黒い影が夜の畦道をひた走る。ほとんど、身体を地面に伏せるようにして、滑るように駆けていく。
着物の裾を道脇の露草に溜まった夜露で濡らし、そしてその夜露を振り払いながら、川も関も飛び越
えて、犬のように息を吐きながら、そうして辿り着いた先は小さく、しかし異様に暗い山の中だった。
 古びて、けれども朱塗りの妙に鮮やかな鳥居を影は潜り抜け、

「誰じゃ!」

 しわがれた誰何の叫びに立ち止まった。
 ゆっくりと爛々と光る眼を声のほうに向ければ、そこに立っているのは二人の老人だ。一人は腰の
曲がった老婆。もう一人はやせ細った老爺だ。

「おのれ、何者じゃ。ここにこんな時に来るとは、只人じゃああるめぇ。」

 訛りの強い老爺の声に、影は無言だった。ただし、只人ではない、という言葉を耳に入れた瞬間、
その口元に深い笑みが刻まれた。
 しかし、その笑みは、暗くてそして眼も悪くなっているだろう老人達には気づかれなかった。気づ
いていたなら、恐らく彼らは目の前にいるのが、只者ではない、という言葉だけで終わらせはしなか
っただろう。
 只者ではない。それだけではない。
 れろ、と影は口から舌を延ばし、唇を舐めた。文字通り、舌なめずりだったのだが、それさえも老
人達は気づかない。二人はそれぞれの手に鉈を持っている。何をしようというのかは明白だ。
 声も発さず、老爺が影に突っ込んできた。
 鉈は影に突き立てられる。
 その前に、

「お、」

 老爺の口が歪に開いた。
 影の手の中には錆び付いた刀が、ずっしりと輝きなど知らぬかのように収まっていた。その、赤錆
びた刃は、老爺の腹を斜めに抉り斬っていた。
 どう、と老爺が倒れる直前に、老婆も突っ込んでくる。
 しかし、動かなくなった老爺を何の感慨もなく蹴り倒した影は、老婆も同じように錆び付いた牙で
その折れた腰を抉り斬る。
 同時に、影は、男は、ふとその場から飛び退った。
 ほとんど本能のようなものだった。濃厚な線香の香りと共に訪れた、自分と同等の獣と人が混ざり
合ったものの気配。闇を割り開いて、白い煙が目の前を通り過ぎ去った。その背面にへばりつく人の
顔と一瞬だが眼が合い、それが笑ったと思った瞬間に、煙は晴れ、残っているのは斃れた老人二人の
死体だけだった。
 二つの死体には、男が抉り斬った傷口の他にもう一つ、首に獣に噛まれた痕がある。斃れた二人の
傷口からは、なみなみと血が流れ滴っている。老人の中にこれだけの血があることが不思議なほどに。
 ちっ、と舌打ちが知らず知らずのうちに込み上げてきた。
 せっかく、せっかく久しぶりに、本当に久しぶりに、人を殺しきれると思っていたのに。行商人の
形に丸まっているのを解いて、人を殺しても良いと命令されたのに。
 あれは、朝廷の敵だ。
 狗神は、かつて朝廷に逆らって、海を隔てた粟の郷に追いやられた者どもの呪い。その呪術師の子
孫どもが朝廷に近づいているのだ。朝廷に与する者全てに呪いをかけて混乱を齎そうとしているのだ。
 それが、一条家を襲った何がしかと関係があるのか、それは分からない。
 ただ、明らかに敵だから、そして背後にいる誰かを炙り出す必要もない、殺しても良い敵だから。
だから殺しても良いと、久しぶりに命じられたのに。
 苛立ちと、赤錆びた刃を隠しもせず、爛々と光る眼をあちこちに走らせる。黒々とした木々の隙間
からは、朽ち果てた家の影が見えるばかりだ。二人の死体を置き去りにして、朽ちた家の一つに向か
うと、くちゃ、くちゃ、と何かを咀嚼する音が聞こえ始めた。獣が、獲物を食い漁る音に聞こえる。
普通ならば熊か狼か、と身構えるべきなのだが、男は、にたりと笑った。
 錆びた刀を片手に、音のする家の中に入っていく。
 朽ちているけれども、小奇麗に片づけられているのは、先程の老人二人の仕業か。けれども、どれ
だけ綺麗にしたところで、血の匂いを完全に消腹す事などできない。
 ふと、咀嚼音が消えた。
 どうやら、獣のほうも、こちらに気が付いたようだ。
 がらりと障子戸を開けると、畳の上に血が滴っていた。転がっている三つの死体。一つは老人で頭
が割れている。残る二つは子供で、首に絞められた痕がある。そしていずれも腹が噛み千切られ、腸
がはみ出ている。
 それら全ての中央に坐しているのは、薄紅の着物で着飾った少女だった。うっそりと笑い、しかし
その笑みを湛えた口元は血で赤黒く染まっている。ここで何が起きていたのかは、考える間でもない。
咀嚼音の主も、少女の口元の血が誰のものであるかも。
 少女が、何者であるのか、は、もう、どうでも良い。
 人であるのか獣であるのか、はたまた男と同じで両方になり損なったのか、それとも神まで押し上
げられたのか。
 どうであれ、男は少女を殺すだけ。
 そう、命じられた。
 けたけたと、少女が笑い始める。少女の心が何処に揺蕩っているのか、男には分からない。少女と
同じところまで行けば楽なのかもしれないが、それはもう、男の求めではない。ただ、命じられたま
まに殺す。
 少女の唇が上下に大きく開いた、そのただ中に、一閃。赤錆びた刃が獣の牙のように抉り込み、そ
のまま少女の頭半分を引き千切った。





 空が白むよりも随分と前に、かさかさと黒い影が関を飛び越し、旅籠の用心棒達の視線の端を掻い
潜り、するりと客室に潜り込んだ。
 綺麗に揃えられた二組の布団の、その一つの上に、すらりと背を伸ばして正座をしている姿形を見
つけ、男は鞘に納められた錆びた刀を手に持ったまま、その前に蹲る。

「首尾は?」

 笑みが薄っすらと含まれているのかと思うほどに物柔らかな声で、イザヤは闇と同化しそうなイナ
に問いかける。

「問題ねぇ。」

 蹲ったまま、イナはぼそぼそと答える。

「じじいとばばあ。その二人と、狂ってるガキ一人。片づけてきたぜ。」

 言ってから、いや、とイナは否定する。

「じじいとばばあは、俺が殺しきる前に、何かが噛み砕いてたかもしれねぇ。」
「ああ、どうせ、呪いでも返ってきたんだろう。」

 イザヤはなんでもない事のように言う。

「今までは子供に呪いを肩代わりさせていたが、今回ばかりはそうもいかなかったんだろう。ここは
奴らの地ではなく、奴らの神とは別の神の土地だからな。仮に奴らが自分達の神を連れてきても、流
石に神々の長兄には叶わんだろう。」
「……お前の言っていることは、俺にゃさっぱりだが。」

 奴らが朝廷の敵だとか、どこから来ただとか、そんなことはイナには良く分からない。
 ただ、分かったのは。

「ガキは確実に俺が殺した。」

 俺と同じだったから。
 そう呻いたイナの頭を、イザヤは自分の膝の上に乗せる。

「さて、お前はもしかしたら気狂いかもしれないが、俺が手綱を握っている以上、野放しのあれらと
同じではないだろうよ。」
「けっ。」

 イナは吐き捨て、それでもその場を動かなかった。