蒸し暑い夜だった。
 ごねる子供のようになかなか沈まなかった太陽も、ようやく諦めたのか海の向こう側に顔を隠した。
それでもあちこちに熱が燻り、まだまだ寝苦しい夜が続くだろうと誰もが溜め息を吐いている。
 熱の中に闇が落ち、明かりが灯った職人街の街並みをリツセは見渡して、そして看板代わりに吊る
している六連の久寿玉を取り外した。店じまいだ。
 今日はそこそこの人の入りだったな、と思いながら久寿玉をしまっていく。夏はまだ先がある。水
乞いの人々はこれからもやって来るだろう。ヒルコ大神の加護を求めて、久寿玉を求める者も多い。
 北のほうは長雨だというのに、とリツセは顔を顰める。水が足りないところと、水に沈むところと。
瀬津郷は、その両方とも無縁だ。郷のあちこちから湧く水は瀬津郷が拓かれてから枯れた事はないし、
水路から水が溢れる事はあっても、暮らすに困るほどにはならない。ヒルコ大神の加護深い、幸運な
土地なのだ。
 その、ヒルコ大神の化身とされている水守が、何やら戸口に居座って、じっと夜の闇を見ている。

「たま、どうした。」

 家に住み着く、物心つく前から一緒にいる水守の背に、リツセは声を掛ける。聡い水守は、人の言
葉くらい当然のように理解する。しかし、この時、たまは振り返らなかった。代わりに、きぃと鳴い
た。
 珍しい水守の態度に、リツセはその背に近づく。たまは、夜の帳から目を逸らそうとしない。水守
の後ろから、リツセも夜を覗き込む。ついさっき見回した夜の職人街。灯った明かりが、ちらちらと
揺れている。明かりがある所為か、闇が一層濃くなったような気がするが。
 ひどく、生ぬるい風が吹いた。と同時に、たまが喉の奥で、しゃっ、と音を鳴らした。リツセは、
たまを抱え上げると、ぴしゃりと扉を閉める。慎重にしんがり棒を降ろし、閂を掛ける。

「たま。」

 腕に抱えられたたまは、今も扉の向こうを眺めている。頭を撫でてやれば、その白く柔らかい鱗の
一本一本が逆立っているのが分かった。
 リツセはたまを抱えたまま、家中の戸締りを見直していく。たまはその間も鱗を逆立て、外を見て
いる。
 戸締りを確認し終えて、リツセはたまを床に降ろした。そして素早く戸棚から一つの久寿玉と線香
を取り出す。二十四面体の久寿玉は、その角一つ一つに小さな穴が空いていた。リツセは火を着けた
線香をその穴に差し込み、玄関に置く。ゆっくりと立ち上る煙は、やがて一定の方向に向かって流れ
始めた。
 煙が渦巻くのを見て、たまはようやく逆立てていた鱗を戻した。きぃ、と鳴いてリツセの足元にす
り寄る。

「これで、大丈夫だろう。」

 たまを撫でながら、リツセは呟く。外に何がいるのかリツセには分からない。だが、たまが警戒す
る善からぬものが、この周辺に入り込む事はないだろう。仮に入り込んだとしても、ある一定の決ま
りに従わなくてはならない。それは、線香の煙の動きなのだが。
 ちらりと見た渦巻く煙は、素晴らしく尾の長い水守の姿をしていた。




