瀬津郷はひどい喧騒に包まれていた。酔っぱらいの爺さんがむごい殺され方をしたのだから、当然
と言えば当然のことなのだが、その後に色々と調べて行くうちに他にも凄惨極まることがわかったの
だ。 
 殺されたホロ爺には無数の噛み跡があり、身体は喰い千切られていた。このことから、野良犬ども
の仕業の可能性があるとして、検非違使はこのところ増えている野良犬どもを一掃しようと郷のあち
こちにいる野良犬を探し出した。しかし、野良犬の群れがいると噂されている場所に向かった検非違
使達はその場に立ち尽くし、ある者は呻き、ある者は口を押える事になった。
 野良犬が屯している場所――町の北側の森にぽつんと開いた空き地なのだが、その空き地一面がど
す黒く染まり、あちらこちらにごろりと同じようにどす黒い塊が転がっていたのだ。
 空き地に立ち込める異臭からして、それが一体なんであるのかは、瞭然だった。
 人に噛みつくはずだった野良犬どもも、悉くが引き裂かれていたのである。
 それを聞いた人々は震え上がった。瀬津郷は穏やかな土地だ。いざこざはあったとしても小さく、
大きな事件は外部の人間が持ち込んだもので、すぐに足がつく。しかし、こんなふうに残酷な出来事
は他所から来た者でさえ引き起こした事がない。
 あまりに血生臭い事件に、人々はただただ狼狽え、怯えた。
 検非違使としてもこんな事を仕出かした輩を放置しておくつもりはない。何者であるかは知らない
が、とにかく捕えなければまた同じことをするかも分からない。
 ホロ爺と野良犬どもを引き千切った得物がなんであるのかは、さっぱり掴めなかったが、血の付い
た得物がないか、検非違使達は虱潰しに探すしかなかった。

「だから、お前達も得物を出してくれ。」

 ナチハは原庵の診療所を訪れるなり、リショウを捕まえてそう言った。リショウとその取り巻き連
中が、何やら物々しい武器を持っている事は、誰もが知っている事だ。異国からやって来た珍しい武
器を背負っていれば、それはそれは目立つのだから。
 リショウはナチハの言葉に頷き、己の取り巻き連中にもそれぞれの得物を持ってくるように伝える。

「ってか、家探しとかしないのか。」

 ザイジュに言いつけた後、リショウがふと気づいたように問うた。得物を探すのは良いが、しかし
ご丁寧に殺しに使った得物を検非違使に差し出す奴がいるか。
 尤もな言い分に、ナチハは苦々しく、

「まだ何の疑いもないのに、家探しなんぞできるものか。」


 検非違使が押し掛けてくるだけで嫌な顔をする商家や名家もいるのだ。家探しなど、おいそれと出
来るわけもない。手ぬるいと思われるかもしれないが、こればかりは仕方ないのだ。そもそも、まだ
何も分かっていない。

「こうやって探すだけでも、相当の時間がかかるだろうしな。っと、ほらよ。」

 リショウはさっさと自分の戟を手渡す。その後、それぞれの得物を手にした配下が出てきて、ナチ
ハに手渡していく。
 と、リショウの背後から、昨日餓えた子供の保護を求めた男がぬっと出てきて、ナチハは視線を止
めた。子供だけは急いで医者に連れて行ったが、残された男を検分したのは、他ならぬナチハだ。事
件の日にやってきた男がリショウと知り合いであるという事は、ただの偶然であろうが、それでもナ
チハは検非違使として警戒する。

「知り合いだったのか。」
「ん?ああ………。」

 ナチハの警戒に気づいたのか、リショウは肩越しに男を振り返り、ガクリョウだ、と告げた。

「本当ならもっと早くこっちにくるはずだったんだが、嵐で船が別の港に辿り着いた上に、長雨によ
る土砂崩れで足止めをくらってたんだと。」

 ガクリョウと紹介された男は、ナチハを見ると軽く目礼をした。しょっぴいて調べるか?と問うリ
ショウにナチハは、そこまではしないと答える。しかし、昨夜何をしていたのかは聞いておかなくて
はならない。

