、ぐう、とくぐもった声が零れる。目の前には何も
見えない。ただただ黒々としている。だが、手に持った提灯の灯りが、ふらりふらりと揺れて、辺り
の塀や地面に不思議な陰影をつけている。
 スイトは見た。武家屋敷の壁に、巨大な獣の頭の影が映っているのを。
 犬だ。
 ぼたぼたと口から涎を垂らしている、恐ろしく巨大な犬が、此処にいる。
 犬を睨み付けるうねが、喉の奥から、鋭い威嚇音を出す。鱗を逆立てて一歩も引かない水守の隣で
スイトも刀を犬に突き付けたまま動かない。
 どれだけ時間が経っただろうか。
 目の前から闇が晴れた。塀や地面からも、犬の影が消える。去ったのだ。
 はっと息を吐いたスイトは、犬の口の下にあった地面が、べっとりと濡れている事に気が付いた。
あの犬の、涎だ。血の匂いの濃いそれを睨み付け、スイトは検非違使がこちらにやってくる足音を待
っていた。