うだるような暑さだった。梅雨も明け、日差しは日に日に強くなるばかりで、朝方のその一際のみ
冷ややかさを感じる、そんな毎日だった。
 あちこちから水の湧き出る瀬津郷でさえ、夏の照り付ける日差しからは逃れる事はできず、水路を
泳ぐ魚も幾分かうんざりしたように尾びれを揺らしている。
 瀬津郷の関所にちょっとした騒ぎが起こったのは、相変わらずの暑い日の事だった。
 神の化身とされている水守を売り払おうとしたあの事件から既に一か月は過ぎようとしているが、
関所による旅人の検分は厳しいままだ。もうそろそろ良いのでは、という声も上がらないわけではな
いが、事が事であっただけに、そうそう緩めるわけにもいかない。それに、つい最近、都から戻って
きた別当スイトも、この関所の厳しさについては特に思う事もないようだった。緩めて欲しいという
商人達の言葉に対し、都から帰ってきてからずっと難しい顔をしていた別当は、今はまだ厳しくある
べき、と返したそうだ。
 もしかしたら、都でも何かあったのかもしれない。
 不穏な囁きが瀬津郷でも――特に商人たちの間で――散見されるようになったのは、単に薬などの
材料費の値上がりが原因だろう。
 税の高い瀬津郷は、その代わりに医者や手習いなどは無償で受ける事ができるようになっている。
また、薬の材料など高騰しがちなものについては、高騰した分だけの金額を税によって補てんしてお
り、値上がりそのものを防いでいるのだ。
 しかし、ここ最近、防がれているはずの値上がりが起こっている。別当であるスイトが、都に行っ
ていたのも、この件があるからではないのかと囁かれているし、関所での検分を緩めないのもこの件
が絡んでいるのでは、と言われている。
 とはいえ、町人達には今のところ詳しいところは分からない。分からない以上、話の種か酒の肴で
しかなく、それ以上の事件に発展することはなかった。
 代わりに、事件は別の所からやって来た。厳しい関所に、ききりとした顔の、如何にも武人然とし
た男が訪れた事が、一見すればすべての始まりだった。
 男は背中に偃月刀を背負い、それ故にどうしたって関所で足止めをくらいそうであったのだが、関
所に常駐している検非違使に先んじて、男のほうが声を掛けた。

「すまないが、この子供を保護してもらいたい。」

 武人然とした要望に相応しい、朗々とした声だった。男の腕の中には、十を越えたかどうかという
少女が眼を閉じて納まっていたのだ。

「水は手持ちのものを与えたが、私が見つけた時にはかなり衰弱していたせいか、食べ物は吐いてし
まった。早めにどうにかしてやったほうがいい。」

 きっぱりと言われて、検非違使は慌てた。確かに、見るからに少女の顔色は悪い。とにかく少女だ
けを先に通すと言えば、あっさりと男は頷いた。早くしてやれ私はここで待っている、と促され、と
にかく医者に少女を連れて行った。
 結論から言えば、少女の具合はかなり悪かったようだ。
 朝っぱらから突然の訪問にもかかわらず、よっこいしょの一言で対応してくれた医師の原庵は、少
女を一目見て、顔を顰めた。そして原庵の手伝いをしている女達に、すぐに湯を沸かして重湯を作る
ように命じたのだ。
 食べさせても吐いてしまう、という言葉に、

「長い事食べていなければ、そうなる。腹が、食べ物を受け付けなくなっているのだ。」

 とにかく、まずは重湯を飲ませて胃に何かを入れても大丈夫な状態にしてから、それから粥に変え
て少しずつ慣らしていくしかない。
 瀬津郷一の名医がそういうのならそうなのだろう。
 やがて、重湯を作った女中がやって来て、少女に重湯を飲ませ始める。ぐんにゃりとした身体を支
えて薄く開いた口に器を添えると、喉が少しずつではあるが動き始めた。ひとまずは、これで様子を
見るしかないというところだ。
 少女が重湯を飲み終え、小さな布団の上に寝かされた頃、一人の男が原庵のもとを訪れた。少女を
瀬津郷まで連れてきた、あの武人だった。
 背中にある偃月刀こそ見咎められこそしたものの、他に怪しいものを持っていなかった男は、少女
を手放した後、関所での検分を終えるとすぐに解放されたのだ。

「ここであの子供が治療を受けていると聞いたのですが。」

 朗々とした声の武人に、原庵は知り合いかね?と問う。武人は首を横に振り、

「あの子供を拾った者です。この郷に向かう途中、露草に覆われた畦道に座り込んでいたのを見つけ
ました。」

 裸足で血だらけで、心ここにあらずと言わんばかりの顔で座り込んでいたから、声を掛けたのだと
いう。しかし、少女の眼はぼやけており、何を聞いても要領を得ない。とにかく水と食料を与えたが、
水は飲めたものの、食料のほうは吐き出してしまった。

「何日も食べていないからだろうとは思ったのですが、粥を作ろうにも材料がなかった。」

 日持ちのする干物くらいしかなかったのだ。それを水でふやかしても少女の胃は受け付けなかった。
  かわいそうなことをした、と呟く武人に、原庵はそんな事はないと告げる。

「此処までつれてきたのだから、大したものだ。しっかり立てる者を連れてこれる者は多いが、病人
を連れての旅は、なかなか辛い。」

 見ず知らずの子供を、水と食料を分け与えてでも連れてきたのは、なかなかできる事ではない。

「しかし、子供が一人で、裸足で歩いてきたとは………。」

 原庵は顔を顰める。
 少女を診た時に、その足が傷だらけであることに気が付いた。古傷ではない。つい最近ついた傷だ。
武人の言葉で、それは確実なものとなった。血は拭われて晒しが巻かれていたのは、武人の手による
ものだろう。
 傷口が歪に開いていたのは、傷が開いたところに更に石を踏みつけたからだろう。裸足で、それほ
どまでに傷をつけてまで、少女が何をしていたのか。
 考えられるのは、何かから逃げてきた、という事だ。足を血だらけにしながらも、傷口の上に更に
傷口を付けても気にしないほどに無我夢中に、走って逃げてきた。
 何から。
 少なくとも、瀬津郷からではないし、そして少女は瀬津郷の住人ではないだろう。瀬津郷では子供
を粗末に扱うなどあってはならぬ事だ。子供が逃げ出すような真似をする事も、子供が逃げ出すよう
な場所に近づけることも、してはならない。
 少女にどのような謂れがあるかは分からないが、逃げ出すほどの奇禍に見舞われた少女にとって、
瀬津郷に逃げ込めたことは幸いだろう。瀬津郷は、ヒルコ大神の威光により、如何なる子供も守られ
なくてはならないからだ。
 原庵は、ただ、少女が歩けるようになるまで、その身を癒してやればよい。少女の謂れについては、
検非違使達が調べるだろう。
 不意に、奥の扉が開いた。

「朝っぱらから随分と騒がしいな……何かあったか?」

 薬売りとして雇っている青年が、両肩と頭に一匹ずつ水守を乗せて現れる。そして、武人を見て、
もう一度見た。見事な二度見である。

「ガクリョウ………?」

 正に、ぽかんとした顔のリショウに、武人もしばし立ち尽くしたが、すぐに礼を取った。

「長らく御身の前を離れた事をお許しください、リショウ殿。ガクリョウ、ただいま参上いたしまし
た。」