「ずっと長屋の中におりましたな。」
「ああ、俺らと今後の事について話をしてた。かなり遅くまで話してた。あとは水守含めて全員で雑
魚寝だ。」

 誰かが起きて出て行こうものなら誰かが気づく。尤も全員が口裏を合わせているとなればどうしよ
うもないが。
 けれども、まだ彼らを疑う理由がない。それ故にナチハはそれ以上の追及はしなかった。差し出さ
れた得物に血が付いていないかを調べてから返す、と告げてリショウ達に背を向ける。その背に、リ
ショウが、

「診療所には寄っていかないのか。」

 あの子供に話を聞かないのか、と問う。

「もう話を聞いても良いのか?」

 正直、子供一人の身元を調べる事などすっかり忘れていた。この凶事にそちらに手を回せそうにな
いのだが。

「今朝、診療所を覗いだら、ぼそぼそと喋っていたからな。まあ、話の内容はなんとも言えないもの
だったけどな。」
「何を話していたんだ?」
「身の上らしきものを。ただし、さっきも言ったけど、何とも言えないもんだった。」

 子供と老人しかいない集落で、子供を縛り付けてその目の前で首から下を埋められた犬を見せるん
だと。




 客足が多い。そしてそのどれもが怯えた音を立てている。リツセは怯えながら縋るように久寿玉を
抱える人々を見つめる。この調子だと、あっという間に家にある久寿玉がなくなってしまいそうだ。
 血生臭い事からは縁遠い瀬津郷で、今回の凶事。人々の怯えは仕方のない事だ。
 店で台帳に書きこみをしているリツセの横には、ぴったりとたまが張り付いている。昨夜のように
鱗を逆立てたりはしていないが、しかし警戒は解いていないらしく、いつもなら丸くなって寝たりす
るのに今日はしっかりと眼を開いて、店に出入りする人の様子を見つめている。
 向かいの小間物屋の看板娘であるチョウノが、北の森の中で野良犬達が殺されていたのだと怯えて
いた。ヒルコ大神がいるから大丈夫だよね、と不安そうに言うので、夜にはこれを炊くようにと、久
寿玉と線香を渡しておいた。
 少なくとも、昨夜はこの辺りには何物も来なかった。線香の煙に乱れはなかったし、たまも警戒こ
そすれ唸るようなことはなかった。
 だが、やって来る物がなんであるのか、それはリツセにも分からないのだ。人なのか獣なのか、は
たまた妖なのか。

「失礼。」

 がらりと扉が開き、客が入ってくる。今日は本当に多い。顔を上げて、リツセは一瞬、どういうわ
けだか声を失った。たまが、微かに鱗を震わせる。

「こちらは久寿玉を取り扱っているとお伺いしたのですが。」
「………はい。お求めですか?」

 端正な顔の男だった。知らぬ顔だ。瀬津郷の者ではない。いや、しかし―――。

「イザヤ。こんな時にうろつきまわって、変な噂立てられても知らねぇぞ。」

 男の後ろから聞こえてきた声に、今度こそたまの鱗が逆立った。威嚇こそしないが、あらん限りの
警戒をしているのが分かる。

「イナ。普通に買い物をするだけで変な噂が立てられるわけがないだろう。というか、来たくなかっ
たなら、お前一人で帰れ。」
「そういうわけにはいかねぇだろ。お前を一人にさせられるかよ。」

 端正な男に言い返す声はぼそぼそとして聞き取りにくく、気弱そうでさえあるが。
 いや、その前に。
 イザヤ。
 男はそう名乗った。その名に、リツセはこめかみを押さえ、改めて男を見る。

「ここに、ご期待に添える物があるとは思えませんが。」
「店先に飾る久寿玉が欲しいのです。ええ、魔除けの意味も兼ねて。」
「店。」
「とってもそんなたいそうなものじゃないんですが。何せ行商人ですから、露店ですね。」
「行商人。」

 イザヤという男と、その背後にいるイナという男。どうしてこんなところで、そんなものを引き連
れているのかは知らないが。それとも、最近の値上がりに何かしら関係しているのか。

「………分かりました。どうぞ、お気に入りのものがありましたら、手にお取りください。」

 リツセの言葉に、男ははんなりと笑った。