 長屋にもう一人住まわせることを原庵に伝えに来たリショウは、原庵のすぐそばに、のっぺりと寝
そべる水守を見つけた。診療所に二十年以上住み着いているという、むにである。普段は、雨でも降
らない限り、軒先の涼し気なところで丸まっているのだが、今日はどういうわけだが診療所の中に入
り込み、原庵のすぐ傍にいる。
 ぺたりと床に寝そべったむには、けれども眠っているわけではなく、視線は診療所の隅に寝ている
少女を見つめている。
 ガクリョウが連れてきた少女は、昼間に重湯を飲んでからこんこんと眠り続け、夜になってようや
く目を覚ましたらしい。原庵に身体を支えられて身を起こし、ほぼ液体と化した粥をすすっている。
そして、むにはその様子をじぃっと眺めているのだ。
 そういえば、と、リショウは軽い頭と両肩を思う。いつもはリショウに飛び乗って付いてくる、三
匹の水守が珍しい事についてこなかった。何やらグエンにぴったりと張り付いて、動こうとしなかっ
たのだ。
 此処にいない三匹と、珍しく軒下から出てきたむに。何か、関係があるのだろうか。
 リショウは、粥をすする少女を横眼で見る。水守の様子がおかしくなったのは、今日からだ。正確
に言うなら、この少女がやって来てから、だろうか。それまではあの三匹も普通だった。

「さあ、まだ寝ていなさい。」

 粥を食べ終えた少女に、原庵が穏やかな声で言いつける。明日には、もう少し身動きできるように
なるだろう。その様子を見て、検非違使と話させるかを決めるのだ。
 少女はすぐに眠りに落ちた。くぅくぅと寝息が聞こえてきたのを確かめて、原庵は立ち上がる。

「明日は、もう少し、粥の水を減らしてもいいかもしれないね。尤も、油断はできないが。なにせ、
長い事食べていなかったんだから。」

 夜中に何度か様子を見ないといけない、と原庵が呟く。なんなら、何度か重湯を口にさせたほうが
良いかもしれない、と。それだけ、何も食べていなかったのだ。とにかく体力を戻させないといけな
い。

「むには、」

 リショウが、少女をじぃと眺めているむにについて問うと、ああ、と原庵は頷く。

「昼間、あの子が寝ている時に、もぞもぞと出てきてね。それからずっとああしているよ。」
「他に、何か変わったことは?」

 リショウもどうしてそんな事を聞いたのか分からない。ただ、いつもと違う水守の行動に、何か不
安を覚えたからだ。
 リショウの質問に、原庵も何故そんな事を聞くのかと思ったのだろう。まじまじとリショウを見て、

「水守を連れてきていない事かね。」

 確かに、それは変わったことだ。そしてそれもまた、不安の一因だ。

「少し、気を付けたほうが良いかもしれない。」

 何に気を付けるべきなのか、リショウもわからない。しかし、とにかく妙な予感がするのだ。リシ
ョウの不安が伝わったのだろう。原庵も神妙に頷く。

「戸締りは、いつもよりも慎重にするとしよう。」

 それで、何が防げるかは分からないが。




 朝。検非違使であるナチハは口を押さえていた。商店が連なる大通りで悲鳴が聞こえたのは日の出
とほぼ同時だった。ある大店の飯炊き女が、水を汲もうと表に出たところ、血まみれの足が一本、玄
関先に落ちていたのだ。見つけた女は悲鳴を上げて失神し、その声を聞いた通りの商店から一斉に人
が飛び出してきた。
 そして落ちた足からは一筋の血の跡が残っており、その跡を追いかけた先には、あちこちを食い千
切られてぼろ雑巾のようになった死体が、柳の木の下に転がっていた。
 片足を失い、肩を食い千切られ、腸を食い荒らされているという酸鼻極まる状態に、現場に駆け付
けた検非違使達も絶句した。
 とにかく、これは誰だということで、奇跡的に残っていた顔を見て、これは漁師街のあばら家に住
んでいるホロ爺だという話になった。
 ホロ爺は独り者で、常に酔っぱらっている爺さんであった。いつか水路に転げ落ちて溺れ死んでし
まうよ、と誰もが囁いていたのだが、よもやこんなむごい殺され方をされるとは思っていなかった。

「下手人は、」

 誰だろうと言いかけて、ナチハは口を噤む。明らかに人の手によるものではないように見える。し
かし、検分してみないと分からない。誰かに殺された後、野良犬に食われたという可能性もなくはな
いのだ。
 けれど、とナチハは顔を顰める。
 昨夜、野良犬の声など、しただろうか。